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2009年12月10日 (木)

感覚と技術(ベルリオーズ『音楽のグロテスク』から)

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「思い込み」ということ、それを出来るだけ乗り越えるための「見つめなおし方」ということ、に、愚かしい考えを重ねてきました。後者はとりあえず社会的な話題の文例を用いましたが、音楽関係でふさわしいものはまた別途探します。・・・それは話をもう少し突っ込んで考えてからでもよかろうと感じてもおります。

「思い込み」を起こさせる大きな要因のひとつである、音楽を演奏する側の感覚、聴く側の感覚、について、さらに愚考を重ねたいと思います。ただし、ベルリオーズの著作(わりと最初のほうに集中して拾いますが)を材料にし、彼がどのように思考していたかを除き見てみて、<興味>としての推論をそこから組み立てるにとどめます。

ベルリオーズ『音楽のグロテスク』(森佳子訳、青弓社、2007)からの逸話。

「聴く側」からいってみましょうか?
といいますのも、タイトルにくっつけた「技術」は、ベルリオーズの思考の上では、どうも音楽にとって聴き手にはあまり関係がないもののようだからです。

「君たちは、よかれ悪しかれ、聴衆の洗練度を知っているだろう! 彼らに腹が立つだって! こりゃ驚いた! この試みのために選ばれたホールに集まった八百人のうち、おそらく五十人ほどが心から笑っただろうが、その他の聴衆はずっとまじめに聴いて拍手喝采したかもしれない。私は恐いのだ。聖歌とフィナーレの演奏の後を思うと。キリエのことを人は『これは難しい音楽ですね!』と言っただろうし、交響曲はずっと好まれただろう。/序曲について、行進曲とイギリスの歌には何人かがあえて不信を抱いたかもしれないし、隣の人に『これって冗談?』と耳打ちしたかもしれない。/しかし、それだけのことだ。」(訳書42頁)

曲が具体的に分からないながら、聴き手と演奏家それぞれが違ったほうを向いていて、とくに聴き手の大多数は音楽そのものの持つ意味合い等について考えながら聴くわけではない、と、演奏家(この場合はベルリオーズですか)側が受け止めているのがはっきり読み取れます。

・・・では、皮肉の対象になるのは聴衆側だけでしょうか?

さらに同じものから、こんなお話を。

「最後の繰り返しの間、名人はこの不運な楽器(クラリネット)のためのいろいろな曲を吹き続けた。そして、またしてもそれを・・・脚の間に置いた。次に、ポケットからナイフを取り出して、なんと、クラリネットのリードを大急ぎで削り始めたのだ。/笑い声やざわめきが会場に響き渡った。ご婦人方は顔をそむけ、ボックスの中に身を隠した。紳士方は逆に立ち上がり、よく見ようとした。叫び声や小さなうめき声が聞こえたが、この人騒がせな名人はリードを削り続けていた。」(同58頁)

これを読みますと、演奏者の技術が自分たちを満足させるかどうか、ということには、<考えていないはずの聴衆>でも、しっかり感じ取ることは出来ているのが判明します。(まあ、大袈裟な例ですが。これは引用元全体をお読み頂く機会がおありでしたら、そのほうがよく分かります。・・・ただ、訳者さんには大変恐縮ながら、読み易い訳ではありません。訳者さんがいけない、というのとはちょっと違うのです。フランス語原書の和訳には、よみづらいものが多いです。日本語との発想の落差ゆえでしょうか?)

となると、二番目の例から窺われる、ベルリオーズが心に描いているような音楽享受の上での理性的なもの、は、演奏者の技術力に左右されるのではないか、と、想像されることになります。

果たして、この推論は正しいのでしょうか?

で、もうひとつ。

「私はしばしば自問自答していた。ある人々が音楽にとらわれているのは、彼らがばかだからなのか、それとも音楽が彼らをばかにしたのか? 公正に考えた結果、私はこのような結論に達した。・・・・音楽は恋愛のような荒々しい情熱である。すなわち、音楽のせいで理性的な個人が一見理性を失ったかのようになってしまうことがある。しかしその大脳の混乱は突発的なものであり、その人たちの理性はその支配力をすぐに取り戻す。(中略)それ以外の人びと、本物のグロテスクたちにとって、明らかに音楽は彼らの精神的能力の混乱に一役買うものではなかった。また仮に、この芸術の実践に身を捧げようという考えが彼らに浮かんだとしても、それは彼らが共通の感覚を持つということではなかった。音楽は、彼らの偏執狂ぶりには無関心なのだ。(中略)そもそも、おかしな機知の枠組みに自らを置くことを大変誇りにしている人たちが存在するのだ。彼らには機知など全くなかった。それらは空っぽの、少なくとも片側が空っぽの頭蓋骨である。大脳の右葉も左葉も彼らにはなく、つまり二つの葉がいっぺんにないのだ。」(同46〜47頁)

・・・はてさて。おいらのことをおちょくってるみたいな。

だめ押しにもうひとつ。

「彼はトロンボーンの無限なる優位性を証明するために、乗合馬車で、鉄道で、あるいは蒸気船で、または二十メートルの深さの湖を泳ぎながら演奏したことを自慢にしている。彼のメソッドには、湖で泳ぎながらトロンボーンを吹く方法を知るための特別な練習とともに、結婚式や宴会用の楽しい歌が含まれている。それら傑作のうち一つの下方に、このような忠告があるのに気づいた。『結婚式でこの曲を歌うとき、Xとある小節のところで、高く積まれた皿の山を飛ばさなければならない。これがすばらしい効果を生み出すのだ』」(同50頁)



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コメント

こちらではお久しぶりです。読みづらくって、斜め読みにすませてしまった自分は、こんな面白い事が引き出せたんだ!と反省いたしました。(原文はこんな構文になっているんだろうな・・・と想像しないと、意味がつかめませんでした。)

投稿: sergejO | 2009年12月11日 (金) 16時04分

sergejOさん、ありがとうございますー!

訳文の問題もあるので、フランス語のお分かりになるかたは、原文で読むともっと分かり易くなるんでしょうね。わたくしめはフランス語だと1行読むのに1年かかるので、読み終わるのに数万年はかかるでしょうからあきらめます。(ノд・。)
あとは、訳者がご親切に残して下さった注釈を読まないほうが分かり易いですね。

それにしても、この本、おちょくりあり、自虐あり、で、マニアックにおもろいですね。フランス人と京都人の自虐は、ちと難しいのがこまっちゃうところですが。

(;´д`)トホホ…

投稿: ken | 2009年12月11日 (金) 21時44分

いやまったく、ベルリオーズの本は伝記もそうですが、かなり笑いのセンスありであります。(音楽も本来、笑えるものなのでは・・・と思ったり・・・)

投稿: sergejO | 2009年12月14日 (月) 12時47分

あたくしの愛聴作品は「イタリアのハロルド」と「ファウストの劫罰」でーす!
・・・でも、こいつらは硬いほうかも知れません。
「トロイの人々」は・・・コミックかも。

投稿: ken | 2009年12月14日 (月) 23時41分

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