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2009年11月11日 (水)

ブラームスの交響曲をやるなら

増井一友さんクラシックギターリサイタル、東京公演11/21、大阪公演11/28、おススメです。
下記の2記事を是非ご参照下さい。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/11211128-e6af.html
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-7de4.html



本記事は、今度ブラームスの交響曲からどれかを演目に選択しようとしている、あるアマチュアオーケストラを念頭に綴ります。記憶だけで綴りますので、誤りはご指摘下さっても結構です。ただし、もし誤りを見つけて下さったなら、そこから先は私への指摘ということではなくて、お気づきになったあなたが突き詰めて考えて頂けるようでしたら、より幸いです。

本職さんは商売で体を張っているんだから、こーゆーことは本稿よりずっとまっとうに考え続けていらっしゃるのは当たり前・・・と思っております。中には「自己の理論」ばっかり固めて観察をないがしろにしている人も僅かながらいるかも知れませんが、論外です。知ったことを自慢する「プロ」さんも、私にとっては「プロ」とは認め難い。

いえ、「プロ」さんはそもそも、こんなアマチュアの言うことなんかに目もくれないで、ただし、虚心に音楽そのものとは何かを見つめ続けたらいいのです。

あくまで、アマチュアさんがターゲットです。ですので、プロさんは突っ込まないで下さいまし。

アマチュアに、出来れば私の身近に、「本気で」・「楽器を手にしていなくても」・「自分の能力の許す限り虚心に」音楽に立ち向かっている人と・・・私はそろそろであっておきたいなあと思います。
ホンネを言えば、そういう存在は大変に希少です。いつも悲しく思います。・・・この件、たぶんもう一記事綴ります。

以下、面倒かも知れませんが、当該団体の「良心的」なかたには、出来ましたら全てお目通し頂きたいと願いながら綴っております。わからない言葉は、是非自主的に調べて頂きたい。そのことで本文の間違いを見つけて下さるようだったら・・・それが嬉しいのです。ただし、相手がアマチュアさんだったら、です。本職さんは私より正確に知っている、したがって指摘が出来るというのは当然であるはずだからです。

特殊な目的で編成されたのでない限り、アマチュアオーケストラは、必然的に「正団員」が過不足無く出演でき、それだけでなくて「音を出すことも出来る」曲を選択しなければなりません。
この点では、60人程度を超える団体(弦楽器の正メンバーはその半分に過ぎない場合が多いかと存じます)は、近代オーケストラであればプログラムに載せ得るバロック・古典から「前期」ロマン派の作品であっても、大部分を候補から落とさなければなりません。

ブラームスの交響曲は、トロンボーンまでを含むという点では申し分無く候補に入るように見えますが、トロンボーンが「音を出す」箇所は極めて少なく、実は、上記のような団体にとっては、選択は大英断、ということになります。
「音を出す」ということが「音楽を演奏すること」と等号では結べないことを、きちんと理解しているぞ、と、外の「ツウ人」さんたちに表明することになるからです。・・・で、これ以上は申しませんが、ブラームスの4つの交響曲のどれひとつとして、音楽的に非常に重要な意味を、まさにトロンボーンにこそ与えていないものはありません。トロンボーンを鳴らしっぱなしのベタな管弦楽よりも、トロンボーンの光を、あるいは眩しく、あるいは軟らかに、際立つべきところで際立たせる。そこのところにブラームスは心血を注いでいるからです。

いったい、「音を出す」というのが「音楽を演奏する」というのとイコールでないのは何故なのでしょう?
私なりの感じ方を述べるのは、本日は留保します。探せばネタは沢山ある、とだけ申し上げておきましょう。これを最も極端にしたのが、例のケージの「4分33秒」(で合ってましたっけ?)だと考えてもいいでしょう。ただし、ケージが考えたこの無音の「音楽」が「音楽」と呼びうるのかどうかについても、本筋から逸れますので述べることは控えます。

で、ここからは、まず第3番と第4番についてだけごくかいつまんで触れ、続いて第4番のみに話を絞って参ります。

第3番と第4番は、極めて対照的な作品です。
どこが対照的か?
作品設計の基本に置いている音程の取り方が明確に違うのです。
第3番は減五度ないし減七度、第4番は増五度を主体としている、と私は捉えております。
第4番については、和書ならば今は古書でも入手が困難ですが、ウォルター・フリッシュ『ブラームス 4つの交響曲』(天崎浩二氏 訳、音楽之友社 1999)に明確に
「交響曲に彩りを添える3つ目の要素は増音程を含む3和音だ」(訳書188頁)
と記されています。
第3番と第4番のこの違いによって何がもたらされるか。
一般に、減音程は安定した音程への「収縮」を、同じく増音程は「拡大」を指向します。
それにより、減音程を基調とした第3番は安定した静かな終結へと道をさぐり続けます。
増音程を基調とした第4番は、攻撃の手を緩めない外向的な響きで聴き手を圧倒しようとします。
第3番も第4番も、後日シェーンベルクが分析研究の対象としていることを念頭に置かなければなりません。脇道にそれますが、これはシェーンベルクが「無調」を検討する際にブラームスから受けた恩恵も少なからずあったという事実を示しています。すなわち、「十二音技法」は愛好家の世界ではこんにちまだ単純に「無調の代名詞」のように思われがちですが、「無調」はなにも「十二音技法」の専売特許ではありません。決め切った語法に頼っていない例としてはショスタコーヴィチの作品群などを典型としてあげることが出来るでしょうし(にもかかわらず彼の音楽は「調」名を付されているのが面白いところです)、語法を確立した作曲家の最右翼はバルトークあたりでしょうか。その他、教会旋法を基調に「無調」を編み出したドビュッシーなども名前を挙げておくべきかも知れません。この人たち以後の「無調」音楽は、これら様々な「無調」を統合した体型を産み出すには至っていませんが、それがまた響きの世界を百花繚乱させているのです。(そこのところを一般愛好家がなかなか楽しめない理由はいくつか存在すると思われますが、今日は述べません。)
では、シェーンベルクは何故、「調性音楽の最後の砦」とおぼしきブラームスから恩恵を受けたのでしょう?
それは、蓋を開けてみると、ブラームスの音楽も「無調」に向かって大きな一歩を踏み出していたからなのです。
では、それから受けた恩恵とはいかなるものだったのでしょうか?
「十二音技法」が否定したのは「調」と呼ばれるなにものかだったのであって、そのなにものかとは、「長調と短調」という二つに限定されてしまった「旋法」に他なりません。
したがって、「十二音技法」の根底には、「作曲者が自ら<旋法>を構築しなければならない」という厳しいルールが課せられているのです。「十二音技法」には、「旋法」が必要なのです。
19世紀末期から20世紀前半にかけて編み出された「十二音技法」以外の「無調」も、「(伝統的なものというよりは、歴史的にはイレギュラーで新規に感じられなくもない)教会旋法」〜ロクリアだのエオリアだのというのは古来の教会旋法ではありませんね、もしくはバルトークが「ミクロコスモス」で様々に提示しているような五音音階や音度関係が長調短調とは異なる音階組織などもあり、ショスタコーヴィチの「収束しない」全音音階など・・・どれもこれも旋法ありきであることには、案外注意が向けられていないように思います。

ここからは2作ともですと散漫になりますので、第4番のいくつかの点についてだけ述べ、その無調性もしくは無収束性に目を向けて頂けるようにしてみます。

ブラームスの第4番の「増音程」基調は、必然的に「拡大」を指向している旨、先に記しました。
増音程を含む三和音とは、(以下、移動ド読みを基本とします)次のようなものです。
まず、長調の主和音は、御承知の通り「ド・ミ・ソ」です。このとき、ドとミは長三度、ミとソは短三度の関係にあります。
(くどいですが、念のために基礎的なことをメモしておきますと「ド(全)レ(全)ミ(半)ファ(全)ソ」というのが、このあいだの5つの音の音程関係です。)
このうちのソの音程を半音高めて「ド・ミ・ソ#」という和音を作れば、長調の増五の和音が出来上がります。これが長調の増五の三和音なのは、お分かりですね?
短調の主和音は、「ラ・ド・ミ」ですが、これを短三度持ち上げると「ド・ミb・ソ」となります。この場合の増五の三和音は「ド・ミb・ソ#」と、先ほどの「ド・ミ(ナチュラル)・ソ#」の二通りとなります。(和声の教科書通りの表現でないことはご容赦下さい。)
ブラームスは、第4交響曲の中で、実は「短調の増五の和音」に当たるものを二つとも、入れ替わり立ち替わり使っています。そのことによって、短調と長調の境目をそれとなくボカしている。・・・ただし、ボカしているといっても、それをたとえばドビュッシーのように「あらゆる旋法」に仕組むことによって行なっているのではない。ブラームスの用いている「旋法」は、あくまで「長調」と「短調」なのです。このことが、一般の聴き手である私たちには、どことなくブラームスの方がドビュッシーより輪郭がはっきりしているような錯覚を起こさせる。
「そうじゃあないんだ!」
と見抜き、ブラームスがボカしておいた壁を完全に消してみようと冒険したのがシェーンベルクだった・・・もちろんこれが全てではないので極端な言い方ではあります。
話がまたそっちに行ってしまうのは避けましょう。
ここまでで分かることは、ブラームスの第4交響曲の第1楽章を「ホ短調だ」という既成概念で演奏することは許されない、という、演奏者に課せられた厳しい試練の存在です。
ブラームスは、こういう意地悪を、さらに様々なオブラートで包んでいます(オブラートって、そういえばこの頃はあんまり直接には使わないですね)。
第1楽章の主題が三度の下降を持ち上げ持ち上げ作ってあるのは有名です。これも移動ドで行きます。
「ミ(長)ド(短)ラ(長)ファ(短)レ(短)シ(長)ソ(短)ミ」
と下降していくわけです。・・・これで調性をカモフラージュしておくのですが、これを一転して上昇音型に用いることで華やかな派生主題を構築していくのもまた鮮やかです。で、この派生主題にまたも増五度を忍ばせてみたりしています。それはスコアからお探しになってみて下さい。さらに、このカモフラージュ動機は、増音程(パッサカリア主題第5章節目の増四度を含め・・・これは増五がサブドミナント【長調ならいわゆるドファラ、短調ならいわゆる【ラレファ】への拡大を指向するのとは異なり、トニカ【ドミソないしラドミ】に「ひろがって」いくことで安定を確保するのですが、突っ込むとキリがないことながら、ブラームスはパッサカリアの主題6小節目を素直なトニカの和音にはしていません・・・これもスコアからお読みとり下さい)第4楽章でも巧みに用いられています。

長くなりましたが、あと二つだけ、他のことにも着目してみましょう。
(第3楽章は第1楽章との兼ね合いで理解すべきです。)

まず、出て来たついでなので第4楽章が「パッサカリア」であることについてですが、世間では概ねこの楽章が「パッサカリア」だと言い張ってやみませんけれど、そうではなくて、「パッサカリア」の手法を借りた、ブラームス当時の現代音楽なのです。本来の「パッサカリア」はバロックの舞曲ですから、体を使って踊れなければいけません。ブラームスのこの終楽章で、ダンスをすることは出来ません。・・・醜悪な指揮者を除きますが。
これもまた、意識したかしなかったかを問わず、ブラームスが投げかけた、過去への巨大なアンチテ−ゼなのです。バロックのスタイルを正々堂々と使ってバロックを否定したのは、ブラームスが最初ではないか、と思えるくらいです。ところが、これはバロック否定としては次の世代には理解されませんで(いや、ブラームス自身、そのあたりはどうだったのでしょうか?)、皮肉にも、ブラームスのこのパッサカリアは20世紀の3分の2ほどの期間のバロック演奏の規範となってさえしまったのであり、そうしたバロック演奏はフルトヴェングラーやグレン・グールドが最も結晶したかたちで受け継ぐものとなり、こんにちでもファンが絶えない状況を産み出しています。・・・それはそれで歴史的には意味のあることです。ですが、ブラームスあってこそバロックの最後の牙城(バロック時代の作品はもはや一般的には演奏されていなかったとは言え)である「即興性」に完膚なきまでの打撃を与え、「音楽」が勝手に踊り出す陽気さを「音楽」から締め出し、まったく別の世界の響きが構築されたのだ、との事実を、私たちはあらためて念頭に置かなければなりません。
・・・誤解のないように申し添えれば、私はブラームスを嫌悪してこんなことを口走っているのではありません。私をご存知のかたは、私がどれだけブラームスのファンかも十分ご承知のはずです。

もうひとつは第2楽章の主要主題についてです。
これも、「無調」への静かな、しかし充分傾聴すべき一歩なのだ、と申し上げたら、
「何を極端なことを!」
とお叱りを受けるかも知れません。
ただ聴いていると、これは冒頭、
「ミー・ミー・ファーソ|ミー・ミー・レード|etc.」
と聞こえます。
ところが、ホルンがひとしきりアルプス山腹風に響いたあと、同じテーマは突然高さが変って聴こえます。
通常、この変化について、アマチュアオーケストラのメンバーは、どう変わったのか、について耳を傾けていません。
蓋をあけて中身を調べてみて下さい。
クラリネットに始まる、高さの変った「ミー・ミー・ファーソ|ミー・ミー・レード|etc.」が、本当は正式の主題です。
かたちは同じですが、ホルンが最初に鳴らしているのは、
「ラー・ラー・シbード|ラー・ラー・ソーファ|etc.」
なのでして、これを移動ドで「ミー・ミー・ファーソ|ミー・ミー・レード|etc.」と読んでしまうのは正式には誤りであることが・・・この楽章の最後の最後で明らかになります。
すなわち、第2楽章冒頭は、ブラームスがこの楽章をどう閉じたいかを先に示してしまう、という、凡な神経では考え難い、もっと極端に言えば「常識人」に対しては禁じ手でさえある暴挙を行なっているのです。
ホルンが予示し、楽章を締めくくる
「ラー・ラー・シbード|ラー・ラー・ソーファ|etc.」
は、この楽章が単純な長調なのではなく、別の旋法を指向していることを示しています。リディア旋法(単純にそうなのではなく、リディア旋法すなわち第3旋法、の変格旋法、すなわちヒポリディア=第6旋法)です。「ラ」は、ヒポリディア旋法の吟唱音です。シが変位している(bemolle)点がドリア旋法と共通なので紛らわしいのですが、短調を指向していませんからヒポリディアとなります。・・・楽章全体を長調の音楽にしておきながら、バックに教会旋法をマスキングしてある、美術的配慮が周到になされている楽章です。

以上、断言的に、しかもこれでもごくかいつまんで述べて来ましたが、是非、ここまでの記述の正誤も含め、音楽を「読む」という大切な吟味の過程も、おひとりおひとりが充分すぎるほどにやって頂きたいのです。

指揮者だろうがその他優秀なトレーナーさんだろうが、奏者の理解出来ないことまでさせることは出来ません。
音にしてみる前に、ちょっと踏みとどまって、主体的かつ客観的に「音楽を読む」作業も、欠かさずやって頂きたい。
私が願うのはそのことばかりです。

長くなりました。以上です。


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