« たとえば「グールドを聴く」:音楽の愛し方11 | トップページ | たとえば「モーツァルトを聴く」:音楽の愛し方13 »

2009年10月 7日 (水)

たとえば「ガーシュウィンを聴く」:音楽の愛し方12

過激なまでの名ギタリスト、森田茂さん(クラシックギター)「デ・ポンセ」は10月31日、さいたま市大宮区のバッハアカデミーホールです。ポンセは難曲ですが名曲揃い。お聴き逃しなく!



紳士的名ギタリスト増井 一友さんのリサイタル(クラシックギター)は、11/21(土)東京:近江楽堂 5時開演 、11/28(土)大阪:ザ・フェニックスホール 5時開演です。素晴らしい音色をお楽しみ下さい!

赤津眞言さん他「フランス ヴァイオリン音楽の流れ」については、複数日程につき記事にリンクを貼りましたのでそちらをご覧下さい。

3・7・8・9(7から9は当面欠番)
101112131415
番外1 番外2

曲の製作者がそのまま演奏するなり歌うなり、というのはポップ系などのほうがクラシックに比べて多い、との先入観がありはしませんか?
実は、決してそうではありません。
「クラシック」で括られている音楽は、もともとが作曲者が演奏者することのほうが当たり前でした。
そういう創作家兼演奏家が巷に満ちあふれていたため、こんにち一般的に聴かれる作品は限られ、創作家の死と共に忘れ去られた作品は星の数ほどある、という次第です。
翻って、現在の流行歌などを見てみますと、たとえば演歌で「美空ひばりを聴く」というとき、美空ひばりが自分で作った歌を聴く、などということは、私の知る限り全くありません(少しはあるのかどうか・・・何せ私は無知ですから、ご存知の方、どうぞご教示下さい)。J-POPで括られている若い人たちにしても、自作だけを歌って来た人も皆無ではありませんが、人に作ってもらった曲を歌っているかたのほうが圧倒的多数を占めているのではないかと思います。
この点では、音楽はジャンルを問わず、「演奏者を聴く」ことのほうが圧倒的に多いのが現状である、とみなすのが妥当なのではないかと思います。そこで感じ取られる音楽は、前回提示してみたグレン・グールドの例と大差ないか、同一であると考えてよろしいのではないでしょうか。

ところで、1910年あたりから以降は、録音の発達により、創作家その人が自らの作品を演奏したものが残されるようになりました。
クラシックで探しても、ロールピアノ用に演奏されたものならばマーラーやドビュッシーやスクリャービンなど、もう少し遡れるものもあります。電気式の録音となると、サン=サーンスやシャミナード、ドビュッシーなどに始まり、ラフマニノフ、レスピーギ、バルトーク、ショスタコーヴィチなどのピアノ演奏がありますし、オーケストラを指揮したものも自作自演と呼べるならば、ホルスト(惑星)やヴォーン=ウィリアムス、ウォルトン、レハール、グラズノフ、結構量を残した人物としてはR.シュトラウスなどを上げることができます。

この人たちが残した作品は、現在の「クラシック」業界の中でも定番として数多くの演奏家が日々新しい録音を残しているものです。

では、「自作自演」は、その作品が作曲者の意図通りに演奏されているものとして第1に貴重なもの、とみなすべきなのではないでしょうか?
技術が開発されていなかったばかりに録音が残せなかったそれ以前の作曲家たちの自作自演を呼び戻したいがために、こんにち、「クラシック」の世界では「古楽、古楽」とうるさく言われるようになったのではないのでしょうか?

もしその通りだとすれば、「古楽」にはそれなりの存在意義はあるかもしれませんが、「自作自演」の残る作品が他者によって新録音をされることは無意味としか言えないのではないでしょうか?

実は、私はこれらについては「否」との答えを自分なりに持っているのですが、大きくは二つの理由によります。

まず、「古楽」とは何であるか、ということに「否」の理由が内在しています。
「古楽」という用語が定着することには、私は非常に抵抗があるのです。
「古楽」と括られる演奏が嫌いというわけではありません。最近では、むしろ、大好きだと言ってもいいくらいです。
ただ、もともと「古楽」とは何かを熟考したわけでもないのに「古楽」をことさら看板にする演奏は・・・こんなものは「古楽」ではありませんので・・・阿呆臭さを感じる、ということです。
たとえば、現在では大ベテランになってしまいましたが、アーノンクールがあくまでも「その音楽が生まれた時代の目でそれを見ようと試みるもの」と規定したのが「古楽演奏」でして、そのためには学究肌で貫かれた文献研究だけでなく、奏法についての執念深い実験も必要です。(アーノンクールの見解については以前集中的に読んでみたことがあります。2008年8月・・・インデックスにした記事にリンクを貼っておきます。ダイレクトには、こちらです。http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_65f6.html)そこで目指されているのは、彼の言葉によれば、
「再現の説得性であって、<正解>、<誤り>ではない。」
すなわち、決して
「自作自演の再現こそが正である」などということは求められていないのです。

「古楽」という言葉があまりに繁用されてしまったために、この言葉には歪曲された付加価値が添えられてしまったのではないか、と、私は感じていますが、その例は近々お聴き頂きたいと思っております。

では、「自作自演」の録音が持つ意味は、どこにあるでしょうか?

これについては、リヒャルト・シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」を通じて観察してみたことがあります。

http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_bc05.html

すなわち、「自作自演」は、こんにち愛されている作品が、なぜこんにちのように演奏されるようになったか、の系譜を明らかにしてくれ、歴史的な文献で言えば「異本を探りオリジナルを知り、その上で現在の享受のされかたがどんな時代の価値観を背負って来たかを知らせてくれる点で貴重な意味合いがあるのではないか、と思います。


ガーシュウィンは、自作自演を数多く残した作曲家兼ピアニスト、いや、ピアニスト兼作曲家と言ったほうがふさわしかったのでしょうか、とにかく、そういう音楽家です。

彼の代表作「ラプソディ・イン・ブルー」はクラシックの定番であるだけでなく、ジャズバーでもピアニストが興に乗れば自前の小バンドでも演奏してしまいます。別の作品で代表的なのは「サマー・タイム」ですが、本来オペラ(ボーギーとベス)の幕開きの子守唄であるこの歌は、しばしばジャズに限らずポップ歌手の主要なレパートリーだったりしますし、もちろんクラシックの歌手も歌います。

ガーシュウィン以外の人物がガーシュウィンの作品を演奏する時、それは「もはやガーシュウィンの音楽ではない」などと言うひとと、私は出会ったことがありません。
グールドの演奏はグールドしか成し得なかった、というのとは異なり、ガーシュウィンのナンバーは、ガーシュウィン自身の演奏でも享受され続けていますけれど、そこに感じるものは、ガーシュウィンという個人の演奏家の精神(音楽)であるよりは、むしろ、その創作が私たちの精神に惹き起こす作用の大きさなのではないか、ということが、この例から推し量られます。
以下に、YouTubeにある、作曲者自身の演奏とバーンスタインによる演奏の例を掲示しておきます。
ガーシュウィンの自演は1924年の初演直後のものの方がバックのオーケストラ共々面白い味を出している(まるで「トムとジェリー」の【新版ではないほうのドタバタした】楽しさです)のですが、ここに見つけたものは3年後の演奏だと思われます。

・ガーシュウィン自身がピアノを弾いた演奏(おそらく1927年のもの)

・バーンスタインの演奏は2編に別れた映像もあるし、これは断片に過ぎないのですが、比べて頂くには充分かと思います。1976年のものでしょうか?

50年の歳月が、聴くひとの嗜好や音をめぐる環境に大きな変化をもたらしたことが伺えます。
ここで私たちは単純に「自作自演のなされた当時」を賛美するのではなく、50年の間に変化したものの重さにも思いを致してみるべきではなかろうかと思いますし、変化していないものはなんであるかの見極めも必要になってくるかと思います。
・・・まあ、あくまで、音楽とは何かを、真剣に考えてみたいと感じたときだけでいいのですが。

ここではとにかく、グールドの場合のように「個人」に特化されたものとは異種の、「作り手自身」と「それを受け継ぎ、あるいは新たに受け止めなおしていく人々」のあいだの直接間接の心の交流によって生成される音楽があり、聴き手はまた、「個人」に特化されないままの「同じであるはずの」音楽を、より様々に受け止め得るのだということに目覚めるチャンスを与えられることもあるのだ、という点が、前回とは違った特徴であるということを申し述べておきたいと存じます。


L4WBanner20080616a.jpg


クラシックCD・書籍検索に便利!バナーをクリックして下さい!


sergejOさんの記事の便利なインデックスも是非ご活用下さい。

|

« たとえば「グールドを聴く」:音楽の愛し方11 | トップページ | たとえば「モーツァルトを聴く」:音楽の愛し方13 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/208675/46424119

この記事へのトラックバック一覧です: たとえば「ガーシュウィンを聴く」:音楽の愛し方12:

« たとえば「グールドを聴く」:音楽の愛し方11 | トップページ | たとえば「モーツァルトを聴く」:音楽の愛し方13 »