« 惚れ込む、という感覚 | トップページ | 感覚と技術(ベルリオーズ『音楽のグロテスク』から) »

2009年12月 9日 (水)

見つめなおす方法

捨てようとしても捨てきれない「思い込み」というものについて、昨日はとりとめもなく綴りました

では、
「それでも、できるだけ《思い込み》から解き放たれるためにはどうしたらいいか?」
を、検討したいと思います。
これには、いい見本となる文を見つけましたので、「転載の転載」になりますが、後で文例として掲げます。ただし、音楽関係の文ではありません。



「思い込み」から逃れるためには、自分がこうと思い込んで見つめているその対象から、いったん自分が距離を置いてみなければならないのではないかと思われます。

41z5z7d8mql_sl500_aa240_単純に「論理学で<正しい論法>だと保証されている方法で見つめているから大丈夫だ」
とは、じつは言い切れないのだ、という点につきましては、分かりやすそうな「論理学」のテキストでもお読みになってみて下さい。私の一番のお勧めは、NHKブックスの『論理学入門』(三浦 俊彦著)でして、練習問題が付いています。永遠の初学者である私のようなものでも、なんとかかんとか日数をかけて納得することが出来た本でもあります。で、この本でも、「論理」とは道具立てに過ぎず、本当の真実を証明するのには測りの役割は果たすかもしれないが、絶対的真理を見出す道具のひとつに過ぎないことが平易に書かれている・・・と、誤解でなければ私はそのように読み解いております。

ルネサンス期の有名な科学者(本当は数学者)であるガリレオ・ガリレイは、『新科学対話』(岩波文庫収録)という著作の中で、おそらくヨーロッパ人としては初めて「無限」について数学的に論証していますが、読んでみると、その手段は帰納法によっています。にもかかわらず、ガリレイの無限についての論証は、無限を証明尽くしたものとは人々に捉えられず、せいぜい無限論の嚆矢と評価されているに過ぎません。論理学の手法を使っても世間がすぐには「是」としなかった一例です。
それはそれとして、彼が最も注目されているのは
「それまで人々に正しいと『思い込まれて』いたアリストテレースの所説を客観的に否定した」
点なのですが、これがそのまま
「ガリレイはアリストテレースを否定した」
という『思い込み』に変形されているのはご承知のとおりです。
ガリレイはアリストテレースが導いた結論の「前提」の真偽を・・・数学的手段だけでは確信し切れなかったからでしょうか、実験観察によって入り込んでいったのですが・・・、それは当時は人々がものを見て結論を出すときの大前提、真偽を疑い得ないので真としか信じられないものと等価であったがゆえに、まず
「では、その前提は正しいか?」
と立ち戻って見つめなおすところから出発したのでした。
出発点をアリストテレース(より正確にはアリストテレースの著作を読んだ後代の人たちがまとめなおし世間に常識として広めたもの)の設定した「疑い得ない前提」の見直しから始めた、ということであって、先の
「(ガリレイは)アリストテレースを否定した」
なる命題から受ける、彼がアリストテレースの人格を否定したとか、アリストテレースの論理を否定したとかいうのとはまったく異なることについては、専門のかたが口を酸っぱくしておっしゃっておられるにもかかわらず、いまだに誤解されたままのようです。ガリレイは、学問の徒としてのアリストテレースには、終生、敬意は払い続けているのです。
ところが、では、これを
「(ガリレイは)アリストテレースを否定しなかった」
なる命題に切り詰めてしまったらしまったで、また誤謬を起こすことになる。
「アリストテレースを否定した」
であろうが
「アリストテレースを否定しなかった」
であろうが、どちらの命題も、その真偽を論理の手法だけでは真偽の証明が出来ない。
ガリレイの著作を自身で注意深く読み、そこでガリレイがアリストテレースについて語っている賛美の言葉が「ああ、嘘じゃなくて、本音なんだなあ」と実感するよりほかない、というだけでなくて、真偽を証明するには命題の中身があまりに切り詰められすぎている、ということにも、私たちは注意をしなければならないのです。

51pu3ts86hl_sl500_aa240_
まずは、状況証拠が要る。
この状況証拠、とは、起こっている事実としての「ものごと」なのですから、起こっている以上は「起こっていない」と否定することが出来ませんから、論理的に証明できなくても真です。(このあたりは、アリストテレースやエウクレイデス【ユークリッド】が拠りどころとしたものと何も異なりません。)
でもって、これがまた曲者です。
ひとつの状況証拠があるからといって、それを用いて「真」だと証明できる「命題」は、上の例のような切り詰められたものであってはならず、なるべく具象的に設定されたものでなければなりません。
逆に言えば、あまりに単純化された命題を、数少ない状況証拠から「真である」と証明することは誤謬を含んでいる確率が非常に高いであろうと予想されます。(だからこそ、ガリレイによる「アリストテレース(の論証)の否定」も、「非ユークリッド幾何学の発想」も誕生の余地を与えられたのでした。)

・・・世の中のニュース、それに踊らされる私たちは、いつも「誤謬」の海の中にいるのだと思ってよろしいでしょう。

こうした点の上手な疑い方の例文として、非常に感心したのが、某所で拝見した下記の文章です。
転載者の方が転載の許可を得ており、そのかたからさらに転載のご許可を頂きましたので、ちょっと読んでみて下さい。

腎移植に関わる、専門の医師の書かれたものですが、平明ですから、こうしたことに不案内でも内容は十分理解できます。
お書きになった医師のかたも、転載なさったかたも、究極には「腎移植をより推し進めて、透析に苦しむ多くの患者さんを救いたい」という願いを込めてはいらっしゃるのですが、私はそれ以前に、付加的な価値観を抜きに、虚心にこの文の「着眼の鋭さ」を読み取っていただくことを目的として転載をさせて頂くしだいです。この点ではご執筆者・最初のご転載者には甚だ申し訳ない限りなのですが、他の分野にも応用の利く規範的な論述の進め方であると存じますので、まず、読んで下さるかたには、そういう目線で眺めて頂けることのほうを、強く望みます。

引用も長いのですが、前置きもだいぶ長くなりました。・・・私としての目的は、この話を、いつものように「音楽」に繋げるところにあるのですけれど、この長さに至りましたので、今回は断念します。

(以下、転載)



 ★ 万波移植の特異性     藤田保健衛生大学 医学部教授   堤 寛
  (生命化学の総合誌《ミクロスコピア》冬号=最終巻所載、転載者のかたの記事から。)
  (下線付け、色づけは私。)

2006年末、難波紘二先生の推薦で、私は宇和島徳洲会病院の病腎移植問題の専門医委員会 外部評価委員に指名された。私は学会代表でも移植医療の専門家でもない、唯一自由な立場の医師だった。専門委員会では、ドナー腎全摘の是非が論じられ、多くの症例で「腎全摘の適応なし」(腎臓をまるごと摘出すべきでなかった)と結論された。

腎癌は大きさに依らず腎全摘されるのを実感してきた病理医として、小径腎癌の標準治療は腎部分切除という主張に納得できず、異議を唱えた。

病気の腎臓は移植に使わないとする日本移植学会の主張は、本質的な矛盾を内包する。40歳以上では、動脈硬化や糸球体硬化など、腎臓は何らかの病変があり、病変のない中年以降の臓器は先ずない。

死体腎移植を考えよう。そこでは、血圧低下の結果「ショック腎」(病理学的に急性尿細管壊死)に陥った「病的な」腎臓が移植される。病気の腎臓が不適なら、死体腎移植は成立しない。

小径腎癌は部分切除が標準治療であると主張する一方、全摘出した腎臓から癌の部分を直視下に部分切除して移植に用いる病腎移植は、再発・転移のリスクが大きいという日本移植学会の論旨は、明らかに自己矛盾

万波移植の特異点を考えて見よう。移植医療は、通常 都会の大病院で行われる高度で先進的な医療であり、日本移植学会の指導者を含む多くの医療者は、その前提で移植医療に取り組んでいる。

飛び抜けて「術」に長けた万波誠医師は、あの宇和島という地方都市の、常勤医師数がわずか8名の宇和島徳洲会病院(最近12名に増えたそうだ)で、腎移植を実践する。そのこと自体、ミラクルだ。

万波移植手術の人員は多くて3名。世界中 探しても、おそらくそんな病院はなかろう。病腎移植の議論で感じた違和感は、都会の論理を宇和島に持ち込む強引さにあると気付くのに、私はだいぶ時間を要した。

万波医師と患者は、年余にわたる深い人間関係を築いている。一緒に釣りに行く友人が患者。生活保護を受けている患者が少なくないため、万波医師は、患者に金を貸す。そんな宇和島という町で行われた地域医療。「病腎」でもいいから、血液透析を離脱して早く仕事をしたい。

万波医師のレシピエントの大半が、2回目以降の移植だった点は特筆される(計 42例中 2例は4回目の移植)。移植腎は 10〜20年の経過で、慢性拒絶の状態に陥り、患者は血液透析に戻る(移植腎の平均生着率は、生体腎で17.9年、死体腎で11.3年)。

そうなった人にとって、家族から腎臓を提供されない限り、2度目の腎移植のチャンスは先ずない。移植ネットワークに登録した患者の移植待ち時間は、1回目で17年が日本の現状。万波医師は、2度目の移植をつよく待ち望む人の希望を叶えた。

血液透析を長期続けると、萎縮した腎臓の嚢胞が多発し、「後天性多嚢胞腎」から腎癌が発生する点も重要である。多嚢胞腎に10年血液透析をさらに続けると、実に4.9%に腎癌が生じる。移植病変に於ける小径腎癌の再発率よりずっと高い。

万波医師を中心とする「瀬戸内グループ」の腎移植の手腕は、700例に達する日本一の実績のもと、最高級レベルにある。癒着が強く困難度の高い3回目、4回目の手術もこなす。

小径腎癌の多くに部分切除を標準的に実践し、腎臓を摘出して患部を除去した後、その患者に戻す自家腎移植も、日本最高の20例の実績。そんなブラックジャック移植医に対して、日本移植学会は小径腎癌の標準治療や自家腎移植を指南する。何かおかしい。

文献
1)堤 寛:「病腎移植」禁止の動きに意義あり、ミクロスコピア 24:200-6,2007.
2)堤 寛:病腎移植(レストア腎移植):知られざる事実。現代医学56:247-54,2008.

つつみ ゆたか 藤田保健衛生大学 医学部 教授. 1980年、慶応義塾大学 大学院 終了 病理専門医。
http://info.fujita-hu.au,jp/pathology1/



L4WBanner20080616a.jpg


クラシックCD・書籍検索に便利!バナーをクリックして下さい!

|

« 惚れ込む、という感覚 | トップページ | 感覚と技術(ベルリオーズ『音楽のグロテスク』から) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 見つめなおす方法:

« 惚れ込む、という感覚 | トップページ | 感覚と技術(ベルリオーズ『音楽のグロテスク』から) »