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2010年3月15日 (月)

最近のショパン演奏会のエピソードから:バッハ・モーツァルトのフォルテピアノ問題(1)

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2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」(東京3月18日:小倉貴久子さんと大井浩明さん、京都4月3日・4日:河野美砂子さんと大井浩明さん)詳しくは記事中のリンク先をご覧下さい。バナーをクリックすると大井浩明氏のブログ記事を閲覧出来ます。
なお、大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)が発売予定日より遅れましたが入手容易になりました。HMVにリンクを貼ってあります。Amazonではまだ入手できないようです。


日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの「おすし de イタリア」は満員御礼、しかも定員オーバーでの終了でした。
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F9120周年記念 ナーシャムジカマンドリンコンサート(川口雅行氏を迎えて)、大好評終了です。マンドリンアンサンブルにチェロとコントラバスが入るとオーケストラみたいな響きがする、との反響もあった模様です。

Pianohistory自分の勉強の途上のトピックとして、が基本ですが、3月18日に小倉貴久子さん(独奏部)・大井浩明さん(オーケストラ部)が二台のフォルテピアノでモーツァルトの協奏曲を弾くシリーズの第1回目をなさるのにも関連して。

話は、新しい方から遡っていきます。

先日、人気美人ピアニストさん(実力もたしかなかた)が、とある普通のオーケストラで、ショパンのピアノ協奏曲の第2番をお弾きになったんだそうです。

はい、それだけでは、別段変った話でもなんでもありません。

変わっていた(と、いまのコンサート環境では言わざるを得ないでしょう)のは、ソリストさんが弾いたのが、復元修理品なのかレプリカなのかまでは存じ上げませんが、ショパンが愛したプレイエルのピアノだったということ。それに応じて、オーケストラはどうやら人数も減らし、人づてに伺ったお話から推測するに、A=430くらいのピッチで演奏なさったらしいこと(いちおう、1830年頃のパリ・オペラ座が採用していたピッチです)。

で、今のピアノで勉強している優秀な学生さんが、聴いた後で漏らしたそうです。
「音は低いみたいだし、独奏者さん弾きにくそうだったし、オーケストラは特に弦楽器がなんだかボコボコいってたなあ・・・」

念のためお断りしておきますが、悪口が言いたくて、こういう話で始めたわけではありません。どうか、悪意におとりにならないようにお願い申し上げます。

まず、現代の(これで完成かどうかは分りませんが)ピアノで充分に鳴らすことに精力を注いできた方にとって、フォルテピアノと呼ばれているたぐいの19世紀仕様の楽器は全くの別物でしょう。プレイエルとなればショパン在世当時では最新タイプの音量とデリケートさを兼ね備えた楽器で、ほとんど現代に近いアクションにずいぶん近づいたものではあったはずですけれど、それでもメカニズムはまだ20世紀のものと同じではないはずです。その異なったメカニズムに慣れるのに果たしてどれだけのお時間が割けるか、というのが、弾きこなせるかどうかの分かれ道になった可能性はあります。人気のある方ほど、ご多忙でなかなかお時間は割けないでしょうから、なおさらのことと思います。で、せめてタッチだけでも20世紀の楽器に「似せた」ものにするには、おそらく楽器を調整する技術屋さんにも相当の力量が必要になろうかと思います・・・いや、そんなことはもともと不可能かもしれません。以上が、独奏側だけ考えた場合の問題点です。
オーケストラが低いピッチで演奏することに慣れていなかったのではないだろうか、というのが、もうひとつ胸に浮かんできたことです。管楽器のことは措くとして、弦楽器は442~445程度で演奏するのが常でしたら、430なんかに調弦したら、感覚的には指が弦に触れると、指板を握るようにし、かつ筋力で演奏している奏者は、弦が斜めに引っ張られることになるので音程が安定しません。したがって、マーラーとかストラヴィンスキーとかプロコフィエフやるのと日替わりで、というのはオーケストラの弦楽器奏者には厳しいのではなかろうか、と思います。
ショパンの記念年だから、ショパンの愛した楽器でショパンの時代にそうだったと思われる響きで、という素直な思いから催された演奏会だと存じますし、そのお気持は称賛に値するとも感じますが、さて、ショパン自身が聴きに来ていたら、それを喜んだかどうか・・・気になるところです。

西欧古典を演奏するに際しては、20世紀後半から現在にかけては、弦ならば張力が強い、管ならばキーメカニズムが発展した楽器を用いてハイピッチで演奏する潮流(単純に、後期ロマン派の延長、とは言えないようです)と、その音楽作品が作られた当時の楽器を・・・そのまま演奏できるものは数もかなり限られますので・・・複製して、演奏法も史料から探り出して、古風を再現する潮流とが混在しており、とくに近年は双方合い混じったような演奏も盛んになされるようになりました。しかも、合い混じった演奏にも優れたものがあります。
ですが、上の例は、合い混じった演奏をしようとして、残念ながら成功しなかった例ということになってしまいます。

となると、下手にあい混じってしまった演奏をするよりは、その曲を作曲した本人が生き返って聴きに来たなら、「混じっていない」演奏のほうに満足するのではないのかなあ・・・というのが、私の場合、素朴な印象です。
それが作曲者が生身の人間だった時の様式と異なるにしても、作曲家が許容できる「響きの美しさ」を備えてさえいれば、良い評価をしてくれるのではないか?

では、「響きの美しさ」は、作曲者の耳は何をもって、どのように判断するのか、というのが問題ですが、これは様々な難しい問題が保留されているために、私達はたしかな判断は出来ずにいるのではないかと思われます。

西欧音楽に連綿と続いた伝統は、古い時代はさておき、近代においては「フランス革命前後に始まる時代」と「第一次世界大戦に始まる時代(第二次世界大戦の終結ではない)」に大きな節目を迎えたかのようです。
最初の転機はベートーヴェンの活躍した時代に重なり、ベートーヴェンがひとつの典型を成しています。ことピアノに関しても、彼はより大きな音響を目指し、親しかった制作者シュトライヒャー夫妻に働きかけ、オープン・ボトム(それまで張力を支える部品として機能していた底板をなくしたのが最終形ですが、シュトライヒャーはまず1716年に底板に7つほど穴をあけることから出発しました)のピアノを作成させ、音の広がりを実現させています。音量の大きな楽器としては当時エラール」フランスのエラールに定評がありましたが、音量と同時に軽いタッチを求める「贅沢な」ベートーヴェンにはまだ物足りない楽器だったとのことです。このエラールはショパンにも愛された楽器ですが、ショパンのセリフはこうでした。
「気分のすぐれないときは、エラールのピアノを弾きます。これだとすぐに完成された音が出ますからね。でも元気が良くて、自分だけの音を出してみたいなと思うときは、プレイエルが必要なのです。」(S.ギニャール訳。伊藤信宏編『ピアノはいつピアノになったか』所収、大阪大学出版会 2007)
ショパンにとってはプレイエルが、ベートーヴェンにとってのシュトライヒャーに相当するものであることが、ここから推測されます。
ただ、プレイエルのピアノは、現在主流の(というか、それしかない?)ダブルエスケープメントではなく、シングルエスケープメントの楽器です。エスケープメント、とは、鍵盤の先にあるハンマーを持ち上げ、ハンマーがピアノの弦を叩く寸前にハンマーから外れる装置で、ピアノの弦を効率よく鳴らすのに貢献する部品です。それがダブルであるのとひとつだけなのとでは、演奏者が鍵盤を叩くときの感触が当然異なってくることは容易に推測がつくでしょう。ダブルエスケープメントはより軽いタッチを実現するのに効果があるかと思われます(リストはダブルエスケープメントのエラールを多用しました)から、逆に考えて、シングルエスケープメントでは「軽い」タッチと言ってもシングルエスケープメントの場合よりやや粘っこいタッチが要求されると推測し得ます。普段ダブルエスケープメントの奏法に慣れた名人でも、これは時間をかけなければ体で覚えきれないものであることもまた、以上から分かるのではないでしょうか?

では、オーケストラとのバランスの面ではどうなのか、となると、これは目撃してみないと何とも言えません。それは録音から推測されるものとは異なってくるだろうからです。
で、この問題は次回、録音から推測することにします。
ただし、ショパンのコンチェルトをプレイエルで弾いた録音はオーケストラ伴奏のものは見つけておらず、18日に2台のフォルテピアノでモーツァルトのコンチェルトをお弾きになる小倉さんが弦楽五重奏をバックにしたものしか目に入っておりません。

で、本来はモーツァルト、さらに遡って大バッハとフォルテピアノについて少し観察したいのでもあり、モーツァルトについては実例もお聴かせ出来ますので、そちらはモーツァルトを例にとって行きたいと思います。ただ、現在「フォルテピアノ」と呼ばれていても、ショパン当時のものとモーツァルト当時のものではまたかなり色合いが違ったりしますので、それも比べて頂く必要はあるかもしれません。これは比較してみて頂かないと意味がないので今回は引用しませんが、小倉さんのご著書『カラー図解 ピアノの歴史』(河出書房新社 2009)付録のCDで9種類(+チェンバロ1種)の音を気軽に耳にすることが出来ますので、お勧めしておきます。

楽器の問題は今回はここまでで措くとしまして、さらにまた長くなってしまうのですが、では、話を戻しましょう。

古い楽器、もしくはその楽器を用いて、果たしてどのような表現を是とするのか。
あるいは、新しい楽器を用いて19世紀以前の音楽を表現することは非「是」なのか。

これは、今回は新しい方についてだけ1次世界大戦を境に「楽譜に忠実」が唱えられたことも一役買ってきます。
いま手元に他の本がなく、何で読んだのか思い出せないのですが、渡邊順生氏が引用している1935年のラフマニノフに対する批評は、このあたりの事情を垣間見させてくれるには鋭すぎるサンプルです。

「この種の、異議を唱えるべき演奏の自由さは、劣等の芸術家によって導入されるもので、彼らは内容が空疎な慣習に墜したものを再現する以外には能がない。その最たるものはルバートで、これは、練習不足のオーケストラと同じくらい機械的で、しかも聴き手に偽りの音価を示唆する始末におえないものなのである。」(エリック・ブロム。渡邊著『チェンバロ・フォルテピアノ』p.755、東京書籍 2000)
直接の系譜上にはないかもしれませんが、ラフマニノフのピアノ奏法は19世紀後半からの伝統を知るピアニスト達がおしなべて採用していたものでもあり、それを使用していたピアニスト達はまたおしなべてチェルニーの孫弟子、すなわちベートーヴェンの曾孫弟子だったことは、渡邊氏の言を待つまでもなく、銘記しておくべきことかと存じます。

第1次大戦以後徐々に消え去っていく19世紀的伝統の例として渡邊氏著作に掲載されている、シュヴァルツコップが歌うヴォルフ歌曲をフルトヴェングラーが伴奏した例を、ひとつ挙げて、今回の締めくくりと致します。フルトヴェングラーは本職のピアニストになる意図はまったく持ていなかったので、この演奏のピアノは、たしかに素朴な味わいを持ってさえいます。彼の指揮した管弦楽とはまた違った世界を感じさせます。

Nein,junger Herr
Nein,junger Herr
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