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2009年10月 3日 (土)

たとえば「グールドを聴く」:音楽の愛し方11

紳士的名ギタリスト増井 一友さんのリサイタル(クラシックギター)は、11/21(土)東京:近江楽堂 5時開演 、11/28(土)大阪:ザ・フェニックスホール 5時開演です。素晴らしい音色をお楽しみ下さい!


赤津眞言さん他「フランス ヴァイオリン音楽の流れ」については、複数日程につき記事にリンクを貼りましたのでそちらをご覧下さい。


3・7・8・9(7から9は当面欠番)
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番外1 番外2


グレン・グールド、と言えば「ゴルトベルク変奏曲(何故かカタカナはゴールドベルグと標記されているほうが多いですけれど)」、「ゴルトベルク変奏曲」と言えばグレン・グールド、というのが、クラシックCDファンのあいだでは定番のようです。
こうした<強力な>定番は他には「フルトヴェングラーのバイロイト『第9』」があるくらいかもしれません。(グールドの演奏は一昨日YouTubeへの映像リンクを作っておきました。)

こうした<強力な定番>を聴く場合には、「その音楽作品に」というよりは、「それを演奏しているプレイヤーに」陶酔する、ということのほうが、聴き手の心を支配していると思われます。

グールドの場合には、まさにそれを裏付けるような映像資料があります。

41adedssq8l_sl500_aa240_"Glenn Gould   HEREAFTER"   Bruno Monsaingeon (BBC)  IDEARE AUDIENCE DVD9DM20

この映像に登場するファンは、バッハの音楽から、ではなく、皆口を揃えて
「グールドの演奏から、私はチカラを貰いました」
なる意味合いを共有する表白をしています。

バッハの音楽、ということに関して言えば、グールドの演奏したそれがどのように位置づけられるかを批判的かつ客観的に述べた例としては、パウル・バドゥラ=スコダの次のような言葉があります。

「バッハの演奏はその場所、社会的背景、そして奏者や聴衆によって変化するものであり、それらを一概に『正しい』あるいは『間違っている』と決めつけることはできません。しかし演奏家のタイプを分類するならば・・・(中略)・・・グレン・グールドの、エキセントリックなアイデア、卓越したテクニック、そして楽譜の優れた解読力に裏打ちされた演奏からもうかがえるように、(4文字略)”オーセンティック(真正)まがい”の演奏は、人々を魅了する力を持つことがあります。」「バッハ 演奏法と解釈」今村顕監訳 全音楽譜出版社2008 まえがき)
「グレン・グールドが《平均律クラヴィーア曲集第2巻》の<フーガ第2番c-M0ll>を弾いた際に使用したスタジオのスタンウェイの鍵盤はとても熱かったに違いありません。(譜例略:楽譜上の八分音符をグールドが32分音符にさらにスタカートが付いたほど短い、ということを書き表した譜例になっています)このようなスタッカートは以下の三つの理由から誤りだと言えます。/1)この主題は声楽的な性格を持っている。/2)主題の中央部にある5度跳躍を除いてもっぱらせまい音程で進行していることは、遅めでレガートの演奏となることを示唆している。/3)この主題をゆっくりした演奏で静かに運ばれていくような雰囲気が感じられ、情緒論Affektenlehreの原則からはレガートの演奏が示唆される。」(上掲訳書129頁、第4章 ”バッハのアーティキュレーション”)

さて、グールドの弾く、死の前年のほうの録音である「ゴルトベルク変奏曲」で明らかに「不自然」な冒頭のアリアのテンポについて、彼のこの録音を褒めそやす日本のCD紹介本は、次のように述べています。

「テンポは死んだかのように遅く、一つ一つの音符を噛みくだくように歌われていく。それはほとんど告別の歌のように響いているが、祈りの歌のように再現されていく調べはグールドの完全に血となり肉となった味わいの豊かさがあり、それが26年前の演奏との決定的な落差を作り出している。」

この本は、後日別に比較したいと思っているCD紹介本に比べて「音楽作品がどのようなものかを紹介する」ことにもきっちりウェイトをおいているのですが、「ゴルトベルク変奏曲」の紹介に関しては、例外的にグールドの話に終始し、この変奏曲がどういう作品なのかについてはひとことも触れていません(同様の例はフルトヴェングラーのCDを採り上げている際などに見られます)。
・・・ただし、このこと自体は、比較対象を検討しているほうの本に比べて非常に良心的なのではないかと思います。比較したいほうの本は3人の「有名評論家」の共著ですが、そのなかのひとりがグールドの演奏について<グールドは異端ではなく正統>なる小見出しまで付けています。ですけれど、
「じゃあ、正統とは何であって異端とは何でしょうか」
と問うても恐らく答えが返って来ないんだろうなと思われます。

実は、変奏の対象となるアリアのテンポの遅さは、グールドの専売特許ではありません。
YouTubeで"Goldberg Variation"で検索して現れる任意の映像を見て(聴いて)頂ければ分かりますが、たとえば、たぶんそのご記述から推測するに<グールドは異端ではなく正統>とお述べになった筆者さんとそのお仲間が<正統>とお考えであるだろうグスタフ・レオンハルトのチェンバロによる演奏でもかなり遅いし、そのほかモダン・ピアノでの演奏も、グールドより前の世代の人たち(ロシアの有名な「幻の」名女流ピアニスト、ユーディナ女史の演奏も聴けます)のものは、やはりおおむね遅いのであって、グールドは最初の録音では四分音符54程度(だと記憶しています)で弾いていたのを、自分の幼時に流行していたテンポに回帰していったのだと見なすことが可能です。
グールドの最初の録音に近いテンポが、映像リンクの最初にオマケでくっつけておいた「正しいテンポを追究した」なる無名氏のもので採用されています。で、このアリアを、グールドの鼻歌のようにではなく、ちょっとしたサロンなどで「歌う」となると、だいたいこのテンポがギリギリの遅さ、というのは、実際に歌ってみて分かることです。
ゴルトベルク変奏曲自体は、特殊な場合を除きバッハ自身によるテンポ指示はなく、第7変奏に記されているal tempo di Gigaがなぜあえて書かれたのか、その理由をそれよりも前の主題(アリア)と6変奏も軽やかで速めのテンポになるからだ(ジーグのテンポはクヴァンツの考えを素直にメトロノーム記号になおすと付点四分音符一つあたり160、とかなり速いものです。ラフィラールが示しているという、付点四分音符=100ないし116-120を許容しておくとします・・・ちなみに、グールドはこの倍遅い四分音符=60で第7変奏を弾いています)、と考えれば、これは「歌ってギリギリ」のアリアの速度からの逆読みも勘案して仮にジーグの付点四分音符を他の変奏の八分音符相当に読み替えれば、他のいくつかのテンポ指示のある変奏を除き、概ね同じ速度(八分音符=120)で弾き通しても全く不自然さはありません。音楽学者さんや演奏家のかたが専門的に読んでいくと、バロック期の舞曲とのリズムの対比などから様々な起伏が生じるのかもしれませんが、基本的には、印刷譜を信用すればバッハはテンポ指示をしていないのですから、それが八分音符=120(四分音符=60)程度のものだったかどうかは正確に分からないにしても、だいたい「元のアリアを歌って適度な速度で一環して演奏される」こと以上にはテンポの変化を考える必要性を感じていなかったと考えるのが、私には自然なことのように思われます。
そう言う点では、無名氏が「学術的に」究明した、とされる第1変奏でなぜアリアに比べてテンポを速めているのかは、理由が分かりません。第1変奏のバス(4小節単位でソプラノと入れ代わるのですが)がバッハによく見られるタイプの、そう速いとは考えにくい音型(ホ長調ヴァイオリン協奏曲の中間楽章などに類似のものがあります)によるオスティナートになっていることからも、これがアリアの速度より速くなる必然性は、私には見出せません。

話が逸れました。
いえ、グールドの演奏を聴いて「いい」と思うことは、「バッハの音楽作品がいい」と思うこととは全く等価になり得ないことを示してみたくてこのようなことを綴って来たのではあります。
そして、そのことはグールドが採用しているテンポの特殊性から来ているものではない、ということも付け加えておきたいと考えてきたのでした。

バドゥラ=スコダの記述に戻っておきます。
フルトヴェングラーにもグールドと類似の側面があることを示唆して、最初に引いた文の後に綴っているものです。

「フルトヴェングラーのバッハには『情感の魔術』が潜んでおり、様式の是非を考えさせる余地がないほどの束縛力を持っていました。バッハ研究者へルマン・ケラーは、『歴史的観点から見れば、その多くが紛れもない誤りだとは承知していても、心の底から感動してしまうのだ』と述べています。」(上掲訳書まえがき)

グールドが「いい」と思われ、愛聴されるのは、愛聴する人にとっては「誤りだとは承知をしていても、心の底から感動」出来てしまうからでしょう。私は必ずしもそれに共感するものではありませんが、自分自身がコレルリの合奏協奏曲のある楽章を「誤って」非常に遅く演奏してしまった時、それでも
「音楽としての構成を失わなかったことが大事なのだ」
と指導されたことがあり、非常に納得した経験がありますので、映像"HEREAFTER"の中でグールドの演奏に癒しを見出した少なからぬ人たちの精神までを否定するべきだとは思えません。

キャラクターと一体化した奏楽には、作品そのものの要請とは異質の「音楽」を新たに生産する場合もあり、その典型的な例のひとつとして、グールドの演奏はあるのだ、ということを、胸に留めておきましょう。


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