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2010年2月24日 (水)

著作等からの類推:音楽作品に数・数式を用いること----松下眞一追悼個展に関連して----(6)

Matsushitaphoto「松下眞一追悼個展」、2月27日に京都で。
世界的な数学者であるうえにヨーロッパでは作曲家として非常に高く評価された松下氏の、長く埋もれていた作品の初演も含まれ、足をのばせるかた必聴、貴重な会です。
写真クリック、またはリンクをクリックで、是非記事をご一読下さい。
ピアノ:大井浩明さん http://ooipiano.exblog.jp/
打楽器:宮本妥子さん http://www.yasukomiyamoto.com/
スペクトラについての解説を含む松井卓九大教授が寄せたエッセイもご一読下さい。
世界初演「スペクトラ第五番」図形楽譜の一部はクラシックニュース2月18日記事 でご覧になれます。
http://classicnews.jp/c-news/index.html

同時にクセナキスのピアノ作品全曲も演奏されます。



日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの「おすし de イタリア」は、3月12日です。
oguraooi.jpgご予約はお早めに!

oguraooi.jpg

2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」(東京3月18日:小倉貴久子さんと大井浩明さん、京都4月3日・4日:河野美砂子さんと大井浩明さん)詳しくは記事中のリンク先をご覧下さい。バナーをクリックすると大井浩明氏のブログ記事を閲覧出来ます。
上記2月27日の「松下眞一追悼個展」(於:京都)他、今年も瞠目の企画が豊富におありのようです。



武満作品なら、小さいものについてまで、作曲者自身によるコメントが「プログラムノーツ」として大量に書き残され、分厚い著作集の第5巻目に掲載されて誰でも目に出来る環境にあります。

ですが、松下眞一の音楽作品については、そういうものは存在しません。

音楽メディアが松下さんの自作解説等に目を向けなかった可能性は大きいかと思われます。
なぜなら、松下さんは啓蒙書であるべき本を綴っても、松下氏の物言いは、最初はおそらく出版社の意図に沿って平易に始めるものの、記述が進んでくると、哲学・数学・物理学が入り組み、参考程度にだけ記すと言いながら難解な数式のオンパレードになり、とても一般読者が飛びつくとは思えないほど見かけが複雑なものが出来上がってしまう、という例があるからです(『時間と宇宙への序説』サイエンス社 昭和55)。

また、どれだけの影響があったかは不明ですが、彼の行動の「強い」奔放さも負の影響を及ぼしたこともありえます。
数学者としては優秀だった共同研究者ヨルダンが元ナチだということも知る人ぞ知る、だったようです。ヨルダン自身がどの程度のはまり方でナチ党員だったかは私には分かりませんが、第二次大戦中に活発に活動できる立場を守るには、ドイツ人はナチに入党するしかなかったとの背景はあります。哲学者ハイデガー然り、指揮者カラヤン然り、で、私が個人的にずっと好きでいつづけてきたカール・ベームにいたっては隠蔽に必死だったうえに周りもあまり問題にしなかったために、ほかのドイツ人と実は軌を一にしていたかもしれないし、そうではなかったかもしれないし、と、グレーのままでした。第二次大戦時のドイツ人はみんなグレーだったでしょう。党員ではなかったフルトヴェングラーも「非ナチ化」なる儀式を通過しなければ現場復帰できませんでした。

松下氏がどの程度の認識でヨルダンと交流を続けたのかは、不明なままです。

で、実際に「ナチ」としてのヨルダンに共鳴していたのでしたら、反ナチだったクセナキスや、母親をナチの手で失わざるを得なかった(らしい)シュトックハウゼンと交流できたはずがなく、もし
「ナチだった奴と共同研究してるんだってさ!」
なる陰口が叩かれていたのでしたら・・・そういう事実があったかどうかはまるで分かりませんが・・・とんだとばっちりだった、と言ってよいでしょう。

日本ではある宗教のための作品を書くとうさんくさく思われる、という面もあったかもしれません。・・・この国では、バッハのルター派作品のようには、作った宗教作品が「普遍化」することはありませんから。
そういう国の民の一人であった松下氏が、浄土真宗のためかと思うと日蓮宗のための音楽を書いたりしたのです。そこでも松下氏は分が悪かった、ということはあったかもしれません。
が、「シンフォニア・サンガ」はあえて声楽にはサンスクリット語歌詞を用いることで、日本人の宗教作品であっても日本にとどまることにあえて背を背けているのです。それを見る限りは、松下氏としては「うさんくさく見られる」ことに対してはご自身の認識なさっている範囲内ではそれなりに努力したのかなあ、と思います(CDの解説によれば、合唱曲『回向』でもサンスクリットを歌詞に採用しているそうです)。
・・・世の中は、そんなに度しやすくなかった、ということでしょうか。

以上のような「悪条件」にも関わらず、本人は結構あっけらかんと無用心にしているほうが多かったのではないか、というのが、たとえば『時間と宇宙への序説』を拝読しての印象なのです。
この本はぱっと見では実に奇妙でして、先にお話ししましたように哲学と物理学の記述が渾然一体としている上に、途中に現れる数式がこの箇所で果たしてどれだけ重要なのか、首を傾げざるを得ないような記述をときどき見受けるのです。思い出したように数式がドカン、と次から次に載せられている場合がある。で、先を読み進んでも、その周辺で開陳している彼の世界観の証左として掲載したかったのだろうとは思うのですが、ただ眺める分には松下さんが自分のために「コレクション」を並べて一人で笑っているようなイメージしか浮かばない。・・・著述するときの発想が、まったくの「学問マニアの学者さん」だったことを、この記述の仕方が物語っているのではないかと感じます。彼にとっての数式は、クセナキスとはまた意味合いが違うようです。

私たちが唯一容易に手にしえるCD「松下眞一作品集」に、「シンフォニア・サンガ」と併集されている「コンツェントラシオーン」の中間部には、コラール旋律とも受け止めえる荘厳な旋律がバスのうちに重々しく現れます。その前後を通じ、メロディの寸断のされかたが興味深いのですが、メロディの軌跡がはっきり辿れる点で、クセナキスとは異なり、松下作品はロマンティックなものへの憧憬を捨て去りきっていないと感じられるのが、非常に印象的です。

「fromKONZENTRATION.mp3」をダウンロード
Z.サットマリー(バッハなどで名演の録音を残しているかたです) fontec FOCD2560

彼にとっての数式とは何だったのか?

再び武満作品の作曲者自身によるプログラムノーツに話題を戻しますと、そこで一見淡々と述べられる作曲者自身の言葉は、簡明ながら、実は大変に詩的な修飾にあふれています。
たとえば、「ウォーターウェイズ」ついて。
「各楽器は夜の風景の中を、それぞれの水路にそって進む。やがて、それら小さな支流は合流して調性の海へそそぐ。」(『武満徹著作集5』所収、p.390、新潮社 2000年)

かたや、松下氏が音楽について語るときは・・・個別の作品についてとなると「シンフォニア・サンガ」のものしか見かけていないのですが、先ほどから言い及んでおります『時間と宇宙への序説』の中から例をとりますと、
「音楽の演奏こそ、常にその生きた『時間』(すなわち『現在』)の二度と振り返り得ない'生きた突端’であるのである。」(p.227)
・・・無骨この上ありません。

一方で、似た時期の作品の楽譜を比較してみますと、武満「ノヴェンバー・ステップス」が既に演奏上の新しい記号を豊富に創造してまず巻頭に注釈として掲げる必要に迫られている上、譜表が既に図形楽譜指向を暗示し始めているのに対し、松下氏の管弦楽作品『星たちの息ぶき』は記号は古典的な小説の中で直感的に分かる程度に使用されているに過ぎず段組みも整然としていて、むしろ保守的な上に合理的です。それでも、結果として響いてくる音響効果にはあまり差がないものと思われます。

この標題で続けてきたスタートラインに戻って、ではなぜ、松下氏は『スペクトラ』第4番にわざわざ数式なんか付けたのでしょう?
それは著書『時間と宇宙への序説』の記述法から、およびクセナキスの作風との違いから推測するなら、あくまで「通常の語彙による表現ではまどろっこしいので、数式という言語表現で手っ取り早く言い切ってしまった方が良い、との発想から用いられているのではないかと思われるのです。
少なくとも、耳にし得た「コンツェントラシオーン」・「シンフォニア・サンガ」、楽譜を目にすることので来た「星たちの息ぶき」には、クセナキスのように構造を規定する数式的原理があるとは思えません。こと音楽内容そのものについては、松下眞一は数学者としての顔へのこだわりは(自覚していたかいなかったかに関わらず)かなぐり捨てている・・・私の耳にも目にも、彼の音楽はそのように響いてくるのです。

「個展」で演奏なさる大井さん・宮本さんが真摯に捉えているであろう実像は、そんな甘いものではないのかもしれません。

ですが、松下眞一作品は、まだ「ロマンの香り」がぷんぷんする点で、素人耳にも非常に面白い。

C音への固執を根底に持つ作品「コンツェントラシオーン」は、作曲された頃のSFアニメに時々出てきた、巨大な万能機械が故障寸前に胴体のあちこちからさっきはあちら、いまはここ、次はそちら、と煙を吐き出しながら崩れ落ち始めて行く姿を思い浮かばせますが、繰り返しになりますけれど、その中に「コラール」の姿が悲痛な顔で聴き手の方を覗き返してくる・・・こういう類いの「エントロピーの増大に紛れて喪失しつつあるもの」を描ききった日本人作品は、間違いなく類を見ないものです。これはどなたにもぜひ聴いてみて頂きたいと存じます。

さて、「スペクトラ(=スペクトル)」という言葉はシュトックハウゼンも「スペクトル作曲」や「サウンドスペクトル」という言い方でしばしば言及しているものでして、その語感から来る私たちのイメージには反して、楽器固有の音色のようなものに依存せず、音色そのものから構築する手法を指しているかと思いますが、これも松下氏の6つの
「スペクトラ」の作曲姿勢とダブりつつも、演奏者大井さんの解説を拝読しますと、なお松下氏の独自性があるかのようです。
第4番についてはともかく、としましょう。
もうひとつ興味を引いたのは、構造的には第4番と類似性が見られるらしい第2番でして、これは部分部分に日本神話のエピソードが簡単に文として付加されていて、ではそれらは各部分の標題なのかと思いきや、松下氏は
「これらはなんら写実的・文学的な意味を意図せず、ただこれら神話のもつ民族的な夢の雰囲気を背景としてピアノの音色と技法への新しい可能性を追求したものである。作曲法は群論的方法によっている」
と説明を加えているとのことなのでした。
「群論的方法」についてはとりあえず考えないでおくことにして・・・これはさすがに、無能な私には、どんなものかをイメージできません・・・「文学的な意味を意図せず」とは、まさしく第4番の数式に相当するものが第2番では神話を物語る文なのではないか、と想像させてくれるのでした。

再発見され、世界初演となる第5番は、チラシに使われている通り、あるいはより詳細をクラシックニュース2月18日記事から参照できる通り、色彩の豊富な「図形楽譜」です。これも演奏者大井さんによると、「緑色は鍵盤奏法、赤色は内部奏法、そして褐色はその積」とのことで、可能でしたらクラシックニュースのサイトから印刷でもして持参して聞きたいところです(さらに細かい「読み方」は大井さんの曲目解説をぜひお読み下さい)。絵巻でもあり音楽でもあるこのような楽譜を産み出せた松下氏という人間は、おそらく究極の「夢見るマニアックおっさん」(ごめんなさい)だったのであり、だからこそその作品は「洗練されたものとして認知されている」諸作曲家のものとは一線を画した人間味が遥かに濃いのでして、「数学者」という顔とはいったん切り離したところから聴き直されても良いと、私は信じるのです。彼が用いたとする「数学的方法」については、まず人間の音楽としての松下作品がしっかり認知され直してからでも遅くはない、まずは「人間・松下眞一」が生きた証としての、
<呼吸する松下作品>
に馴染み直してみることからスタートできたら、大変に面白かろうと期待をしております。

なお、未完に終わった「スペクトラ」第7番から第12番にかけては宗教的なアイディア(キリスト教的なものも見受けます)が多いことにも、重い意味を感じます。

あまりじょうずに綴れなくてすみませんでした。

一連の文は、あくまで私個人の「野次馬根性」から綴ってきたものであることを、念のため申し添えておきます。


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sergejOさんの記事の便利なインデックスも是非ご活用下さい。

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