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2010年3月21日 (日)

バッハの『ピアノ協奏曲』?:バッハ・モーツァルトのフォルテピアノ問題(3)

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2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」(東京3月18日、終了:小倉貴久子さんと大井浩明さん、京都4月3日・4日:河野美砂子さんと大井浩明さん、各々30名様限定です)詳しくは記事中のリンク先をご覧下さい。バナーをクリックすると大井浩明氏のブログ記事を閲覧出来ます。
なお、大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)が発売予定日より遅れましたが入手容易になりました。HMVにリンクを貼ってあります。Amazonではまだ入手できないようです。



最初に、昨日ある街のCD売り場に行って、ちょっとビックリしたこと。バッハの棚に向かいましたら、
「バッハ〜ピアノ協奏曲」
というインデックスが・・・!
このバッハはもちろん、J.S.Bachです。
たしかに既にバッハの時代にはピアノ(現代のそれより音量がないもの、ここ数回触れてきたフォルテピアノ)はありましたし、バッハが鍵盤楽器のために書いた協奏曲がピアノ(フォルテピアノ)で演奏された可能性がある、ということをバドゥラ=スコダ夫妻が述べたりしていますが、これは一説に過ぎません。
で、果たしてこの説は正しいか、あるいはその可能性もあった、という蓋然性を持ち得るのでしょうか?

フォルテピアノについて、ゆとりがありませんでしたので、

モーツァルトの時代とショパンの時代の「ピアノ」にどれだけの差があったのか

には触れませんでした。

いや、実演と録音では差があることにはたと思い当たり、やめました。

フォルテピアノの録音は、この楽器の柔らかさを少しでもとらえた音の録音を聴きたければ、おそらくそれなりの性能の高い再生装置がいるのではないかと思っております。
まして、モノラルで小さいサイズで音声ファイル化したものは、現物をじかに聞いたときの音はしません。キンキン、カンカンいう、音の表層部分しか耳に届かないのです。

ショパンの時代の楽器、プレイエルについては、近日、小倉貴久子さんの演奏が収録されたDVDが出るはずですので、それでご確認頂くのが、メディアを通じてと言うことでは最もよろしいかと思います。
モーツァルト時代のもの、となるとCDではヴァルターのタイプが圧倒的に多く、これはやっぱり録音で音質がいくらかでもリアルに近くなるからかなあ、と感じます。シュタインのタイプでは、どうもそうはいかない気がしております。

しかも、3月18日の、特徴の違う二台のフォルテピアノを駆使した共演は、期待以上に彩り豊かでした。
フォルテピアノに限ったことではなく、青木さんの歌のときにも痛いほど感じたことですが、実際のステージで耳に出来る響きのふくよかさは、録音では決してとらえられないのです。これはコンサートの前日に予感していたことと一致しておりました。

再び話をフォルテピアノに限定しまうと、少なくとも18世紀後半のこの楽器は、録音が前提ではなく、響きを楽器からダイレクトに聞く環境で享受されたものですから、もしバッハの時代に遡ってもフォルテピアノが同様の性能を持っていたなら、バドゥラ=スコダ説は可能性としてあった、ということは言えるのかもしれません。

ここで重要視したいのは、たくさんのチェンバロとフォルテピアノを実際にじっくりと観察した日本人による日本語での証言です。

「初期のピアノは、機種によってタッチから音色に至るまで、大いに異なる。チェンバロの機種による違いの比ではない。しかも、それを古典派時代のフォルテピアノで弾くとしたら、それは楽器の選択の誤りとしか言いようがない。」(p.460-461)

「バッハが、ジルバーマンのフォルテピアノなり、そのほかの鍵盤付きパンタレオン(=弦を「叩く」系統の楽器、ダルシマーの種類)に対して抱いた関心は、ごく限られた範囲内のものであったろう。アグリコラとかエマヌエル・バッハといった、バッハの傍らにいた人々が、バッハのピアノに対する関心の大きさについてはほとんど何も語っていない、ということが、これを裏付けているように思われる。」(p.462-463)

「私の、バッハのクラヴィーア協奏曲をチェンバロで何度も演奏した経験からいうと、つねに問題になるのは弦楽器とのバランスである。・・・古典派時代のピアノフォルテ(原文のママ)で弾けば、この問題はほとんど解消するが、バロック期のピアノではそうはいかない。・・・ジルバーマンのピアノフォルテも、チェンバロより音量は小さく、音の立ち上がりも柔らかであったろう。このことは、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの記述によっても裏付けられる。」(p.444)

ご自身の、実地での人並みはずれて豊富なチェンバロ・フォルテピアノ経験を通して865頁に及ぶご著書『チェンバロ・フォルテピアノ』(東京書籍、2000年)をものになさった渡邊順生氏の、同書からの引用です。

で、最後の引用にあるエマヌエル・バッハの記述とは、こんなものですから、完全に「裏付け」とまでは言えません。が、父バッハとの年代の差と上の渡邊氏の証言を参考にして読むならば、示唆に富んでいることが分かるでしょう。

「最近のフォルテピアノも、耐久性があって、よく制作されているかぎり、多くの長所をもつが、そのアクション(Tracktirung)は特別であって、簡単にはマスター(ausstudieren)できない。このフォルテピアノは独奏のときにも、編成がそれほど大きくない合奏のときにも、よい働きをする・・・」(以下略、東川清一訳書p.16、『正しいクラヴィーア奏法 第一部』全音楽譜出版社、原著1753年)

以上から、バッハはバッハが生きていた時期の「ピアノ」のためにと考えて鍵盤楽器用の協奏曲を書いた可能性は大変低いと思ってよいかと考えられます。

が・・・驚くべきことに、バッハの『ピアノ協奏曲』と銘打ったCDは実在します。
海外版にもあるのですが、廉価な日本版では、シプリアン・カツァリスが現代のピアノで、フランツ・リスト室内管弦楽団と共に1985年に演奏したものがWARNER CLASSICS BEST 100の1枚(WPCS-21047)に含まれています。(他にも、グールドはもちろん、ペライアやシュタットフェルトによる録音も同様の演奏手段でなされています。)
うち3作は、国内版としてはERATO BEST50MOREにトン・コープマンが演奏したもの(アムステルダム・バロック管弦楽団、1988-90収録、WPCS21114)でチェンバロの場合と聞き比べることが出来ます。

バッハを現代のピアノで弾くことは、現在の鍵盤楽器普及の諸般の事情から「是」とされています。
音楽の精神が合致すれば、それはバッハの音楽の正しい姿でもある、という認識も、根強くあります。

バッハの音楽に限らず、ベートーヴェンだってショパンだって、彼らの在世当時の楽器で弾かなければ音楽的に正しくない、と言い切ってしまうことは「是」ではないかもしれません。

ですけれども、チェンバロの復元が進み、その色彩の豊かさを再認識せざるを得ない状況にあるこんにち、現代のグランドピアノで演奏されるバッハ作品が「バッハ本来の音楽を示している」という言い方は、もはやしてはいけないことなのではなかろうか、と、首を傾げる今日この頃です。
独奏曲になると、これはより厳格に疑われるべきことになってくるのですけれど(とくにゴルトベルク変奏曲)、その話題はまたいずれといたします。



日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの「おすし de イタリア」は満員御礼、しかも定員オーバーでの終了でした。
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青木さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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