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2009年11月12日 (木)

「心に歌を持つ」ということ

増井一友さんクラシックギターリサイタル、東京公演11/21、大阪公演11/28、おススメです。
下記の2記事を是非ご参照下さい。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/11211128-e6af.html
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-7de4.html



ブラームス第4の話の補足です。(前記事はこの件について直接変更はしません。)
第2楽章のホルンの「ラー・ラー・シbード|...etc.」の「ラ」は、クラリネットで正式に提示される主題のときは「ド」にあたる音程、すなわち、クラリネットの歌いだしより長三度低いものであり、クラリネットの奏でる長調の主音となります。これが冒頭及びホルンの奏でる教会旋法においては「吟唱音」となる、というのが、前記事の旋法の判定根拠です。(これは正しくないかも知れず、違った解もあります。)

さて、標題の件に話題を転じます。

アマチュアの団体に出向いて、常々奇妙に思っていることが二点あります。
ひとつは、集団での練習では、下り番のメンバーが、出番のない特定セクションを練習しているときは良しとしても、全曲通しの練習の際に、しばしばその特定セクションに差し掛かると練習場所から退去してしまう光景です。・・・これは、これまで出向いた殆ど全ての団体に共通して見られます。
もうひとつは、アンサンブルの練習であるのに、休憩となるとこれ見よがしに高難易度の独奏曲を演奏しだす人がいることです。このこともまた、上に同じ、です。

いったい、これらのことが当人はともかく周囲にも是認される、というのは、どういうことなのでしょうか?

アンサンブルの練習をしているのにアンサンブルに興味がない・・・それを明示するような行為が肯定されるということは、いま、その場で練習されている<歌=音楽>に対して、このような行為をする人も受け入れる人も、「愛情」を持っていない、ということを示しているのではないでしょうか?

ただし、当該行為者が、練習中の曲以外の作品を近々に人前で演奏しなければならない、という切羽つまった状況である場合は例外として差し上げてよろしいでしょうし、さらに警戒しなければならないのは、この行為をすることを「集団のルール」として規定化してしまって良しとする事態が起こることです。文章によってであれ不文律としてであれ「規則化」されるのは強制を生み出します。先の疑問提示はそんな強制を意図していないことは、はっきりと申し上げておきます。行為をする・しない、是認する・しない、は、個々人がその人自身のモラルとして決定すべきです。でなければ「意志」の力はその人のものにならず、「愛情」もまた、その人の内側から湧いて来る自然なものではなくなります。

むしろ、問題にしたいのは、それなら何故、そうした行為を呼び起こすのがはっきりしているような曲を、わざわざ選んで集団で練習なんかするのか、ということのほうです。ここは、私の文章が拙いので、ぜひ、お読み誤りの無いよう、お願い致します。

歌ったり楽器を手にしたりする人がしばしば口にするのは、
「あー、練習時間が足りない、練習場所がない」
との愚痴だったり逃げ口上だったりします。

では、なぜ、耳が聞こえなくなっていったベートーヴェンやフォーレやスメタナは、失われていく聴力の中でも音楽を創造しえたのでしょうか?

演奏する音楽がその作品にふさわしく聞こえない<初歩的な>理由は、演奏者の技術不足によるものであるのは、おそらく間違いないのではありましょう。
ただ、技術にはふたとおりありまして・・・正しい形さえ身につければ、乗り方を覚えた自転車のように、いつでも駆使できるようになるものがまずひとつ。肉体的な制約があって、どうしても習得不可能である技術が、もうひとつ、だろうと思います。分かりやすい例では、手の小さな人がラフマニノフの書いた和音をそのとおりピアノで弾こうとしても、届くだけの手がなければ出来ない、というのが後者の典型例で、これはラフマニノフの協奏曲を見事に弾きこなしている(と傍目には感じられる)アルトゥール・ルビンシュタインでさえも「私にはラフマニノフなんて絶対に弾けない」なる不可解な(!)発言をなさせた類のものです。

先の愚痴は、技術のうちの前者(第1の技術、とでも呼びましょうか)が身についていないことについての「言い訳」です。
ただし、率直に言って、そのために弾けない・吹けない・歌えない箇所を、演奏しようとしている作品の楽譜でだけ、特段のイメージもなしに、何遍「練習」してみたところで、その箇所が上手くなるわけではありません。
この第1の技術は、たとえてみれば演奏に当たっての文法なのであり、文法としてのルールが理解できていない以上は、いくら表面的に習得したところで、言葉の体をなすことはありません。
ですから、文法を知らないがために考え込んで沈黙しているのだ、という精神の姿勢が認められれば、その箇所を演奏できずにいる人を責める必要はありませんし、水準の落差がある中で練習をしていかなければならない身内同士である場合には、文法未修得の人に対し、て仲間内なのに「自分のほうが知っている」と鼻にかけて示威的な態度を取ったり責めたりする資格も、「知っている」人の側には全然ありません。自分が「知っている」のであれば、そして相手にも「知りたい」という欲求があるのであれば・・・これがまた問題で、「欲求」がないことのほうが多かったりしますし、「知る」ことをかたくなに拒み続けるという、文字にしてしまえば信じられないようなことも、現実には常態化しています・・・、何故、適切に知らせてやることが出来ないのか?知らせられない、ということは(ロウギアの入れ方を習得してからでないと身につけられない、という技術もありますので単純に一段階とは行かない、という点を割り引いても)「知っている」と思っている自分自身が、ほんとうは「何も分かっていない」のを露見させてしまうから、したがって「恥をかいてしまう」から出来ないのではないか?

「言い訳」が出来るのは、自分がその文法に対して「未修得である」と理解しているからこそ可能なのです。
ただし、「未修得」なものが演奏という行為の身体的「文法」の中のひとつである、ということまでを理解していれば、おそらく口にするのも恥ずかしい「言い訳」でもあります。

文法の難度が高いために演奏できないのであれば、最初から演奏すべきではないでしょう。
音楽作品が練習可能になるのは、あくまで、その音楽作品の中で駆使されている文法を習得して後なのです。

ではさらに、そうした「第1の技術」は、楽器(声、という楽器も含めて)を用いることなしには、また併せて耳に聞こえることなしには習得できないものなのでしょうか?

「身体」が身に付けるべきものである以上、仕上げの段階では、仕上げに欠かせない楽器という道具が必要になるのは当然でしょう。ですが、あくまでそれは「仕上げ」のために必要なのであって、「仕上げ」前であれば、その身体的文法をに用いる部位に、ふと思い立った都度、道具を手にせずとも進められる何らかのすべを見出すことは、意欲を失うことのない人には必ず可能なはずです。

さて、以上を検討して、自分の身に付いている文法、身についていない文法、さらにはおそらく現段階の自分には視野の中にも入れられない未知の文法の存在」もあるようだということへの気づき、と、ここまで揃って初めて、
「じゃあ、自分に演奏できる<音楽>はこういう類のものかな?」
という出会いが私たちに訪れます。
ところが、そこまで慎重を期したとしても
「なんだか、あんたの演奏、その<音楽>らしくないよ」
「・・・え? それって<音楽>なの?」
なる、第2段階の不適切に、私たちは出会うことになります。
おかしいなあ。その<音楽>を演奏しえる「手段」は、確実に身に付いているはずなんだけれど。。。

最初のほうに述べた「愛情」という語彙は、このことに対するキーワードでもあると同時に、認識誤りを起こしやすい言葉でもあります。「情に棹差せば流される」式のものは念頭にありません。

プラトーンが生涯をかけて考え抜いた「イデア」も、突き詰めていってしまえば結局は詭弁なのかもしれません。彼の著書『国家』の中にある有名な比喩は人間の思考ならではのものであり、人間でなければ脳裏に描けない虚像です。
もっと本能的に、私たちは私たちの身体に(それが脳による記憶の働きなのかどうかという厳密さを求める議論をするつもりはありませんが)、生活に必要な、日常の様々な風景を蓄積(ストック)しています。・・・そしてそれは、プラトーンが考えたような「先にありき」の「触れ得ない姿かたち」だったりすることは決してありません。蓄積はあくまでも、直接間接の経験によって得られるものです。

<音楽>という風景についても、それは例外ではありません。
数多い<音楽>のストックの中に、はて、演奏者である「私たち」は、いま目の前にしている(あえて「耳にしている」とは申しません)<音楽>をも、生活に必要な蓄積として持っているかどうか。

ちょっとでも用語に厳しいかた向けには、この「<わたし>という存在が持っている生活に必要な日常の風景の蓄積」=「愛情」だ、と私は定義しているのだと申し上げて起きましょう。ただし、今綴っているこの文自体は、そんな厳密さを念頭においてはいません。ざっくりとした話として把握をしていただければ結構です。

「蓄積」が適切であれば、<わたし>は<わたし>の身体が、その場面で迫られる「必要性」の優先度から、優先順位にふさわしい行為ないし表現をするように、もしくはいま耳目が受容する事実が「必要性」にかなうものであるかどうかを判断するように、はたらきます。

「必要性」に対してどれだけ「ふさわしい」蓄積を持てるか、ということは、蓄積すべき対象に向けられる興味が「正(正負、というときの正)」のほうへどれだけの強さではたらくか、にかかっています。

「興味」とは、「愛情」という蓄積に向けられるベクトルであり、その度合いが強く(そして明るく、と付け加えておきましょう)、多様であるほど、取り込めるものも増えるという寸法です。

聴力を失っていった先の作曲家たちが、それでも何故あらたに<音楽>を創作しえたか、との問いに対する答えは、これをもって説明できるのではないでしょうか?

すなわち、彼らは<音楽>に対し、聴覚喪失以前に先の「技術」を熟知した上で、聴覚喪失以後もそれが「愛情=生活に必要な日常の蓄積」として保有し続けられていたが故に、直接感覚ではもはや捉えられないはずの<音楽>の尻尾を捕まえて離さずにいられたのだ、ということなのではないか?

新作を音符に書き下ろす、というのは究極の創造ですが、<音楽>は奏でる人にとっては「音符を現実化する」創造が、聴く人には「その<音楽>が表現しようとしているものを心象として再構築ないし眞構築する」という別の側面を持つ「創造」をも孕んでいます。
そのように多様な「創造」を内包する<音楽>を相手にする以上、まず私たちの目の前に無ければならないのは、あるいは紙に記された「音符や記号や言葉」であったり、再現される響きがもたらす空気の変化を適切に感じ取る俊敏で偏りの無い感覚だったりするのではないでしょうか?

冒頭の問いに戻れば、以上のように努めた上で「心に持つ」ことを共有出来ない限りは、集団で<音楽>が(創造)出来るなどという考えは妄想に過ぎないのではないでしょうか?

以上、やたらと面倒な言い回しをし、最後には否定的な文言を申し上げているようにお見受けかと存じますが、これよりも噛みくだいて述べる気は、私にはありません。

最後に申し上げたことを、どうすれば「肯定」に転じさせることが出来るのかを、なにとぞご熟考下さいますよう、いまは伏して乞い願い申し上げるばかりです。


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