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2009年11月21日 (土)

終了:増井 一友さんリサイタル東京公演

増井一友さんクラシックギターリサイタル、東京公演終了しました。大阪公演11/28、おススメです。
下記の2記事を是非ご参照下さい。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/11211128-e6af.html
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-7de4.html


ご案内した増井一友さんのクラシック・ギターリサイタル、東京公演は本11月21日(土)、盛況をもって終了しました。

大阪音楽大学で教鞭をとっていらっしゃるので、関西方面ではご存知の方も少なくないようですが、東京公演はご本人にとっても「賭け」の側面もあったかもしれません。
それが、会場をほぼいっぱいにするお客様を得ての公演になったことは、非常に喜ばしいと思います。

増井さんは2007年から2009年にかけてドイツの11都市でソロコンサートを展開し、邦人作曲家の作品を紹介すると共に、バッハのシャコンヌ(原曲は無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番の終曲)の名演奏で大好評を博して来ました。そうして得た手応えをご自身なりに再確認する国内リサイタルでもあったのではなかろうか、と、勝手に推測しながら拝聴しました。

前半冒頭は、そのシャコンヌ。
従来のヴァイオリン演奏では決して聴くことのできなかった舞曲の風情・・・それは「シャコンヌ」が舞曲である以上当然のことであるにもかかわらず、ヴァイオリンの演奏にはそういうものが稀なのです・・・が、ギターではごく自然に保たれることを、この耳で直に確認させて頂けたことはありがたい収穫でした。バロックヴァイオリンならば舞曲としてのスピード感・リズム感で演奏することが定着し始めているのですが、一般のバッハファンからは、そうした演奏はまだママ子扱いです。ギターは今でもフラメンコやタンゴ、と踊りに密接に結びついた楽器であり続けており、この点ではシャコンヌの演奏に衒学的な要素を持ち込む必要がまったくなく、聴き手の耳に素直に響く、しかめっつらではないバッハを奏で得ます。これは非常にうらやましいことでした。なおかつ、ヴァイオリンでは弦の張られかたがアーチ状であるため絶対に実現不可能な、そのために現在のようなバッハの重い演奏方法を定着させることともなった3音以上の重音の同時発音がギターではあこれまた当たり前に可能であることから、ヴァイオリニストがやりがちな「響きを殺して発音している音だけを充実させる」奏法にも無縁であり、バッハの無伴奏弦楽作品は撥弦楽器向けの発想で作られた、と捉える方が自然ではないか、との思いが、本日拝聴しているうちにますます強まりました。いたずらにドラマチックにならず「バスラインに沈潜する」本来的なシャコンヌの音調は、ヴァイオリンでこの作品を演奏する人は誰でも増井さんの演奏から学び直し、自分の奏法をあらいなおさなければならないのではないかと強く感じます。
すみません、自分も素人ヴァイオリンを弾きますので、シャコンヌのことばかり長くなりました。

それ以外のプログラムは以下のとおりです。どれも、言ってみれば超絶技巧を要する曲ばかりだったのですが、増井さんの最大の美点は、「技巧は音楽のイディオムに過ぎない」ことを熟知していらして、それと知らない私のような愚かな耳に向けては、全てが自然に流れる音楽の中に組み込まれているように「聴かせて」しまえる力量と精神の姿勢です。

・ソル(1778-1814):ギター独奏のための奇想曲「静けさ」作品50、ロンド 作品48-6

・武満徹(1930-1669):「森の中で」ギターのための三つの小品

・ヒナステラ(1916-1983):ソナタ 作品47

・プジョール(1886-1980):三つのスペイン風小品

・アセンシオ(1908-1979):内なる想い

ソル(スペインに生まれ、フランスに死す)はクラシック・ギター音楽においてはヴァイオリンのパガニーニ、ピアノのリストに相当する位置を占める人物ですが、上げた三者のなかではもっとも叙情性に富んでいるのではないだろうか、と感じてしまったのは、もしかしたら増井さんの魔術かもしれません。
武満徹作品も、なかなかこれほどの穏やかさで演奏されることはないのではなかろうか、と思ったほどに静けさに溢れていました。

静かな「熱さ」を備えている増井さんの手にかかると、アセンシオ(20世紀スペインの大作曲家)もまた魔法の音楽です。上手に言えないのですが、「内なる想い」とは、いわゆる暗い情熱なのではなくて、心の池の水面の上を吹く風によって、心がどれだけ波立つのか、を、自己が池の水のそこから水面をいつも虚心なまなざしで見上げていることなのですね。この曲の持つそうした重要な意味合いを、増井さんの右手が風となって、ギターの響きの水面を豊かに波立たせたり静めたりすることにより視覚的にも明瞭に見せて下さった(それはまったく静かな仕草のうちになされましたし、当然のことながら響きの質をも規定していました)のは特筆すべきことではないでしょうか?

プジョールもまたスペインの作曲家でターレガの弟子だった人物だそうですが、スペイン風舞曲と言いながら2,3曲目は南米由来のタンゴ(アルゼンチン発祥)、グアヒーラ(キューバ発祥)が配置されており、確かに南米の香りがするところが面白く、スペイン文化がスペイン本土だけでなく、彼らが進出した南米の文化風土とも一体となっていたのだということについて考えなおさせてくれるに充分な響きをしていました。

アルゼンチンの作曲家であるヒナステラの作品は、ギターの胴を叩いたり糸巻き箱をはじいたり、叩き付けるような特殊なグリッサンドや花火が散るような手さばきを要求される難曲でしたが、それらの超絶技巧を超絶技巧だとまったく感じさせることなく、音楽の流れの中に自然に取り込んでしまうのが、名人の条件でしょう。この点については、ソルのところで述べたのとまったく同じことが、増井さんの演奏には当てはまります。

それはともかくとして、ヒナステラにせよメキシコのポンセにせよ、中南米の20世紀音楽は、ギターという素材を持っていたことで、いかに得をしたことか、と、尊敬とも嫉妬ともつかない感情を引き起こさせます。用いられている「現代的奏法」が如何に日本の作曲家も用いたものと同じ技術であっても、中南米の20世紀作品は、そのまま素直にメキシコやアルゼンチンの国民性を表わす音楽として親しみ得ます。武満作品は日本的なものを捨て去ることで成り立っている面もある気がしますし、他の20世紀日本人作曲家の作品は、日本風にこだわるればこだわるほど、日本の風土とは乖離した音楽を創るしかなく、武満のようにそこから最終的にはうまく逃れたかに見える作曲家のものでも、今度は日本を捨象することで、聴衆にとってはますます謎の音楽になっていくしかなかった・・・前日ポンセを拝聴し、本日ヒナステラを拝聴して、あらためて強く迫って来たのは、
「あー、こりゃ、日本人は惨敗だなあ」
とでも言うべき感慨です。

とはいえ、先に述べ落としましたが、増井さんが武満作品、いやそればかりでなくアセンシオ作品のようなものを演奏なさるにあたっても、欧米人の直裁さ、大陸アジア系の押しの強さとは一味違った、淡々とした味わいを冷静に保ち続けていたことには、またある種の安堵を覚えずにはいられませんでした。

アンコールにお弾きになった「アルハンブラ宮殿の思い出」は、これまで聴いて来たこの曲のどんな演奏よりも、静かでありながらいつまでも持続する奥深い歌心を存分に味合わせて下さるものでした。

とりとめもない感想で恐縮です。

大阪公演でのご成功も、心からお祈り申し上げております。


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コメント

レポート有難う御座いました。
これでは、大阪公演なんとかして、行きたく
成りました。何とかならないかな?日程。

投稿: 楽・酒・楕円 | 2009年11月22日 (日) 05時04分

楽・酒・楕円 さん

ありがとうございます。
是非是非、万障お繰り合わせの上お越しになって下さい。
気さくなサロンコンサートも格別なのでしょうが、リサイタルとしての緊張感が醸し出す響きは、味わっておくべき貴重なものになると存じます。

投稿: ken | 2009年11月22日 (日) 15時06分

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