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2010年4月20日 (火)

破壊者か継承者か? グスタフ・マーラー(2)

Matthew・・・で、入り口だけを除いて、マーラーの話にはならないかも知れません。

ただし、マーラーがしたことが何か、ということから見ておかなければならないでしょう。

第1には、コンサートホールを完全閉鎖空間としたこと。
それまでは曲の途中でも入退場自由だったホールに、シンフォニーの楽章途中やオペラの幕間はお客を入れないことにして大不評を買ったことはあまりにも有名です。
このことの先駆をなしたのが、ヴァーグナーのバイロイトであるのもまた周知のことです。バイロイト建設のずっと以前から、ヴァーグナーは閉鎖空間での音楽享受が理想である旨を著述していました。(同じ著述の中にイタリアに対するドイツの優位云々等の主張もありますが、その問題については当面考えません。もし必要になれば、ということにしておきます。)

ヴァーグナーとマーラーの違いは、前者は既存の場所に閉鎖空間を求めるまでの無茶をしなかったのに後者はやってしまった、というところにあります。

第2には、管弦楽曲の、古典派までの楽曲のスコア改変・・・オーケストレーションや、場合によって音そのものの変更・・・をなしたことで、これもやはりヴァーグナーに端を発し、20世紀の後半にまで「正統な」方法として指揮者たちに踏襲されました。余談の類ではありますけれど、近衛秀麿が渡独中、フルトヴェングラーから、指揮者は自分なりに改変したスコアを持つことが大事だ、という意味の教唆を受けたなる話も、近衛の伝記中に記載されています。彼はドイツで学んできたこの流儀を生涯貫きました。ヴァーグナーに端を発するベートーヴェンの全交響曲の管弦楽改変についての総括ともいえるべきものはヴァインガルトナーが『ある指揮者の提言』という書にまとめ、これは一種のバイブルとして読まれ続けましたし、日本語訳もあります(入手困難)。マーラー自身が手を入れたベートーヴェン「第九」第3楽章冒頭部および第4楽章冒頭部の写真は、前回挙げた渡辺氏の本で見ることができます。
改変はベートーヴェンの楽曲にとどまらず、シューマンの交響曲だとか、さらにはバッハの管弦楽組曲にまで及んでいます。

これらのことのうち前者は現在も「是」とされていますが、後者は否定されることが主流になりました。後者の否定を正面切って始めたのは
「改変などしてはならない」
と言ったというトスカニーニ、ではなかったことが、皮肉にも今日明らかになっています。
否定で一貫した姿勢をとり続けたギュンター・ヴァントは、改変を否定したことで(というよりも、「さあ、やりましょう、フルトヴェングラーのようにではなく」と口にしてしまったことによって)、フルトヴェングラーに親しんでいたオーケストラの楽員たちから不興を被った、なる話も、いまでは評伝で読むことが出来ます。

最初の「空間」の閉鎖については貴族社会から市民革命を経てブルジョア社会へ、という絡みもあって、たいへん単純に割り切って言ってしまえば、それまで貴族ならば堪能していた「閉鎖空間」をブルジョアが引き継ぎたかったからそうなったのだ、と決めつけても、さほどのズレはないかも知れません。
ただし、その場合でも、「閉鎖」の意味合いが違ってしまったことにだけは留意しておかなければならないのでしょう。
貴族的な「閉鎖空間」は、どこまで突き詰めても<特権>による以外の何物でもなく、そのなかで聴衆となる貴族は演奏中に私語を交わしてもなんの問題もありませんでした。
ブルジョア的な「閉鎖空間」も、音楽家と別次元の端緒を考えるならば、貴族の<特権>を自らのものにしたかっただけだ、とみなされていますし、それはそれで間違いではなかろうとも思います。
ただ、後者は、まずヴァーグナーのバイロイトで、さらに極端にはマーラーのウィーンで実現されたとき、私語を許さず、そこで音楽家が奏でる音響のみに耳を澄まさなければならなくなった点で、それ以前の「閉鎖空間」とは全く違ったものになりました。
大衆的であることと一線を画したい音楽がヴァーグナーやマーラーの内に発生し、聴衆は最初はそれを甘受することを強制され、しかし、どういう経過をたどってか・・・これが意外なことに明確とは言えません・・・聴衆にとっては当たり前のことと化してしまったのです。

ヴァーグナーの、とりわけバイロイト以外では演奏してくれるなと遺言された「パルジファル」を嚆矢として、全ての「非大衆」音楽は、神事と化してしまったわけです。その絶対的な位置を決定づけたのは、マーラーだということになっています。

この点、「音楽の閉鎖空間」は<伝統的>なものの継承ではなかったものの、新たな<伝統>を形成した、とみなすことが出来るでしょう。そして、このことが、マーラー以後の作曲家の創作に対する姿勢に大きな影響を及ぼしたのもまた、否めないのではなかろうかと思います。
少なくとも音楽作品上のバカ騒ぎは容認していたリヒャルト・シュトラウスの方は、とうとう音楽作品の正統な後継は生み出さなかった、とみなしてしまったら、間違いでしょうか?

第2の、音響の改変問題は、おそらく空間の問題とも密接に絡んでいるのではないかと思われます。
音が注意深く聴かれなければならないからこそ、「楽器が不完全だった」時代の音楽は編成や受け持つ旋律まで「補強」されなければならなかったのかも知れません。
近衛秀麿指揮のベートーヴェンの第九は、チューバまで加えられているのがはっきり聴き取れます。そして、そのことなどによって、大編成では隠れがちな細部が明瞭化されていることをも、私たちは知ることができます。
マーラーが、その活動の絶頂期に既に巨大化していたオーケストラに対し、オーケストレーションを変えたベートーヴェンやシューマンを演奏させた意図もまた、巨大化したオーケストラの中で「作曲家が本来書いたもの」を明瞭に聴衆に知らしめる意図からなされたものであったことは、渡辺氏の著書に記述されているとおりであったろうかと感じます。

改変を否定した演奏が市民権を得たここ10年くらいになって、その波は、改変を認めて来た従来のオーケストラに向かって逆流を始めており、
「では、なぜそれまで改変が是とされてきたのか」
については客観的な議論はまだ少ない気がします。

さらに、改変を是としてなされた録音、とりわけフルトヴェングラーを筆頭とした「名指揮者」の残した数々は、なお高く評価され続けているのです。

断層が明確にあるのは、さらに古い指揮者によってなされた演奏の録音に対する評価で、私自身あるとき人にメンゲルベルクの指揮したチャイコフスキーの交響曲の録音を聞かせたら大笑いされた経験がありますし、それは私にとっても「滑稽な」聴きものだったのでした。

ですが、笑うべきなら、フルトヴェングラーのバッハ演奏などはメンゲルベルクのそれと実は大差がないのであって、そこに共通する要素をこそ笑うべきであったかも知れません。
極端な緩急、極端なフォルテとピアノの差は、フルトヴェングラーのベートーヴェンやブラームスでもメンゲルベルクとの共通点を多々持っているのですけれど、「良いもの」という評価を前提とした耳で聴きなれているがゆえに、それが極端だとは捉えられることがありません。
ではなぜメンゲルベルクの享受のされ方との間に断層があるのかとなりますと、これは「第二次大戦で切り捨てられた存在になったか否か」の一点にしか存在しないのではないでしょうか?
じつは、私や知人が笑ってしまったメンゲルベルクのチャイコフスキー演奏にしたって、フルトヴェングラーのそれとどこまで違うのか、となると、思ったほどの差がないのです。その上、チャイコフスキーの交響曲の演奏については、フルトヴェングラーは新進のカラヤンと火花を散らしあった、そこでひいきが二手に分かれた、みたいな逸話まであるくらいなのです。

ですので、録音の知名度の高いベートーヴェンやチャイコフスキーであっさりとフルトヴェングラーとメンゲルベルクを比較する際には、現代の私たちにとって既存となっている価値観が耳を大きく左右する度合いが高まってしまいます。

バッハならば、それが薄まるため、お聴き比べになればおそらく
「あんまり違わないんじゃないの?」
との印象に落ち着かれるかと思います。
バッハで二者の相似点が強く感じられる要因は、近年の常識からいえば明らかに大きすぎる「19世紀末~20世紀前半」編成で演奏された音響に求め得ます。
それを、いまの私たちは
「大袈裟だなあ」
と、簡単に笑うことができます。

ところが、とくに今度はメンゲルベルクによる「マタイ受難曲」の実況録音で、そんな私たちが驚くべきものを耳にすることになります。
演奏の途中で、感動の涙にむせぶ聴き手の嗚咽が明確に録音されているのです。

この、私たちにとっては(おそらくどなたにも)「喜劇」としか聞こえないような「マタイ」演奏に、当時の聴衆は紛れもなく「感動的な悲劇」を聴き取っていた、という事実を、私たちはどう考えたらよいのでしょう?

マーラーが寄せた信頼からして、もしマーラーが録音を残せたとしても同じ傾向であっただろうバッハ演奏の持つ「大きすぎる規模・起伏」は、むしろ私たちとマーラーの時代との断絶を強く訴えた証拠として聞かれるべきものなのではなかろうかと思われます。

メンゲルベルクその人もマーラーの編曲したバッハの録音を残していますが、最近ではシャイーがクリアな音響で聴かせてくれていますので、
「マーラーのイメージした」
バッハを、それでちょっとだけお聴き頂いて、今回はそこまでとしましょう。

・マーラー編「バッハ組曲」序曲
 (マーラー編バッハ)
Riccardo Chailly/Royal Concertgebouw Orchestra DECCA 475 514-2

・・・音を掲載できますので、あえて言葉にはしませんが。
・・・びっくりなさる要素がずいぶんたくさんあるのではないでしょうか?
・・・ただし、それとともに、ここから「改善」された20世紀中葉の演奏もまた類似の音響を残していることにも思いを致しておくべきでしょう。よくよくお聴き頂くと、カール・リヒターによる演奏に近い色合いをも持ち合わせていることにお気づきになるかと存じます。

こうなってくると、考えるべきはまず、こうした音楽の演奏のされ方が、実はマーラー直近の「過去」は案外正直に継承していたのではないかという点であり、しかもそれが、現代とバッハ当時との両面で「断絶」しているという点になるのでしょうか?
したがって、マーラーに代表される世代を単純に破壊者であるとも継承者であるとも見なせないなにものかが、マーラー世代当時と前後とのあいだに深く刻印されているはずではないか、それをどう探るか、が課題ということになっていくのでしょうか。

バッハを例に出しましたが、バッハならばメンデルスゾーンによる「マタイ」蘇演を丹念にフォローした研究があることはご存じのとおりです。ストレートにそちらに向かった方が分かりやすいのか、それとも後期ロマン派の流儀から遡りつつたどるべきなのか、は、まだ考えあぐねております。
20世紀側の「断絶」を検討するのは、機会があればということにしておきます。まずは過去を辿れるかどうか、そちらを優先しましょう。
音楽「形式」の話がおいてけぼりになっていますが、そのことも、遡ることのなかに何らかのヒントがあればラッキーなのだけれど。


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