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2009年12月20日 (日)

音楽の色を消すもの

さて、音楽にも色合いがあるのではないか、という話でした。しょうもないことにとらわれていないで、もっとしょうもないことに戻っていきましょう。

色聴ですと、単に(たぶん絶対的な音の高さとしての)「ドレミファソラシド」と(そうであれば必然的にハ長調の)主要な和音についてのみ考えられていました。
西欧音楽では、しかしながら、色彩そのものではないにせよ、同じ長調あるいは短調でも、基礎となる音の高さによって性格が異なってくる、と考えられていました。

ここでは、シューバルト(1739-1791)が述べた、調による性格の違いを、石多正男氏『交響曲の生涯』(東京書籍 2006、123頁)から孫引きしてみましょう。彼の説明は先輩後輩や同時代の作曲家の調の用い方とずれているのではないかと感じられることもなきにしもあらず、なのですが、他にここまで具体的に述べた例を参照できておりませんので、一例として取り上げておきます。

ハ長調:きわめて純粋な調である。その特徴は無邪気、素朴、無垢、子どもの言葉。
ハ短調:愛の告白、そして同時に失恋の嘆き。(以下 略)
ニ長調:勝利、ハレルヤ、戦争の叫び声、勝利の歓喜の調。(以下 略)
ニ短調:気まぐれで霧がかかったような性格を持ち、憂鬱な気持ちの女性のよう。
変ホ長調:愛、祈り、神との快い会話の調(以下 略)
ヘ長調:親切と安らぎ。
ト長調:どれも田舎風、田園風、牧歌風である。(中略)この調は優しくて静かな心の動きを表すのに最も適している。
ト短調:腹立たしさ、不快、計画を失敗したときの苛立ち(以下 略)
イ長調:無邪気な愛の告白、与えられた状況に対する満足の告白である。
変ロ長調:明るい愛、立派な良心、希望、よりよい世界への憧れ。

調に性格を感じる、というのは、素材として浮かび上がる個々の音の「色」が絵画上のフォルムだとするならば、それをひきたてる「地」の方にも、ムードを形成する基調としての「彩」がある、ということを示しているのでしょう。

ピッチの相対的な変化にもかかわらず、概して低めのピッチで演奏される「古楽」であっても(ひとこと余分を挟んでおけば、「古楽」=低いピッチの演奏、ではありません)、団体によってけっこうピッチに大きな高低差のある伝統的「モダンオーケストラ」であっても、たとえばベートーヴェンの交響曲9つの相互の色彩差は、ある団体の演奏で通して聴く、ということを何通りかやってみると、それぞれの個性を超えて一貫しているのだと感じ取れます。あるいは、モーツァルトのピアノ協奏曲なら、ハ短調の薄青い暗がりとニ短調の鮮烈な赤は、ピッチの違いによって基本的な色彩差は生じないように、私には想われます。

ところが、作品本来の持つはずの色彩感が全く感じられない演奏というのも存在していて、私が昨日ついついヒステリーを起こしたのは、その類のものにドカンと出くわしてしまったからなんだ、と、自分では思い込んでおります。(これは、この記事を綴ろうと思っていた途中に出くわしたことでして、本来はまさかそんなものを目にし耳にしてしまうだろうとは想像もしていませんでした!)

合奏を念頭において綴っていますけれども、ピアノ音楽でも話は同じでして、設計なしに、単純に機械化した演奏の上に機械で計算したようなランダマイズを加えた程度のものは、わざわざ人間がやる必要はない。コンピュータによる「ヒューマナイズ」を施したMIDI加工で充分代替がきいてしまう。

道具立てが色彩の生成を損ねてきた側面もあるでしょう。

・ガット弦からスチール弦への移行、キーやピストンの発明。
・楽器の筐体の頑強化。
・世界標準ピッチなるものの普及(しかもこれは有名無実化しています)。
・平均律でしか行われない調律教育。
・録音技術の発展による「規範的な演奏への修正」の安直化。
・これらの普及で硬直してしまった私たちの保守的な「耳」。

では、そうした外面的なものを物理的に排斥しさえすれば音楽に色彩感は回復するのか、というと、話はそんな単純なものではないのではないでしょう。

諸悪の根源のように列挙した上の6項目のうち、最後のひとつを除くと、他のものは、音楽を演奏してきた人たちが、自分たちの味わっている不自由さをどうって克服しようか、と悩み、試行錯誤した結果なのであって、それそのものは本来悪ではなかったはずです。ですから、メリット面を生かした演奏だって、ちゃんと存在していますし、それによって感動を受けることも全然、不健康なことではない。

だとすれば、最後の項目とも関係しますが、先人の努力の結果できあがってきたものを、努力の過程を忘れて
「あたりまえのことだ」
としか感じていない、便利さの中に埋没してしまって鈍くなった私たちの「ヤワ」な根性こそが、本来は境目を見出せるはずのない虹の色彩のグラデュエーションに無理やり手かせ足かせを嵌めるような音楽の享受方法しか知らない愚人に私たち自身を仕立て上げてしまったのだ、ということになります。
(ここは音楽を考える場所にしていますので音楽の話にしかしませんが、とくに今の日本には何事につけ、こうした自体がはびこっていたりはしませんか? とくにここ十年ほどは閉塞感ばかりが徒にまして行く世の中になってきてしまった気がしております。)

私たちは何気なく聴いてしまうのですが、まず、ピアノ奏者は一様に平均律に調律されたピアノで演奏をしています(たとえばミケランジェリのような例外はあります)。ですのに、なぜ奏者が異なると違う「地の色」を・・・調性の持つそれとはまた別個に・・・感じ取るのでしょう?
同じ楽譜を読み取っても、「そうか、この図面から読み取るべきはこの線分とこの図形、立体だ」というところに、まず個人差があるからでしょう。(また話がズレますが、イランの伝統音楽は、こうした個人差をもっとも大切な要素とみなしています。)
奏者が優れているか、そうでないか、を分けるのは、そこから先の取組みと実現する力量です。・・・その人が世間一般的に人格者かどうか、ということとは、ここには待ったうちがうモノサシが介在するのですが、これは別段、音楽家さんに限ったことではないでしょう。
ピッチは、じつのところ、聴覚は物理的に調整された絶対音高そのものを聴いてはいません。低い音が基調に流れているときには、その上を流れる旋律音は下に引きずられ、基調音が高めになるほど上に引っ張られます。あるいは、鋭く鳴らされれば、やはり上向きにぶれて認知されます(これははニ短調のほうがハ短調より鋭利に聞こえること、小刻みなリズムのほうが高揚した色彩感を持つことと関連を持っています)。
優れた奏者は、音符という記号がどのような意図で配列されているかを適切に読み取った上で、自分の持つ筆の太さや硬さのうちどれが適切かを選び取り、出さなければならない赤の彩度をも慎重に選択し、いざカンバスに描画するときには、筆を走らせる速度をあやまたない判断力と運動能力を兼ね備えているのだ、と知るべきでしょう。
自分のそうした力量を生涯秘密にする人もいますけれど(ヴァイオリニストにはパガニーニという有名な例があります)、たいていの優れた奏者は、いかにして、そうした「描画法」を誰にでも分かりやすくするか、を考え続けてきています(ショパンはそうした一人でしたし、現代にはもっと多くの尊敬すべき存在が・・・日本にだっていらっしゃいます)。
日本の奇妙なところは、そうした「色彩感覚」の持ち主を得てして異端児扱いにし、影響力のある外国(クラシックの場合は東洋世界ではだめです)で評価されたことが大々的に報じられて初めて、掌を返したように高く評価し出し、果てはその人を「あばたもえくぼ」的に持ちあげてダメにしてしまったりする風潮があるところではなかろうか、と、私は常々、下種の勘繰りをしております。

でもって、普段の「権威」は、窮屈な規則に、さも窮屈さを感じないで従い、それでも見た目・聴く耳には円滑に流れる「だけ」の演奏に終始する、まるで彩りの失せた、表面的な模倣ができるだけの、印刷物の色彩しかないものに付与される。

カンバスの上にごつごつと盛り上がった絵の具の塊のような質感までをも含めて、初めて色彩が生成するのだ、ということには、私たちはいつの間にか鈍感になっていはしないでしょうか?

それを受け止められない「鈍った感性」こそ、私たちから、音楽が本来備えている「色」を、単に見失わせるだけでなく、そうした態度が一般化することで、作り上げる音楽そのものからをも「色」を奪い取ってしまうのではないでしょうか?

ちょっと抽象的な話題になってしまいました。

メインパソコンが復旧次第・・・これも機械ですから、機械がお伝えできる以上のものはご提供できないのですけれど・・・、少し具体例を観察していただけるように出来るようだったらいいなあ、と想っておりますが、さて、生意気を綴る割に私自身の力量はからきしですので、適切になしえるかどうか。。。

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