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2010年4月 6日 (火)

断絶なのか同化なのか・・・日本「現代音楽」(1)

ギタリストの増井一友さんが、4月11日に世良美術館(阪急御影駅そば)で新作を含む演奏会をなさいます。詳しくはリンク先記事にて。



これははてさて「伝統」からの離脱なのか、それとも「伝統」への新しいアプローチなのか、その境界が私のような暗愚の徒には明確ではない類いの音楽について・・・やはりまずは日本音楽の延長としてのそれから眺めてみたいと思います。

一見そうではないところから話を始めます。

かつて岡田暁生氏が中公新書『西洋音楽史』

「20世紀前半のことを知っているわれわれは・・・西洋音楽史の連続性の自明をもはや無邪気に信じることはできない。第二次世界大戦を境にわれわれは、西洋音楽史の終焉ということを射程に入れなければならないのである」(p.219)

と述べました(2005年)。
このことと併せて、岡田氏が

「思うに、20世紀後半の音楽史風景は、『三つの道の並走』として眺められるべきである」

とし、その第1は芸術音楽の延長としての<前衛音楽>であり、第2は<巨匠によるクラシック・レパートリーの演奏>第3は<アングロサクソン系の娯楽音楽産業>だ、なる総括を行ないました。(p.221-225)・・・いちおう、これはあくまで『西洋音楽史』の枠組みの中での、ひとつの見方であると理解しております。

いずれも、そう決めつけてよいものかどうか、私はずっと疑問だったのですが、第2、第3のものについては当面考える射程に入れておりませんので、のちのち必要が生じた時の備忘のために、「岡田氏がそのようにまとめている」ということを記しておくにとどめます。
第1のものについては、先日、電子音楽の世界を扱った書籍で述べられていた次のような言葉で、20世紀後半における「西洋音楽史の終焉」という見方が生まれてくる余地があったことについては腑に落ちました。

「かつて『音楽』とは、『作曲家』の脳内で、唐突に鳴り響いて生まれ落ちたり、あるいは一定の時間を掛けて醸造されていくものだった。・・・(中略)・・・また、そのプロセスと並行して、ひとびとが『音楽』する『道具』としての『楽器』の誕生と発展という過程があった。・・・(中略)・・・『電子音楽』の登場という出来事は、『歴史』の発展過程の内に、ごく自然に収まりよく位置づけられる一エピソードなどではなく、むしろそれは、当の『歴史』自体を大きく変質させてしまうほどの強度のポテンシャルを備えた、まぎれもないひとつの『事件』だったびであり、そこで『歴史』は暴力的に切断され、ほとんど別の何ものかへと変貌するかの失せさえあったのだ・・・」佐々木敦「テクノ/ロジカル/音楽論」p.51-54、RittorMusic 2005)

私は電子音楽にはそれほど馴染んでいませんし、ここで電子音楽だけがピックアップされているのも書籍の性質上そう記述せざるを得なかったのだろう、程度に軽く読んだに過ぎません。単純に考えても、電子音楽だけがこのように切り離されるのは、電子音楽作曲の大御所となったシュトックハウゼンや、とりわけクセナキスにも、電子音楽ではない作品が存在し、それはいまだに『楽器』に依存していると言えば言えなくもなく、かつ、それでもなお、『楽器』に要求する語法は明らかにそれ以前と変貌しており、佐々木氏の言わんとする「切断」は奏楽の世界でも行なわれている事実を考慮すると、佐々木氏のこの記述は、岡田氏が<前衛音楽>として括ったすべてのものに敷衍しても差し支えなかろう、と思ってしまうのです。・・・この捉え方は、誤っているでしょうか? ご指摘ご教示を頂ければ有り難く存じます。

敷衍出来ることを前提とした時、「前衛音楽」の名言のアンソロジーとしても面白い佐々木著書の文脈が次のように続いていくところは、大変興味をそそります。佐々木氏の引く、グレン・グールドの言葉です。

「電子音楽に今日どのような限界があろうと、あるいは、電子音楽がそれ以前の伝統的なかたちの音楽づくりに与えてきたあの『フィードバック』刺激がどのようなものであろうと、電子音楽特有の構築方法の多くは、ひじょうに楽々と伝統的な器楽語法および声楽語法に乗り移ってしまった」(p.65に引用されているもの)

結局のところ、先の佐々木氏の記述と佐々木氏の引用したグールドの言葉を総合すると、それは岡田氏が「芸術音楽の延長としての<前衛音楽>」というものと、ほぼ一致を見ます。

ところが、だとすると、「芸術音楽の延長としての<前衛音楽>」なるものは、佐々木氏の方の内容を勘案したとき、考えをどう転ばせてみても、結局のところ従来の西洋音楽から『切断』された新しい対象となることに成功したとは言えず、したがって、岡田氏の言説に戻ってまた考えますと、「西洋音楽史」を終焉させるものとの位置づけも持ち得ない、という結論に達さざるを得ない気がします。

佐々木氏の引いたグールドの言葉にもかかわらず、やはり同じ佐々木氏がクセナキス関連をまとめた章の中で引いている幾つかの言葉は、「切断」を試みながら失敗したかに見える<前衛音楽>の試みが、「切断」というよりは発想の大転換だと解しておく方が無理がないのではないか、との思いをも、私に抱かせます。
注目すべきは、クセナキスについてまとめている佐々木著の一章で重要な役割を演じているのは、クセナキスと同時代、もしくは彼に師事した日本の音楽家のことばたちである、ということでしょう。

その中から、本来は引用されたうちの後半部分のほうが大きな意味を持つであろう高橋悠治氏の言葉の最初の部分だけを取り出します。クセナキスから受けた講義の思い出をかたったものなのでしょうか。

「ベルリンのはずれの、いまはない家から郵便局へむかう森の小道を歩きながら、パルメニデスの『存在』からピタゴラスの『数』、プラトンの『多面体』を通ってエピクロスの『偶然』にいたる古代ギリシャ哲学史の講義をうけたことを思いだします。/またニューヨークの空港のカフェテリアで言われたことば、『人間は時空の認識にしばられている、この悲しいガラスの箱のなかの迷路からぬけだして、ここが二億光年のかなたであり、いまがいつもあるような存在にめざめることができるだろうか』・・・・・・はきのうのようによみがえります。」(佐々木著p.85-86に引用)

クセナキスは、直近の「伝統」ということは念頭になかったにしても、存在がかかえてきた、そしてまたかかえていくであろう長大無辺の時空を常に念頭に置いていたことを、この高橋氏の回想が窺わせてくれるように思います。

いっぽう、同じ著作に引用された、日本そのもののなかで<前衛音楽>の一線を築き上げた刀根康尚氏がかたったことばもまた、非常に印象的なものです。

「ぼくの感じでは、一番大きな出来事ってのは、六十年代から八十年代にかけて、現代音楽と言われている『クラシック音楽』は、印度音楽とか歌舞伎とか能の伝統音楽と同じようにもうこれ以上発展しようがない、いわゆる『ヨーロッパ人の民族音楽』になってしまったということがある。つまり、芸術音楽としての『西洋音楽』はただの『音楽』、ジェネリックなものになってしまった。言い換えれば、音楽が芸術から分離したってことだ。それが非常に大きいと思う。」(佐々木著p.154に引用)

この言葉は、直接的にかどうかは私には分かりませんが、21世紀に入っての日本音楽の創作活動に発想が引き継がれているように感じられます。すなわち、最近盛んに書籍が出るようになって一般の見直しも進んでいる「日本における洋楽の受容」とはどうも違ったなにものかが、欧米風の仮面(楽器や手段)を通じてではあれ展開されている(実際には単純に欧米風の仮面だけをつけているのではなく、様々な混淆が当然のように行なわれている)、すなわち、どうも現在の日本における「まだ現代音楽としか呼ばれていないもの」は、実は「いわゆる洋楽」なのではない、ということが言えそうな気がしてくるのです。それを、まず前提として「西洋音楽史」の延長と単純にとらえてしまうことは、もしかしたら視点のとりかたを過たせることになるのではないか、とも思うのです。ですので、岡田氏が『西洋音楽史』としてとらえているものとも区分してみていかなければならないかも知れない。

ただ、このことはよくよく見つめていかなければ分からないことではあるかも知れません。私の理解はそこまでに及んでおりません。

そこで、21世紀の、少なくとも日本における創作家さんたちについて学ぶのはもう少し先の宿題として置いておき、とりあえずは20世紀後半にヨーロッパの主要な作曲家たちからも大きな刺激を受けながら独自の道を模索した「日本人作曲家」の楽屋裏を覗かせてもらえる書物を通じて、

これははてさて「伝統」からの離脱なのか、それとも「伝統」への新しいアプローチなのか

ということを、少し重ねて考えてみたいと思います。



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