« 補遺:「バッハは世間に自分のことをどう思って欲しかったか」 | トップページ | 音楽の愛し方6:「伝統音楽」とは何を指すのか? »

2009年9月15日 (火)

誰も天国に行けなかった?(アホ話)

大井浩明さん「バッハは世間に自分のことをどう思って欲しかったか」・・・クラヴィア練習曲集第1巻から第4巻の連続演奏会(現代日本作曲家の作品をはさみながら)は、9月19-21日に行なわれます。3日通しでのお越しをお薦め致します。



メンデルスゾーンコーア & ハインリッヒ・シュッツ合唱団によるメンデルゾーン『パウロ』演奏会は10月2日、東京カテドラルにて。

増井 一友さんリサイタル(クラシックギター)、11/21(土)東京:近江楽堂 5時開演 、11/28(土)大阪:ザ・フェニックスホール 5時開演です。素晴らしい音色をお楽しみ下さい!

綴ろうと思っている文がまとまらないのと、やや疲労感もあるので・・・別にそういう日は綴らなくてもいいのですが。

つまらんことを思いついたので、簡単に綴ります。

このところ、ある交響曲とある指揮者・オーケストラにちょっとハマっています。
ただし、その曲そのもの、演奏者そのものについては、記していけるだけ勉強を終えていません。
・・・でもって、その過程でふと思いついた、ごくささやかな「交響曲」話です。

ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナー、マーラー、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチ。

ここに名前を挙げた作曲家の誰もが、こと交響曲の創作ということに限って観察すれば、
「天国には行けなかったんだろうなあ」
と、ふと思った、という雑談。
名前を挙げなかった作曲家については、別段、天国云々という発想自体がなかっただろうと思われますから(そういう意味ではシューベルトも本当は含めるべき人物ではないのですけれど)入れていません。
シューベルトについて、ですから先に触れておきますと、このひとの「ザ・グレート」は発見者シューマンに「天国的な長さ」なんて言われましたが、音楽そのものは極めて現世的な喜びのうちに締めくくられます。したがって、天国を目指した音楽ではありません!・・・シューベルトについては、また後で触れます。

現存最後の交響曲までを「完成」させたのは、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチですが、このうち「天国」を意識したかも知れないのはベートーヴェンだけでしょうね。後の二人のロシアの作曲家は、現世的な終末・・・およそ死後の世界の存在など持たない「暗がり」の中へと消え入って行くフィナーレをもって、交響曲の最終作を締めくくっています。チャイコフスキーのほうは奈落の底へ沈み込むように消えていきますし、ショスタコーヴィチは天に向かって蒸発します。いずれも、曲が終わった後に、その霊魂のかたちさえも見える気がしません。・・・これは古代メソポタミア人の死生観に通じているのかもしれません。古代メソポタミア人は来世なるものの存在を考えたことはなく、死んだら全ては闇だ(もしくは消え去る)、だから、生を存分に楽しもう、という価値観であったかと記憶しています。・・・この世界観を共有するというだけでしたら、マーラーの「大地の歌」も加えておいてよいかもしれませんが、惜しいことにマーラーは、まだ未練があって第九を完成させ、さらに第10の冒頭楽章まで作り上げてからこの世にオサラバしました。

では、天国を意識したかもしれないベートーヴェンはどうだったか、と言うと、最終の交響曲である「第九」のフィナーレは、周知の通り、極めて現世享楽的な頂点をもって最後に達します。・・・これではなお違う、と考えていたらしいベートーヴェンは、天国的なアダージョを構想したがっていましたが、マーラーほどまでにも実を結びませんでした(し、私自身はそのためのスケッチや断片が本当に存在するのかを知りませんし、学者さんの諸説も不一致であるように見受けます・・・情報下さい!)

最後の交響曲を途中まで作って先を続けられなかったのが、マーラーと、それに先立つブルックナーでした。ただし、マーラーの第10冒頭楽章には、「大地の歌」のエンディング、もしくは完成させ得た第九交響曲の最後で達成された、世界観的にはショスタコーヴィチのものに少し未練がましさを加味したような、それでもいちおう浄化された世界から、第6番作曲当時までの、どこか生々しい悲哀感・劣等感が顔をのぞかせているようです。
ブルックナーは、第9交響曲を完成出来なかったことが死の間際まで残念でならなかったようです。
ブルックナーのこの「未完成交響曲」は、一聴しただけでは第3楽章を終えたところで充分「浄化」されたような印象をも受けるのです。でも、研究家さんや評論家さんはこぞって、「そうじゃないの! ブルックナーは第4楽章まで作りたかったの!」と、私たちを叱りつけます。ですから、第3楽章でブルックナーの魂が浄化されたのだ、と考えることは許されないようです。
ほんとうは、聴き手としては、べつに研究家さんや評論家さんがどう仰っていようと、聴いたあとでこちらも「浄化」されれば構わないじゃないか、とは思うのです。
ここでまたシューベルトさんにご登場頂きます。
シューベルトの「未完成」も、第3楽章のスケッチと、最初の数小節のオーケストレーションまでが終わっていることとから、先を続ける意思があったことが判明しています。でも、聴き手としては、この「未完成」は音楽として充分完結しているし、しかもその先に(とくにショスタコーヴィチの場合とは違って)天国・・・パラダイスがあることをさえ確信させてくれるのです。

充分ではないでしょうか?・・・ただし、シューベルトがもたらしてくれるのは
「ああ、聴かせて頂いたおかげで魂が浄められました」
というところまでです。あとは聴き手任せ。

ブルックナーのほうには(伝記的なことはともかく・・・彼は終楽章を完成出来ないのなら自作の「テ・デウム」を代わりに接続させることを望んだこともありました)、ブルックナー自身が留保を付けているのです。それはベートーヴェンの第9交響曲の第3楽章と共通する理由にもとづくのではなかろうか、というのが、私めの主観です。
ベートーヴェンの第9のアダージョは、すでに顔面は金色のオーラで包まれているのですけれど、それはまだ個人的なものであって、やはり「来るべきパラダイス」を待ち望む、「終止し切っていない」終止音なのです。ベートーヴェンの第3楽章の場合には、最後の4音が短い音符三つの連打の後、ごくささやかに引き延ばされていることだけで締められていることに、先へ続くものの存在を予示するはたらきが明確に与えられています。
ブルックナーの場合は、第3楽章の構成自体が極めて起伏に富んでいる(これは彼のこの交響曲の第1楽章とも共通していることであり、かつ、極めて大まかに見たとき、第3楽章は第1楽章をネガとしたときのポジとしての構造を持っています)点でベートーヴェンのアダージョの静粛とは全く別のプロセスで浄化への上り坂に歩を進めているのですけれど、こちらもまた、終結部では、長い音符の背景に、ピチカートの3音が、まだ先に続くなにものかを待ち望むように響く点でベートーヴェンとの類似性を見せているのです。

・・・ということで、たんにあたくしめの勝手な「主観」を述べて、ちと場つなぎ、でございました。


L4WBanner20080616a.jpg


クラシックCD検索に便利!バナーをクリックして下さい!


sergejOさんの記事の便利なインデックスも是非ご活用下さい。

|

« 補遺:「バッハは世間に自分のことをどう思って欲しかったか」 | トップページ | 音楽の愛し方6:「伝統音楽」とは何を指すのか? »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 誰も天国に行けなかった?(アホ話):

« 補遺:「バッハは世間に自分のことをどう思って欲しかったか」 | トップページ | 音楽の愛し方6:「伝統音楽」とは何を指すのか? »