« 「組織化」の試み:音楽作品に数・数式を用いること----松下眞一追悼個展に関連して----(4) | トップページ | 著作等からの類推:音楽作品に数・数式を用いること----松下眞一追悼個展に関連して----(6) »

2010年2月22日 (月)

狙いは「脱皮」?:音楽作品に数・数式を用いること----松下眞一追悼個展に関連して----(5)

Matsushitaphoto「松下眞一追悼個展」、2月27日に京都で。
世界的な数学者であるうえにヨーロッパでは作曲家として非常に高く評価された松下氏の、長く埋もれていた作品の初演も含まれ、足をのばせるかた必聴、貴重な会です。
写真クリック、またはリンクをクリックで、是非記事をご一読下さい。
ピアノ:大井浩明さん http://ooipiano.exblog.jp/
打楽器:宮本妥子さん http://www.yasukomiyamoto.com/
スペクトラについての解説を含む松井卓九大教授が寄せたエッセイもご一読下さい。

世界初演「スペクトラ第五番」図形楽譜の一部はクラシックニュース2月18日記事 でご覧になれます。
http://classicnews.jp/c-news/index.html

同時にクセナキスのピアノ作品全曲も演奏されます。



日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの「おすし de イタリア」は、3月12日です。
oguraooi.jpgご予約はお早めに!

oguraooi.jpg

2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」(東京3月18日:小倉貴久子さんと大井浩明さん、京都4月3日・4日:河野美砂子さんと大井浩明さん)詳しくは記事中のリンク先をご覧下さい。バナーをクリックすると大井浩明氏のブログ記事を閲覧出来ます。
上記2月27日の「松下眞一追悼個展」(於:京都)他、今年も瞠目の企画が豊富におありのようです。



前回に比べると短くなります。

前回例示したクセナキス作例とヴァーグナー作例の対比から判明するのは、いちおう同じ集合論的土俵から作品を観察したときに、表面上は全く異なるこの2つの作品が構成=音の組織化の枠組みとしては、いずれもまとまった「集合」をもち、それをまず呈示することから音楽が始まり、徐々に演算によって統合され(ただしヴァーグナーの方には論理積はない)、クライマックスではもっとも統合的な演算が施されている、という類似点をもつことでした。
したがって、いわゆる「20世紀前衛」が、それまでの「人間としての思考」を決して逸脱したものではないことまでは了解できるはずです。

クセナキスのHermaが、それでもなおヴァーグナーの「マイスタージンガー」前奏曲より「馴染みにくい」印象を与えるとするとしたら、二つのことが考えられます。

・Hermaのほうは論理積という、「マイスタージンガー」前奏曲には含まれない演算を持つが故に複雑化しているのではないか?
・Hermaには「主題」がない・・・いや、これは先に申し上げておけば、Hermaで採用された集合が「主題」なのだととらえれば、ないのは「主題」ではなく、定まったフォルムなのです。・・・ということは、Hermaの主題にはフォルムがないのではないか?

後者について、ついでですから前にしておきます。
これは実際に、Hermaで設定されている各集合の音の要素を拾い上げてみなければ、断言することを許されない物ではないかと思っております。集合の要素の選定には基準があるはずでして、本音は、それを拾いだす作業まではやっておきたかったのですけれど、時間が許さないので諦めております。
ただ、たしかにいわゆる「メロディ」とか「和声」として括られるような、時程的に一定の既存ルールを持つ「フォルム」を持っていないことは確実だろうとは予想しております。
ついでながら、クセナキスはそういう一定ルールの「フォルム」を常に放棄している訳ではなく、たとえば管弦楽曲"Heros"には、ストラヴィンスキーの「春の祭典」をパロディにでもしたかったのか・・・すみませんが確認はとっていません・・・、「春の祭典」に現れる「フォルム」をそのまま借用したように聞こえる一連の部分を持っていたりします。ピアノ作品である"Evryali"のほうにも、Hermaにはない「固いフォルム」があるようです。
いまは、彼がHermaで採用した方法論についてだけ観察をしておきます。
整理すると、クセナキスの脳裏にもし「フォルム」というものがあったと前提しての話ですが、Hermaに採用されているのは、初期に素粒子を研究した物理学者たちが採用した素粒子観測装置のように、箱の中から点々と「私は存在しているのだ」と合図を送ってくる粒子の信号を捉えるような・・・人間の発想としては可能なかぎり、「(物理で言う不確定性程度に)ランダムでありながら確定的な」ものの「フォルム」化だったのではないか、と、私は感じます。・・・いつもながら、あくまで素人の感覚として申し上げております。

では、数式の方。
クセナキスにおいては明示的に、ヴァーグナーにおいては自明のこととして、「フォルム」相互の関係を明らかにするために論理式が用いられていたのは前回見た通りです。
では、ヴァーグナーには論理積がない故に、ヴァーグナーの方がわたしたちにとって明晰に捉えられる(ような気がする)のか?・・・

調性音楽では論理積がとりにくかった、という事情は、たしかにあったのかもしれません。論理積を用いた有名作を探し出すのはなかなかに大変です。
ですが、全く見つからないわけではありません。

最も有名な作品例は、ベートーヴェンの第五交響曲第1楽章の呈示部でしょう。
この例では、第二主題は明らかに、第一主題と呈示部結尾部の「やや緩い論理積(調性音楽のもたらす音の方向性の影響を受けているため厳密ではない)」で生成されています。
ベートーヴェン自身の顕在意識的な作曲手順から言えば、呈示部結尾部の方が「第一主題と第二主題を合成したもの」だったかと思われ、その状況証拠として、結尾部は第一主題(本来は三度下降する動機の冒頭音を徐々に高めて行くもの)を上行形に反転させて締めています。
ですが、
第一主題=冒頭の2回の定型呈示に下行4度の枠を持たせた、下行2度、下行3度の累積、加えて上行4度、上行5度
theme1

呈示部結尾=(装飾的なものを除けば)下行2度、下行4度主体で最後を上行4度で締める

codetta.

に対し、

第二主題=上行4度、(上行2度)、下行4度、下行2度
theme2

であって、第二主題は上行2度部分を除き、骨格としては第一主題と呈示部結尾に共通する要素を主としていることが分かります。

極論になっているのではないかとの誹りは免れないでしょうが、したがって、クセナキスが作品に数式を用いた目的は、「人間の発想から生まれる音楽」を逸脱することにはなく、「規定化されたルールに安住するのではなく、それを音楽そのものを純粋に考えたときにどう表されるかを検討し直す」ところにあったのではないか、というのが、安易ながらいちおう私の推測するところです。
非人間的であることをも、複雑であることをも、根源的には志向しているわけではないのだと信じます。究極は、「規定」を超えた明瞭さはどこにあるのか、の模索にあったのではないか、と信じます。

・・・では、この点は、松下眞一にとってはどうであったのか?

作品の楽譜を所蔵しておりませんので、著作と、耳にし得た僅かな作品から、次回さらに推測してみたいと思います。


L4WBanner20080616a.jpg


クラシックCD・書籍検索に便利!バナーをクリックして下さい!


sergejOさんの記事の便利なインデックスも是非ご活用下さい。

|

« 「組織化」の試み:音楽作品に数・数式を用いること----松下眞一追悼個展に関連して----(4) | トップページ | 著作等からの類推:音楽作品に数・数式を用いること----松下眞一追悼個展に関連して----(6) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 狙いは「脱皮」?:音楽作品に数・数式を用いること----松下眞一追悼個展に関連して----(5):

» ピアノのお引越し [ピアノのお引越し]
ピアノのお引っ越しなら業者におまかせ。一番安いとこの探し方 [続きを読む]

受信: 2010年2月23日 (火) 20時49分

« 「組織化」の試み:音楽作品に数・数式を用いること----松下眞一追悼個展に関連して----(4) | トップページ | 著作等からの類推:音楽作品に数・数式を用いること----松下眞一追悼個展に関連して----(6) »