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2009年10月26日 (月)

「悲しい」と正直に言えば喜劇になる:音楽の愛し方15(end)

過激なまでの名ギタリスト、森田茂さん(クラシックギター)「デ・ポンセ」は10月31日、さいたま市大宮区のバッハアカデミーホールです。ポンセは難曲ですが名曲揃い。お聴き逃しなく!


紳士的名ギタリスト増井 一友さんのリサイタル(クラシックギター)は、11/21(土)東京:近江楽堂 5時開演 、11/28(土)大阪:ザ・フェニックスホール 5時開演です。素晴らしい音色をお楽しみ下さい!


赤津眞言さん他「フランス ヴァイオリン音楽の流れ」については、複数日程につき記事にリンクを貼りましたのでそちらをご覧下さい。


3・7・8・9(7から9は当面欠番)
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番外1 番外2


「人生、短い目で見れば悲劇、長い目で見れば喜劇」
とは、出典までは調べなおしませんが、チャップリンの有名な言葉ですね。

日常の中で、私たちの誰もが、朝おきてから夜寝るまで、たくさんの悲劇を、無我夢中で演じています。
「私」という俳優は、いちにちを通してみると、圧倒的に「悲劇」を演じている割合が高かろうと思います。

朝、目覚ましの音に驚いてひっくり返ったついでに、近くの衣装ダンスの角に頭をぶつける。
出勤途中で、靴の踵がはがれてしまう。
学校や職場では、昨日
「急いで解いてくれ」
と渡された問題がまだ分からずにいて、
「どうしたんだ」
「いや、どうやってもつじつまが合わないんで」
「そんなことじゃあ間に合わないじゃないか」
と怒鳴られる。
夜、ストレス解消とばかりに、ゲームに浸りきれば、親や相方からは軽蔑のまなざし。
お酒でべろんべろんになって、翌朝を迎え、目が覚めてみたら天井がなかった・・・道理で寒いと思った。。。

ひとつひとつのことは、それが身に降りかかっている当人にしてみれば、大変に悲しいことです。
ですが、辺りの人たちから見れば、鼻で笑われるような、軽い出来事でしかなかったりする。

ここで、
「おいら、悲しい」
と、本当の気持ちをぼそり、と口にしてみましょう。
はっきりと。

とたんに、ほんの些細な、歯牙にもかけられないような「私の悲劇」は、周りの人にとって、印象深い出来事になります。
はじめに
「おいら、悲しい」
の一言があるのが肝心でして、これがなければまず、「私の悲劇」という事実に対する周りの関心を呼びません。
「おいら悲しい」
と、きちんと周りに聴こえるように、でも、ぼそりとした味わいだけは失わずにアピールすることが要になります。
これではじめて、
「え? ヤツに何が起こったんだ?」
と、周りは色めき立つ。
好奇心が、誰もに、「大きな事件」を期待させる。

ところが、ひきつけられて注視してみると、注視した相手(周りから見られた私)の有様は、日常の正常で無事な営みから、ほんのちょっとズレた程度の、それだけとったら、まったくもってつまらんことに過ぎない。

踵が剥がれた靴で不器用にピコタンピコタン歩く私の姿は、
「ああ、大変そうだ」
と仮に同情されても、仕草だけ見れば、単純に滑稽なだけです。

「人生、卑近に見れば悲劇、隔てて見れば喜劇」。

巧みな喜劇作者は、チャップリンが明言した時間軸からだけでなく、視線という空間軸もよく計算して、ドラマを仕立て上げるのだな、ということが、こうして、劇作とは別段関わりのない「私」でも学びえるものとなります。

シェイクスピアの悲劇のようなものでも、場面場面を都合よく切り出せば容易に喜劇にしえるのは、悲劇が悲劇として成立するためにあえて覆い隠している「俯瞰的な時間軸・空間の座標」を暴き出すことのほうが、人間にとっては容易だからに他ならないのでしょう。

「音楽を愛する」ことの、とりあえずの締めくくりとしてこんな話を持ってくるのは突飛かもしれません。

ですが、「音楽」という台本ほど、作り手(それが単数だろうが複数だろうが、有名だろうが無名だろうが)が巧みであれば、それが正直に「悲劇を強調するために時空の軸をぼかしている」のか、「あえて軸を明確にして愉快にしているのか」を明確に記号化したものは、文学や美術の世界には見当たらないのではなかろうか、と、私は思っております。

ですから、音楽を享受するときには、
・聴き手は作品の時空軸の輪郭にほくそ笑むこと
・演じ手は、応用であることが明確ではない限り、作品の時空軸の輪郭に、自己の技量を超えた場違い・筋違いな<付加物>をもたらさないようにすること
に集中することが、おそらくは望ましいのでもあろう、と、考えている次第です。

では、<付加物>とは何であるか、それが筋違いだったり場違いだったりするかはどうやって判断すればいいのか?

これは、音楽が生み出され、享受されてきた歴史環境で、様相が様々に変化してきたもののようです。

とくに、19世紀にはいると、洋の東西を問わず、音楽の書法に、それまではなかった、劇的な演出用語が頻繁に現れるということが起きてきているように感じております。

感じている、というだけではいけませんので、このあたりで、音楽の歴史のお勉強に立ち戻って、途中でほったらかしにした近世から、再度仕切りなおしたいと思っております。

東洋の思潮は、遺憾ですが素人が容易に手に出来、読み解ける書籍が少なくて、一市井の素人では手に負いきれないことが多いのですが、ヨーロッパについてはやや明確に分かります.

いずれにせよ、またそのあたりから観察をしていって見ましょう。

今回はこんなところで。


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