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2009年9月 3日 (木)

音楽の愛し方3:降りてくるものを

大宮光陵高等学校管弦楽団第23回定期演奏会は9月5日です!



大井浩明さん、BSに登場です!下記リンクをクリック、是非お見逃し無く。
8月5日(BS hi)終了・9月15日(BS2)

大井さんによる「バッハは世間に自分のことをどう思って欲しかったか」・・・クラヴィア練習曲集第1巻から第4巻の連続演奏会(現代日本作曲家の作品をはさみながら)は、9月19-21日に行なわれます。3日通しでのお越しをお薦め致します。

増井 一友さんリサイタル(クラシックギター)、11/21(土)東京:近江楽堂 5時開演 、11/28(土)大阪:ザ・フェニックスホール 5時開演です。素晴らしい音色をお楽しみ下さい!

3・7・8・9(7から9は当面欠番)
10111213
番外1 番外2

もとより生き物である以上は、その地位の上下を問わず体内に何かしら流れるものを持っています。それを私たち人間の言葉で表すと、「リズム」だとか「メロディ」だとか「ハーモニー」という、音楽上の用語になるようです。
「植物にも、昆虫や魚にも音楽がある」
と、ときどき比喩で見かけるゆえんです。

ただ、私たちは動物の一種であり、植物と同じ感性をもつことはできません。動物であっても、水中の生き物は陸上の動物とは違った発想の持ち主らしく、感情の交流を求めることは出来ません。(例外であるかたがいらしたら、すみません。)

陸上の動物は動物で、それぞれの種によって独自の<音楽>らしきものは身に着けているように感じます。しかしこれとて、わたしたちが「人間」以外の何者でもない以上、「人間」という種が身に着けている<音楽>からの比喩でしか観察し得ません。

人間という存在は、自分の周りにあるものに「意味」を求めることによって生きている、という特徴があるのではないでしょうか。「意味」を付けられないものにもなんとかして「意味」を見出そうとする衝動が、人間の命の源泉になっているのではないでしょうか。

「意味」を求めてきたことのひとつの結晶が「言葉」なのでして、言葉で語れるものには既に分かっている、というのが、私たち人間の暗黙の了解のようです。

ところが、<音楽>と呼んでいるさまざまなものに対しては、ひとはしばしば、
「言葉で表現できない」
なる感想を述べます。簡単に言ってしまえば、耳で聴くことのできるものの一部を<音楽>という言葉で括ってはみたものの、それは何故<音楽>というひとつの言葉でまとめ得るのか、を、私たち人間は説明できない、らしいのです。ここいらへんに、私たちが他の生き物を観察するときにも<音楽>を感じる秘密の鍵が潜んでいそうです。

前回はそのあたりを度外視して、<音楽>は音の力に対する畏怖の念に起源をもつのではないか、と単純に述べたのでしたが、それでは<音楽>が「権威」を飾るもの以上の「意味」をも含むようになった理由が分からないとの点で話を宙に吊るしておいたのでした。

怖れとはしかし、敵を脅したり弱者を地にひれ伏させるものに対してだけ抱かれる感情ではありません。
逆に、わたしたちより弱いはずのものが歯を剥いて来たり、大きな塊となって転がってきたり落ちてきたりするときにも引き起こされる思いです。むしろ、こちらのほうが強烈かも知れません。

で、<音楽>をめぐる古いエピソードには、こちらの類の例もまた数多く現れるのです。

『日本書紀』には、書物であるとの性質上、<音楽>そのものまでを載せておくことはできませんでしたが、「童謡(わざうた)」なるものが古代の皇族貴族のスキャンダラスな事件を予言したり揶揄したりするものとして登場します。これは中国や朝鮮(『三国史記』)の影響もあって載せられたようですが、言葉だけですと今の私たちに難しい、というだけでなく、『日本書紀』編纂当時の知識人たちにさえも良く分からなかったらしく、その言葉についての説明が付け加えられているほどです。それでもわざわざ記録された古代の童謡(わざうた)が歌われてからまだ100年も立たないうちに意味不明になりかかっているところを見ると、これらは本来、歌としての調べを伴うことによって、揶揄された上位階級の人々に、どこか恐ろしげな印象を与えてきたがために、歴史編纂の際にも無視しては通れなかった重さを持っていたのではなかろうかと推し量りたいところです。

東洋にこんな例がある一方、ヨーロッパ中世にも有名な『ハーメルンの笛吹き』伝説があります。
13世紀の知られざる小事件が発端なのではないかと思われるこの伝説をめぐって、以後のヨーロッパがどのようなイメージを抱いてきたか、を、私たちは幸いにして、阿部謹也氏の著書を通じ俯瞰的に知ることが可能です。その記述から浮かび出てくるもののひとつに、権威に安住した人々の背筋をも震わせたであろう、非道徳的で魔術的な<音楽>があります。こちらに由来する<音楽>は、権威を飾るものと好対照を成す、庶民の方から発せられる力を象徴しているかのようです。

ただ、これらも音の流れ(メロディ)や起伏(ハーモニー)がもたらす力を結集したものとして、実は権威を飾る側と表裏一体の関係にあるのでして、権力者と庶民のいずれを立てるのか、ということを超越した何かが<音楽>の背後には一貫して存在するのではなかろうか、と思わせてくれるものはありそうです。



録音技術が発達したこんにち、私たちは<音楽>を様々な種類に分けることをごくあたりまえに思っています。大まかには「大衆音楽」・「古典音楽」・「伝承音楽」・「民族音楽」がその区分ですが、実際に耳にしてみると、区分が曖昧なものも少なくありません。
人間は「好み」に左右されやすく、「好み」は社会や時代に左右されやすいので、これらの区分のうちのどれを愛好するか、あるいは毛嫌いするか、には大なり小なり個人差はあります。私自身にも好悪を分ける価値観はあります。とはいえ、これも年齢や、その時々の環境で、大きく変化をしてきました。これから先もまた、変わっていくでしょう。
すると、<音楽>を様々に区分することには、時間軸を大きくとればとるほど、反比例して意義が薄れていくのだろうと推測しておいても、あまり支障がないと感じられます。
ですから、「音楽の愛し方」なることを考えていくにあたっては、あまり区分ということは意識しないでいきたい、との思いもあります。
けれど、現実に音楽を歌う・奏でる・聴くにあたっては、歌い方・奏で方・聴き方に異なった態度で臨まなければならない社会がしっかりとあるからには、区分もまったく考慮しないというわけには行きません。

<音楽>とはどんなものか、を大雑把に考えるのはこれくらいにして、以後はちょっとだけ細かく、区分による特徴のようなもの、接し方の具体的な方法を考えていきたいと思います。

入り口としての大雑把な話を締めくくるにあたっては、ですが、こういう風にだけは申し上げておきたいと存じます。

<音楽>を愛するということは、自分の上に降り立ってくる<音楽>を畏怖して迎え入れ、それが自分の心の中で広がっていくのを大切にし、そのまま育んで行くことなのではないでしょうか、ということを、です。

武満徹氏が自作「鳥は星型の庭に降りる」について」説明したことを、最後に引用しておきます。

「なぜ、『鳥は星形の庭に降りる』というような変ったタイトルがつけられたのか、と言うと、それは、ある時私が見たひとつの奇妙な夢に由来しています。(中略)無数の白い鳥が、その星形の庭に向かって舞い降りていくんです。ところが、その中に一羽黒い鳥がいて、それが、群れをリードしていました。私はあまり夢を見ないほうですが、それだけに、その印象は強烈だったのでしょうね。目醒めた時、その風景がとても音楽的なものに思われて、これを音楽にしてみたいと思ったんです。」(『夢と数』1984年、新潮社「武満徹著作集」5所収)

A Flock Descends into the Pentagonal Garden 終結部(モノラル化)
「pentagonal.mp3」をダウンロード
小澤征爾/ボストン交響楽団 Deutsce Grammophon UCCG-9302


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