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2009年12月29日 (火)

曲解音楽史64)西欧前期ロマン派

過去の音楽史関連記事はこちらの「曲解音楽史:総合リスト」からご覧頂けましたら幸いです。



ヨーロッパの「古典派」は「啓蒙思想」とほぼ併行した、「音楽の規範化・定型化」であって、その背後には「上から目線」があったのではないか、ということが、ヨーロッパ古典派とはなにかを考えた際の概略でした。
したがって、古典派音楽にはフランス革命のハッキリした陰は、まだ落ちていないのではなかったか、と思っております。

「フランス革命」の陰が落ちたことによって生まれ始めた音楽をさして、人は「ロマン派」というのではないか、ただしそれは誕生時と成熟時では地域的広がりと内容に差があるのではないか、というのが、今回の趣旨です。で、誕生時の「ロマン派音楽」は東欧やロシアを含まないと思いますので、西欧と限定させていただきます。(詳しくは見ませんが、東欧・ロシアのこの時期の「非・民族」音楽は、まだ「ロマン派」の流れにのまれていないと考えます。)

革命の陰が落ちた、といっても、それが人々の思想をどう変化させたか、ということはすぐには問題になりません。というのも、頭の中の考え事は、共同体の生活パターンがある程度決まってきて初めて影響力を持つか持たないかが決まってくるからです。
「フランス革命」の最初にして最大の影響は、イギリスを除く、とくにフランス・ドイツ・オーストリアでの「従来の人間関係の崩壊と新しい人間関係の不確立」ではなかったのでしょうか?・・・これは19世紀後半になると、「帝国=植民地までをも包含した<国家共同体>」の構築を東インド会社経営などの経験を経て先行して行っていたイギリスやオランダ、そこになんとか割り込み続けていた本来の先行者スペインとフランス、ドイツが絡み合って、さらに変質を遂げていきますが、それについては、上記の東欧北欧世界の音楽の性質も包含されてくるという異なった局面に至るとの理由もありますので、分けて考えたほうがよかろうと思います。

ナポレオンの侵攻でイタリアも東欧圏もロシアも大きく揺れはしましたが、イタリアはもともと治安の乱れには慣れっこになっていたようですし、ロシアにとってはあと半世紀くらいは「革命思想」が帝政を揺るがすまでには至りません。ドイツやオーストリアにとっては大きめな対岸の火事であり、とくに対ナポレオンで資産を消費した貴族層は没落しますが、戦争の常で、金融業者は新たな力をつけ、産業構造の変化が別の資産家を産み出します。19世紀初頭のこのときには、近代的な企業が誕生し、金融関係者とともに新しい資産化階級層を構成するに至ります。ブルジョア、というのは、こういう人々を指す言葉なのかなあ、と、私は理解をしております。
ルイ16世や17世、マリー・アントワネットの悲劇がとみに喧伝されることにはなりましたが、結果としてナポレオンの凋落により、フランス・ドイツ・オーストリア(=東欧圏およびスペイン)の王室・帝室は安泰を保ちます。
ただ、貴族階級を衰退させてなお生き残った王室・帝室は、新しく資産階級を構成したブルジョアに対しては、貴族に対するような権威を持つことが出来ませんでした。なぜならば、王室・帝室の資産も、貴族の資産も、保護者か被保護者かという位置づけをめぐっての政争が幾たびか繰り返されてはきたものの、大きな目で見れば、互いに独立の関係を保っていたのですが、ブルジョアについては資産をめぐっての立場が異なりました。戦役で疲弊した王室・帝室の資産は、いまやブルジョアからの借財で賄われるようになったからです。(日本は同じ頃、むしろ治安の安定により米経済から貨幣経済に移行したことで、結果的に西欧と似た状況が生まれており、興味深く思われます。)

「フランス革命」の思想(どちらかというとあとでとってつけたものが多い気がします)よりも、革命という行為そのものが引き起こした、経済・産業構造の急激な変動は、結果的に、革命の主体となった「ブルジョア層」も、対立した「貴族層」も、おそらくは想定をしていなかった、日本で言えば小作農の師弟や徒弟の「無産階級化」を引き起こします。この現象抜きにして、いわゆる社会主義や共産主義がなぜ起こったかを安直に論じるわけにはいかないだろうと思います。・・・植民地化された各国も産業構造という意味では同じ危機に立たされたことは、江戸期の安定した治安の中ですでに構造変化への適応まで終わっていた日本とは大きく異なっている、との認識は、ぜひ必要だと思います。
とくにフランスにおける徒弟制度の崩壊から職人層の無産化までについては、ご興味があれば手軽なものとして喜安朗『パリの聖月曜日』(岩波現代文庫 2008、原著は」平凡社 1982)の「Ⅵ 出稼ぎ石工マルタン・ナドの回想より」をご覧下さい。出稼ぎ前提で生活していた庶民層の構成する社会が、ギルドの実質上の崩壊により、フランス革命前後でどのように変化したかが石工の例でよく分かります。その次の章である「Ⅶ 路上の生活者たち」も好材料を提供してくれます。
なお、無産階級化した余剰労働力を「プロレタリアート」と呼ぶようになったのはフランスの社会主義思想だったかと認識しておりますが、誤りがあったらご指摘下さい。これを引き継いだ共産主義が、フランスの7月革命での「無産階級の人々の闘争」・・・実態的に「闘争」といえるほどに結束力のあるものだったかどうかは多彩な研究があり、不定です・・・「無産階級」の結束と自立を激しく呼びかけるようになりましたが、その結果としてそういう括りをされた人々にまで(大衆音楽を含め)自発的な音楽活動はいきわたらなかったのではないか、というのが私のいまのところの認識です。むしろ、「フランス革命」に端を発する旧制度の崩壊は、右派左派を問わず、政治的な思考をする人はもちろん、次に掲げるヘーゲル(を聴講した人物の纏めたヘーゲルの捉えられ方、と言ったほうが、ヘーゲル自身の意図した「個]の自覚の側面が削ぎ落とされていることもありますので、より正確です)のような、世俗とは一線を画すことを意図した「哲学」の領分にまでも、「帝国至上主義」とでも言ったらよいのではないか、という発想を一様に浸透させていきます。ですから、左派の典型としてのソヴィエト連邦、右派の典型としてのナチス政権が誕生したのは、別に両極端の事象ではなく、一卵性双生児の関係にあると考えていくべきではなかろうかとも思っております。

「個人はそれぞれに価値ある点や非難されるべき点をもち、賞と罰をうけますが、精神の絶対的な究極目的が要求し成就すること、もしくは、神の摂理がおこなうことは、個人の道徳性にかかわる義務や責任能力や要求を超えたものなのです。」(ヘーゲル『歴史哲学講義』1994長谷川宏訳 岩波文庫 p.118)

「かくて、内面性の最後の頂点が思考です。思考をしていないときの人間は、他なるものと関係していることになって、自由ではない。が、もっとも内面的な自己確信をもって他なるものをとらえ、概念化するとき、そこにはもう神と人間の和解が生じているといえる。思考と他なるものとの統一はもとから存在しているので(中略)思考のむこうにあるものはもはや彼岸ではなく、思考とべつの実体的性質をもつものではないのです。」(同 p.348)

「オーストリアは(と、ヘーゲルはここで各国に仮託して述べているのですが)王国ではなく、多くの国家機構のよりあつまった帝国で(中略)いまではヨーロッパの独立した一政治権力となっています。/イギリスも大きな努力を払ってその古い基礎を維持しようとしました。ヨーロッパ中がフランス革命にゆさぶられるなかで、イギリスだけはその体制をもちこたえた。(中略)イギリスの体制は特定の権利と各種の特権のよせあつめでなりたっています。(中略)イギリス人はそう思いたくないかもしれないが、統治しているのは議会です。(中略)イギリス人の経済生活は商業と工業を基礎としていて、全世界に文明を伝導する、というのがかれらの偉大な使命です。商魂たくましいイギリス人は、あらゆる海とあらゆる陸をたずねあるき、蛮族と接触し、蛮族のうちに欲望と産業をよびさまし、とりわけ蛮族のもとに交易の条件をととのえます。つまり、暴力行為をやめさせ、財産の尊重と客をもてなす風潮を育成するのです。」(同 下p.368〜372)

「意識はここまでやってきました。のべてきたのは、自由の原理を実現していく主要な精神の形態です。(中略)哲学は、世界史にうつしだされた理念のかがやきしか相手としないもので、現実世界のうんざりするようなむきだしの情熱的行動については、考察の外におくほかはない。哲学の関心は、実現されてゆく理念の発展過程を、それも自由の意識としてあらわれるほかない自由の理念の発展過程を、認識することにあるのです。」(同 下p.373〜374)

以上をつくづくながめてみますと、ヘーゲルの言う「自由」は(省略しましたが)フランス革命による体制の崩壊のなかでなお残った西欧の諸体制のなかにモデルを見いだし、とりまとめてしまったことで、「個人の」という色合いよりも「帝国>王国よりも進歩した政体」という図式を、おそらくはヘーゲル自身の意図に反して定着させていく上で、<力強い>バックボーンを形成してしまったのではないかと感じられてきます、これが、思想面ではマルクスらによる「ヘーゲル左派から共産主義へ」と、ニーチェにより「虚無主義的体制信奉」いずれをも産み出す巨大なゆりかごになったらしいことは、実質は聴講記録であるこの『歴史哲学講義』のなかにちりばめられた様々な語彙から直感されることでもあります。

が・・・政治的なことそのものには、極力立ち入らずにおきましょう。
現象としてのそれに対する視点が決まれば、私にとっては充分です。

音楽の面では、ヘーゲルのこの把握から窺われるように、19世紀初頭は大きくは、経済単位を構成していたフランス(およびイタリア)とドイツ(およびオーストリア)が分断された動きを見せ、極端な場合にはウェーバーの歌劇の存在のように、そのぶつかり合いのうえからドイツ側の独自性を見せるものも現れてきます。

イタリアで名声を高めていながらもロッシーニが富をなした地がパリであることはもっとはっきり記憶されてよいですし、イタリア〜パリの歌劇界はこのときすでに「民間経営」とでも見なしうる状態になっていたのに対し、ドイツは依然として、というより、むしろなお盛んに宮廷歌劇場や市立劇場という「公的機関」によりどころを求めていく、という図式は、やがてヴァーグナーに象徴されるようなドイツ歌劇(楽劇)とフランス歌劇の「断層」を表面化させる伏線となったのではなかろうかと思います。(ヴァルター『オペラハウスは狂気の館ー19世紀オペラの社会史』小田島豊訳 春秋社 2000年 が、日本語で読める最良の文献であろうかと思います。)

ドイツ的なものについては、歌劇の世界によりは器楽面での評論が目につくシューマンの著作も興味深いのですが、シューマンの言説はそのまま先のヘーゲル『歴史哲学講義』にあらわれる次のような言葉に結晶しているのではないでしょうか。

「作品には、その要素の一つとして、普遍的な思考がふくまれます。思考なくして作品に客観性はなく、思考が作品の基礎です。一民族の教養文化の最高点は、自分たちの生活や状況、法律や正義や道徳を、思考ないし学問によってとらえることにる。思考の統一こそ精神のもっとも内面的な自己統一だからです。精神はその作品において自分の対象化をめざしますが、自分の本質を対象化するには、自分を思考するしかありません。」(前掲同 上p.132)

シューマンの沈潜する作風に、なんとぴったり一致する言葉でしょう! あるいはメンデルスゾーンにしても、彼の自己検閲の厳しさにはこうしたドイツ的発想を背景に持っていると考えてもよいのではないでしょうか?

かたや、フランスはというと、ベルリオーズは、<劇場の損益>に即したクールな物言いをしています。

「わが国のとなりに、音楽が真に愛され尊敬されている国がある。したがってその国では、長い時間がかかる演奏会やオペラ上演などを聴くことはないだろう。その国で、夜の音楽会は六時半に始まり、九時あるいはせいぜい九時半には終わることになっている。というのは、十一時にはみんな寝てしまうからだ。/わが国でも、十一時にはみんなが寝る。しかし音楽は終わらないのだ。生産的な成功を得るためにわが国の作曲家は七時から夜中まで、ときにはそれより遅くまでわめいている気のいい太ったオペラの無法者たちについて書くことを是が非でもしなければなるまい。(中略)例えば、何かあってふと我に返るか、さくらが拍手を忘れるなどということが起きるまで、カヴァティーナ(注:私たちが「オペラのアリア」として認識しているものと同じだと思っておいて下さい)の滝(注:トコロテンのように降り注ぎ続ける太麺状の大雨を想像して下さい)のやむことのない音に揺られている。そこで、彼らはハッと目を覚ますのだ。」(ベルリオーズ『音楽のグロテスク』森佳子訳 p.268〜269、青弓社 2007)

・・・ベルリオーズ自身、(『幻想交響曲』はともかくとして、)『ファウストの劫罰』だとか『トロイの人々』といった<超大作>の作者であることを、ここでは思い起こして頂ければと存じます。

なお、オーストリアはドイツといっしょくたにしてみることはできず、たとえばロッシーニが大流行したこと、シューベルティアーデが社会主義的色彩を帯びていたことなど、むしろ不思議とフランス寄りの色合いをもっていたのは銘記されるべきでしょう。これは、首都ウィーンで繰り広げられた外交がロシアをも含めフランス語で展開されていたこと、処刑されたマリー・アントワネットの故地でもあり、ナポレオンの侵攻の影響が大きく彼にも皇室から妃を嫁がせていることなどの結果であって、保守主義の権化であるメッテルニヒの政治面での立ち回りのうまさが、ドイツの硬い文化よりはフランスのくだけた文化受容を促進した面があるかもしれません。メッテルニヒについては自伝の訳や伝記も出ていますので、目を通してみるのもよろしいでしょう。
都市としての不衛生さも、ウィーンとパリでは、革命後の後者のほうがかなり悲惨だった(『パリの聖月曜日』参照〜この本の記述を知っておくと、ベルリオースの前掲書の別の部分にパリの不衛生さが反映されていることも分かってきて興味が深まります)のですが共通性があり、私たちの認識では短命な印象のあるシューベルトが当時のウィーン男性の平均寿命を少ししか下回らないで死去している事実や、ウィーンでならばベートーヴェンが54歳で既にかなりの老人であったと人々の目に映っていたのもむべなるかな、ということが見えてきます。(ハンスン『音楽都市ウィーン』訳書 音楽之友社 1988)

とりとめもなくなってしまいました。これで、しかしカヴァーしたのはロマン派前期までです。

具体的な作例はお聴き頂けなくなってしまいましたが、ドイツ圏につきましてはご存知の作曲家たちばかりになってきます。

・ドイツ圏:シューベルト(ただし以下とは異質)、ウェーバー、メンデルスゾーン、シューマンなど
・フランス圏:ベルリオーズ、グノー、ショパン、リスト(前半生)など、またドイツ側ながらマイヤーベア
・イタリア:ロッシーニ、ベルリーニ、ドニゼッティなど

というところが代表的な名前でしょうか。ケルビーニだとかフンメルだとかライネッケだとか、他にも本来無視すべきではない創作をした人たちもいますが。

長々失礼しました。

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