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2009年9月10日 (木)

音楽の愛し方4:「大衆音楽」とはなんなのか

大井浩明さん、BSに登場です!下記リンクをクリック、是非お見逃し無く。
8月5日(BS hi)終了・9月15日(BS2)



大井さんによる「バッハは世間に自分のことをどう思って欲しかったか」・・・クラヴィア練習曲集第1巻から第4巻の連続演奏会(現代日本作曲家の作品をはさみながら)は、9月19-21日に行なわれます。3日通しでのお越しをお薦め致します。

メンデルスゾーンコーア & ハインリッヒ・シュッツ合唱団によるメンデルゾーン『パウロ』演奏会は10月2日、東京カテドラルにて。

増井 一友さんリサイタル(クラシックギター)、11/21(土)東京:近江楽堂 5時開演 、11/28(土)大阪:ザ・フェニックスホール 5時開演です。素晴らしい音色をお楽しみ下さい!

3・7・8・9(7から9は当面欠番)
10111213
番外1 番外2

   空にしても海にしても平面でしょう。
   山のように上にはのぼりたくありません。
   お嬢の芸も、いつまでも人々とともにあって欲しいと思うの。
   ツンと澄ましたような高級な芸なんかになって欲しくありません。
   そして海や空のように、いつも同じ色でいて欲しい。
   山のように四季によってよそおいを変えるのではなくて・・・

   (『ひばり自伝』中の、美空ひばりの母の言葉とされるもの。齋藤愼爾「ひばり伝」80頁から)

「愛し方」なることそのものからは、数回はずれてみます。

この前、音楽の「種類?」を大雑把に「大衆音楽」・「古典音楽」・「伝統音楽」・「民族音楽」などと分けてみましたが、現実にはそんな区分はあいまいであることも、ちょっとだけ言い添えておきました。でもって、こんな区分なんか全然当てにならん(誰だ、こんな分け方したのは・・・って、おいらだ!!!)、ということは、お近くのCDショップを覗いただけですぐに分かります。

CDショップでの「音楽」の区分けは・・・あ、映像作品は無視してかかりますからね!・・・おおよそ、こんな風ではなかろうかと思います。

1)POP=J-POP、ポップ、ロック、ジャズ(これは別コーナーの場合あり)
2)サントラ・キッズ・ゲーム音楽
3)演歌・フォーク・ナツメロ(年配のオジサンオバサン向けだけど若いファンもいる)
4)クラシック・・・まるでCDショップの孤島のように。。。

でもって、雅楽だとか神楽だとかいう「伝統邦楽」は3の中に混じっていることが多く、他国の伝統音楽は何故だかサントラあたりと一緒においてあったり、民族音楽はクラシックと一緒だったり、これも店によってまちまちで、どうも店員さんにしてみれば分類不可能であるようです。
でもって、CDショップに行くお客さんは、CDを買えるだけのお金を持ってさえいれば、どの「分類」の音楽CDを手にするのも自由な意志で決められます。

では、(日本のことしか分かりませんので日本に限りますが)音楽の上演形態や、そこへ来るお客さんの層は、どうでしょう?
東京は例外だと思っていいでしょうが、首都圏周辺の都市でも、たとえば「オーケストラや合唱の演奏会」も「オペラ」も「ミュージカル」も「演歌ショー」も「歌舞伎」も、同じホールで催されるのがごく普通です。ただ、「オペラ」や「ミュージカル」は、地方巡業ではオーケストラを伴奏につれて行くことが出来ず、あらかじめ録音されたものをスピーカーで流します。
ここには、音楽の「区分」を問わず、「大衆」という聴衆しか存在しないのが常態です。
ジャズやロックは例外で、ジャズは小スペースでも出来るのでパブなんかでやったりしますし、ロックは電気設備をふんだんに使うので屋外でガンガンやることもできます。・・・ジャズやロックの聴き手は、ですから「大衆」とはべつのもの、と見てもいいような気がするのですが、世間ではフツウはそれでも、「大衆」に含めているようです。
なぜこういうことが起きるのでしょう。

やっぱり日本のことに限って、ちょっと昔のことを考えてみましょう。
端的になることを畏れずに図式化すれば、江戸時代あたりには、「雅楽」は宮中や寺社、「能」はおもに武家の能舞台、歌舞伎は芝居小屋、と、それぞれ別れて演じられるのが普通だったはずでして、西洋音楽が明治に入った当初も、それが演奏される場所は鹿鳴館だったり、芸大の前身に設けられた奏楽堂だったりしましたよね。で、それぞれ、場所と、持っている身分や地位・お金に応じて、聴きに行ける場所も、聴ける音楽の種類も違っていたのではなかろうかと思います。そういう場に全く縁のない暮らしをした人たちもたくさんいたわけで、彼らは自分たちのお祭で神楽を聴いたり自ら奏でたりしたんですよね。(民謡については、正直なところ、ほんとうに江戸期以前に遡れるものがどれだけあるかは、現在なお定かではないのではなかろうか、と、個人的には感じております。)
そうすると、明治以前・・・ヘタをしたら昭和前半以前には、「大衆」と呼べるような人々は存在しなかった、と言ってもいいのかもしれない、とさえ思われて来ます。

あまり突っ込む気はありませんが、「大衆」という言葉は、マスメディア(巨大情報提供組織)と表裏一体のものとして登場し、初めはマスメディアなしには存在し得なかった、人間の集団としてはあくまで「仮のもの」だった、と思っておくのが無難なのではないでしょうか?
現代の「音楽マーケット」は、CDショップの区分けで象徴されるのが最適なのでして、へたに教科書的な「音楽史」を持ち出してもピント外れなだけなのではないでしょうか?

と言いつつも、享受する人たちを種類分けすることが出来ないのは幸せな面も沢山あるのでして、「大衆」が誕生したことで「音楽の種類」によって人々が身分だの貧富だので隔てられる事態が解消されたということの恩恵を、私たちはもっと自覚しておかなければならないのではないかと思います。同時に、音楽の品格にも「上下」差が無くなったのです。(このことは今なおいろいろな局面で価値観の大変つまらない対立を起こしたりしているようなのですが、このような困難な問題については、別の機会に検討するのがふさわしいでしょう。)

さて、こんなふうに話して来てしまうと、では
「大衆音楽」
ってなんなの? という輪郭は果てしなくボケて行くばかりです。そこで、ふたたび窮屈な枠に戻るのは忍びないのですが、最初に仮区分したうちの「古典音楽」・「伝統音楽」・「民族音楽」の括りであらためて考えられる類いのものについては、以下はとりあえず省きましょう。

すると、残るのはジャズ・ロック・ポップに、日本のものとしては(いまでも一般に聴かれているものとしては)演歌とJ—POPあたりになるでしょうか。

残った顔ぶれを眺めて興味深いのは、直裁には語りにくいのですけれど、それぞれの起源と、その後の隆盛の背後で、「社会から逸脱している」と見なされた人たちの支持が踏み台とされてきた事実があったことです。最初に、演歌界の天才だった美空ひばりの例を上げますと、彼女は少女時代、日本の「文化人」を自負していた人たち(実質的に「文化人」と言えたかどうかは別として)から、たとえばこんな言葉を浴びせられています。

「だが古臭いのは、タレントを支持している大衆だけではない。タレント自身も全く古臭いのだ。ひばり自身の生活を見たらそれは一目瞭然である。(中略)今、やくざと歌手たちの腐れ縁が大きな社会問題になっているが、ひばりの周囲にも色濃くそういう空気が漂っているのは見のがせない。しかし、むしろ、それならばこそ、歌手生活二十年になんなんとしてまだ衰えない根強い人気を集めているのかもしれないのである。」(1965【昭和40】年頃の飯沢匡の言葉のようです。齋藤『ひばり伝』118頁に引用されているもの)

バックにどんな人たちがついていたかの真偽については書籍等でご確認頂くこととして、これ以上は引きませんが、海を渡ったアメリカでは、1920年代の禁酒法のなかでジャズがマフィアのバックアップを受けながら根強く生き残ったことが、近年やっとごく普通に記述されるようになりました。

ロック(ロックンロール)にしても、もとをただせば、第2次大戦後にジャズ歌唱の一形態であったアーバン・ブルースというものから派生して来たのでして、やはりその初期のブームはアメリカだけでなく、海を渡ってドイツあたりの夜の街から火が突き出したのであり、デビュー前のビートルズもハンブルクの闇クラブで強壮剤を打たれながら夜通し狂ったように演奏を続けたりしていたのでした。

(それぞれの音楽については、こうした社会的な話ではなく、本来もう少し触れておきたい「音楽的な」特徴があるのですが、これを綴っているうちに方向付けが違うほうへと向かってしまいましたので、今回はやめておきます。かつ、それぞれの「音楽的特徴」についてだけ述べた書籍なら、探せばいくらでも見つかります。)

そんな「不道徳」な類いの音楽たちが、ではなぜ、国王から勲章を受けたり、ある国でのように歌手の死後国民栄誉賞を与えられたりするところにまで至ったのか、ということからは、「音楽とはそもそも、少なくとも現代人にとってなんであるか」の本来的な意義を垣間見せられる、と言っていいのではないかと思います。

とくに、流行歌の類いは、「不道徳」な場から生れ出て、世間には一握りしか存在しない「道徳」を気どるインテリ層が、カッコつけたことを言いながら結局は「弱いココロやカラダやチカラ」しか持ち合わせない「人非人」に何の救いももたらさないのを見限った、大多数の連中の口々に自然に乗り、広まって行くことによって、最後は
「裏事情なんてどうもいいじゃあないか、本当に私たちを支えてくれるなら」
と、言ってみればすべての穢れを取り払われて(などと言ってしまうと、ふさわしくないきれいごとにはなってしまうのですが)、どんな思想的な主義主張よりも、素直に人々のこころに密着し、皮肉なことながら、結果としてどんな政治施策よりも民心を安定させる効果を発揮して来たからこそ、結果として栄誉を受けることになったのではないでしょうか?

しかも、それは20世紀に急速に成長したマスメディア抜きには説明し得ないことでもあるのです。

ヨーロッパの中世には、修道院を飛び出したアウトロー的な神学生たちによる、破天荒な学生歌がありました。ですがこちらは、後代に再発見されるまで、社会の趨勢には何の影響ももたらさない、隠れた存在にしか過ぎませんでした。・・・何故なら、学生歌の辛辣さも、媒介する巨大な媒体がなかったがゆえに、普及のしようがなかったからです。
中国においては、どう歌われたかは分かりませんが、詩賦が同様の役割を果たしたもののようですが、これもまた、ヨーロッパほどに隠れていたわけではないにしても、詩そのものが生まれたその時代にではなく、対立して生まれた次代の王朝が都合良く利用したからこそ、辛うじて世相に影響を及ぼし得たものだったかと記憶しております。

ざっと、ですが、「大衆音楽」というものは、以上のようにその範囲を絞って観察する時、20世紀ならではの産物だと言って差支えない、思いの外新しい「音楽の一種」ではなかろうかと思いつつ綴って参りました。

ロックとかジャズとか言っても、最近の十代二十代には既に「古臭い」との受け止めかたもされているのが、ここのところの趨勢です。そうした中で、たとえば日本においてはJ-POPなるものが、果たしてどんなふうに人の心に浸透して行くのか、それはどういう背景から生まれてくるのか、は、これからまた数十年経ってみなければ分からないことでしょう。



20世紀のジャズとロックを俯瞰するうえで、手軽かつ記述も信頼出来ると感じた書籍は下記のとおりです。

相倉久人『ジャズの歴史』新潮選書 2007年
ロック・クラシック研究会 編『ロック・クラシック入門』河出書房新社 2007年


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sergejOさんの記事の便利なインデックスも是非ご活用下さい。

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