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2010年4月 1日 (木)

「歌舞伎」~言葉の調べ

ギタリストの増井一友さんが、4月11日に世良美術館(阪急御影駅そば)で新作を含む演奏会をなさいます。詳しくはリンク先記事にて。



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2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」(東京3月18日、終了:小倉貴久子さんと大井浩明さん、京都4月3日・4日:河野美砂子さんと大井浩明さん、各々30名様限定です)詳しくは記事中のリンク先をご覧下さい。バナーをクリックすると大井浩明氏のブログ記事を閲覧出来ます。
なお、大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。



落語の話題から自分への宿題が出てきましたので、日本の近代芸能で続けてみます。

題材が「歌舞伎」となると、これには鳴り物も入れば唄も入りますから、音楽そのものについて触れていきたいのか・・・というと、ちと違います。
読みの対象は「セリフ」の演じられかたです。
(歌舞伎の「下座音楽」や「浄瑠璃」をみていく、となると、同時並行で、少なくとも、落語に関連して「出囃子」もみていくべきだということになりますが、そうなると、今とりあえず考えてみたいこととは離れてしまいます。)

これは、歌舞伎俳優さんについての評論や、俳優さん自身の「芸談」の類にも、そんなに数多くは見かけないものです。

とはいえ、歌舞伎が、ツウとまではいかなくても、いくつか有名作を知っていれば、
「あ、これは、あの演目だ!」
耳で聞いただけでもそう判断させてくれるものがあります。
判断させてくれるのは、そんな「半端な愛好者」である私にとっては、笛や太鼓の音でも浄瑠璃でもなく・・・常盤津だとか清元だとか・・・って区別すらおぼつかないレベルなのですから・・・、俳優さんが声に出す「セリフ」のほうなのです。
それも、セリフの中身で判断できるのではなく、むしろ声の高低・イントネーションや延ばされ方やスピードなのだ、というところが、面白い。

たとえば「勧進帳」なら「勧進帳」で、各場面の小さな個人差はあるものの(この小さな個人差が前回落語で志ん生が語っていた<工夫>にあたるのでしょうか)、大枠で見た時には、誰が演じているかによらず、ひとつひとつの言葉に与えられた抑揚は同じであり、俳優さんの声質の違いにもかかわらず、<語られる>高さまで同じだったり似通ったりしています。

中から「山伏問答」の場面を、YouTubeにあるものと新潮社『歌舞伎名セリフ集』収録の二例だけお聴き頂きます。ぜひ、他に演じられたものとお聴き比べになってみて下さい。CDも何種類も出ていますし、DVDもあります。

・十五世市村羽左衛門〜富樫、七世松本幸四郎〜弁慶、1930年代?

・八世松本幸四郎〜富樫、十一代目市川團十郎〜弁慶、1962年
山伏問答

こうしたセリフ回しは、セリフであるだけに、楽譜などというものを媒介にはしていません。・・・見たわけじゃないから断定しちゃいけないか。では「していない、と思います」。

では、どうやって伝えられているのか。

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お若い時から「勘九郎」として精力的に活動してお客さまにもその実力を高く評価され続け、平成17年にお父様の名跡を正式にお継ぎになった十八世中村勘三郎さんは、いくつかのご本もお書きになっていますが、その中の文庫化もされたものに、「セリフ」相伝の一断面を読み取れる記述が数か所あります。もっとも具体的な二ヶ所を引用しましょう。(「勘九郎日記『か』の字」、集英社文庫〜原著2004年)
この本、実は、初めての歌舞伎経験が勘九郎さんの『夏祭浪花鑑』だった私にとっては、数ヶ所涙してしまったくらいいいお話に満ちているのですが、記事中ではあえて載せません。

「たとえば『そなた』という言葉がある。普通、時代劇などでは、『そ』にアクセントをつけていうが、これを言うと、(注:父の勘三郎丈が)大変に怒った。/「バカヤロオ、ピアノソナタじゃねえんだ!」と。/正式には「な」にアクセントをつけて、粗末な鉈の意味の「そ・なた」なのだ。/台詞の間に関しては、『台詞の間は切っても、息を切るな』と教えてくれた。しかも、それも舞台の上で実際に教えてくれたのだ。何の舞台だったかは、詳しいことは忘れたが、ある芝居で、私は父と共演した。父の台詞が終わって、私の三行の台詞を言う場面だった。一行目と二行目の『間』、二行目と三行目の『間』。この『間』のとり方を父自身の息で教えてくれたのだ。/たとえば、私が最初の一行を、『あっ、何が何してなんとやらぁ・・・・・・』と言う。すると、隣にいた父は、『スーッ』と息を吸い込む。これが長い。そして、息が切れた時、私が二行目の、『何が何してなんとやら』と言うと、父が『ハーッ』と息を吐く。そして、父の息が聞こえなくなったら、最後の『何が何して、あっ、なんとやらあ・・・・・・』と言うのだ。」(文庫版p.97~98)

「私は若い頃、『仮名手本忠臣蔵』の勘平を演じるにあたって、台詞まわしを父のテープで必死に稽古したことがあった。一字一句はもちろんのこと、間のとり方、息継ぎ、すべてを真似したわけである。/それで、一度、父の前で台詞を言わされた。すると、父は厳しい表情を浮かべながら、『遅い!』と大きな声を放った。私は、秒数まではかって自分で稽古をしていたから、台詞まわしのスピードには自信があった。/『どうして? パパのテープで練習したんだよ』/父は私の言い分をただの言い訳としか考えていない。あまりにも私の言うことを信じてくれないので悔しいから、そのテープを父に聞かせた。カセットデッキから流れてくる父の勘平の台詞は、その時の私と同じテンポだった。/父は気まずい表情を浮かべながら、『これが俺の声か?』と一瞬、首を傾げたが、『これは俺のまだ若い頃の台詞まわしだ。とにかくもっと速く言うんだ』と言った。/どうも、台詞にしても、所作にしても、若い頃というのはテンポが遅いようだ。それだけ思い入れもあり、どこかで考え、考え、演じているのかも知れない。」(p.212〜213)

韻律を持つ(という言い方で適切かどうか)言葉の芸、としてのもっと突っ込んだ話は竹本住太夫「文楽のこころを語る」(聞き書き、文春文庫)で発声法・呼吸法のことまで含め住太夫さんが聞き手に対し懇切丁寧にお話しになっています。内容の性質上、体系立てて、というのではなく、<語られる>浄瑠璃に即してのお話になっているのですが、これはトージ=アグリコラ「歌唱芸術の手引き」と比較してみるときに有益なのではないかと思っております。もしそのようにこの「読み」の試みが展開していく時には精読しなければならないなあ、と思っております。

伝統が連綿と続いている歌舞伎や文楽、そして能などについては、こうしたことが口承ならびに体を使った伝承で正統に伝え続けられているのではないか、との推測が成り立ちうるかも知れません。

では、伝統が中絶してしまった、あるいは中絶してしまったことがある芸能、というものは、どのようにして「伝統」を再構築し、「正統」を築き上げるのでしょうか?

これもまた引き続き、まずは日本の例で見ておきたいと思います。



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日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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