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2009年8月21日 (金)

素朴な疑問1:ベートーヴェン最後のピアノソナタをめぐって

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8月5日(BS hi)終了・9月15日(BS2)
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・・・「フォルテピアノ」について貴重な知見の得られる番組となることでしょう!!!



吉田美里さんリサイタル・・・キャンセル待ちですよー。明日ですが。。。

自分の中であんまり煮詰まりきっていないさまざまを・・・などと言うと、煮詰まったものなんか何にも持ち合わせていないので「全て」となってしまうのですが、その中でもいっそう煮詰まっていないものと主観で思っていること・・・を「素朴な疑問」として連ねていこうかと思います。

お知恵を拝借できれば幸いです。

で、あまりにも重いものから取り上げるのはどうかとの躊躇はあるのですけれど、ベートーヴェンの最後のピアノソナタ(第32番)から行ってみたいという、まったくもって分不相応なスタートを切ります(だって、私には弾けないんですもの!)ので、笑わないで下さいませ。

なんで
「これなの?」
・・・はい、聴いた感触に比べると、読んだ説明が、みんな高尚で分からないからです。


この作品の、聴いただけでもはっきり分かる特徴は、次の3つかな、と思います。

1)ものすごい不協和音で始まって、バロックっぽいテーマに流れ込んでいく

2)フーガ風で、音が分厚い

3)第2楽章は一転してとても平和で調の動きも少なくて・・・これで終わってしまう(15分ほどかかりますが)

第1楽章呈示部まで
第1楽章呈示部まで
Wilhelm Kempff(Jan.1964) Deutsche Grammophon POCG-2444(モノラル化)

で、素朴な疑問の大枠は、書籍などのいろんな記述で、
「これは晩年のベートーヴェンにして初めて成し遂げえた新しい作風であり、構造である」
といった意味合いのことが必ず綴られているところから発します。
それといいますのも、彼の晩年ならではの達成であることは否定するつもりこそありませんけれども、私はベートーヴェンの生涯にわたっての作風を俯瞰したとき、第32番の造りが彼にとって「初めて」のものでもなければ、新奇だとも感じなかったからでして・・・そこは、私の聴き方が浅いのかな、と、さまざまな記述からは反省ばかり強いられる結果になるのです。

1)から申し上げれば、私が初めてこのソナタを聴いたときの印象は、「第1交響曲の冒頭から主部に入るところに随分似た構造だな」というものでした。
確かに、この最後のソナタの冒頭部は減7度という音程で、非常に衝撃的な響きをしています。かつ、初期の第1交響曲のように調性がはっきり聞き取れるものではありません。(第1交響曲の冒頭は主調の下属調(サブドミナント)であるヘ長調であることが・・・仮にヘ長調だとは聴き取れないまでも・・・はっきり分かります。それに比べるとピアノソナタ第32番の冒頭は無調風にさえ聴こえます。)
ですが、じつはこのソナタの冒頭部にしても和声の機能は下属調的(サブドミナント)であることは明確ですし、サブドミナントからの開始、という点で第1交響曲と共通です。
そこから長い時間をかけて主部に移っていく過程は、さらに第2交響曲とも関連性があると思われます。

2)は、かたどおりに形式分析を行うと、ほとんど展開されない短い第二主題を持つソナタ形式なのですが、第1楽章全体の印象として、フーガのお決まりからすれば相当外れているものの、バッハがフーガ作品で繰り広げたような厳しさを持っており、ソナタ形式であると見ることのほうが遥かに適切ではあるとはいっても(これはベートーヴェンの時代の音楽言語だったからでしょう)、果たして第2主題を「第2主題」と読んでしまっていいのかとなると、私には心もとないとしか感じられません。これは経過句に過ぎないのではないか??? そしてこの楽章はベートーヴェンなりの「フーガ」の一形態なのではないのか???
重い低音が多用されているのもオルガン(パイプオルガンです)をさえ思わせ、ペダルをもたず、打鍵した音が減衰してしまうであろうピアノでもオルガンと同様の音の厚みが実現できる、とベートーヴェンは思ったのか・・・はたまた、彼にとっては鍵盤作品は単にピアノを用いなければならないという制約(物理的理由であろうが精神的理由であろうが構いません)があるからピアノを選択したまでであるのか・・・これも管弦楽作品とピアノ作品の兼ね合いをベートーヴェンがどう考えていたかを想像すると、興味深いことだと思っております。

言い添えますと、教科書フーガはともかく、作品としてのフーガがしばしば「抽象的」と評されることには違和感があります。バッハはもちろんですが、もっと平明なヘンデルのフーガ的作品にせよ、ベートーヴェンのこのソナタ楽章にせよ、抽象的といってしまうには、あまりにナマな人間の精神像が具体的に現れていはしないでしょうか?

3)の第2楽章については、ベートーヴェンが第10交響曲を構想するにあたって常々「Adagio、Adagio」と意識していたと伝記が伝えていることを私に連想させます。第九交響曲が、あの美しい第3楽章でもなお完結できなかった理由が、2年前には既に出来上がっていたこのアリエッタの「天上的な響き」でもなお彼が「何かを解決できない」でいてしまったことと、どこかで強い繋がりがあるのではなかろうか、とさえ思うのです。ピアノソナタのほうでは、単一主題を変奏曲として、まずは素朴に鳴らし、調を変えないまま、次第に光が増すようなアルペジオやトリラーを添えることよって、一種の昇天儀礼を思わせる構成となっており、それによって得られる安息へと、第九交響曲に比べると信じられないほどの滑らかさで下降していくさまには、ただ驚嘆の念を抱くしかありません。・・・それでもまだ、締めてみれば、ベートーヴェンにとって、これは最終的な安息ではなかった。
第九第3楽章では、このソナタには盛り込まなかった最後の審判のラッパが、これまた通常の「怒りの日」の印象とは程遠い、平安の高らかな宣言として鳴り響きます。第32番のピアノソナタで個人的には済んだはずの平安では未だ天に至っていないのだ、とばかりに、第九のほうでは、そんな仕掛けをしている。ところが、こっちはラッパなんか鳴らしちゃったもんだから、その先のパラダイスがどんなかを描かざるを得なくなった。これはこれで、ベートーヴェンにしてみれば「自分の求めているものではない」のだったのでしょう。

ただ、第九の規模(ピアノ独奏から管弦楽へ)と構成がもたらされるには、精神の時間的な経過からの必然として、まずベートーヴェン個人としての「安息」は第32番のソナタにおいて「簡明に」解決しておかざるを得なかった。

2楽章構成であることに疑問を持ったシントラーからの問いに
「時間がなかったからだ」
と答えたほうについては、人を食ったとだけしか説明されていないのですけれど、実はベートーヴェンにしてみれば、全く分かっていないはずのシントラーから痛いところをつかれて、揶揄だけではなく、自嘲をこめてそう述べたのではなかろうか、とさえ、シントラー同様の私などは思ってしまうのです。
こんにち、第32番(作品111)のピアノソナタを仕上げるのには2年の歳月を要したことが明らかになって久しいのではありますけれど、それでもベートーヴェンにはおそらく
「時間がなかった・足りなかった」
のです(と、断定口調ですが、私の推論であり、そうではなかったのか、と疑問を抱いていることです)。

以上、私の本文の趣旨は全くそれらからずれているのですけれど、今回参考にしたのは、

※田村和紀夫『名曲が語る音楽史』(2000 音楽之友社・・・この本、私の<素朴な疑問>にたくさん源泉を提供してくれます。そのことは、追々に。)

※園田高弘・諸井誠『往復書簡 ベートーヴェンのピアノソナタ 分析と演奏』(1971 音楽之友社・・・この本の存在を教えて下さったJIROさんに深く感謝申し上げます)

の2著です。

それぞれに良いことが述べてあり、それには全く異議はありません。
ましてや、私は楽曲の深い理解者でもなければ、精緻な分析に取り組んだ者でもありません。
ただ、この作品を単独で取り上げてしまうと、なぜ第32番がベートーヴェンにとって最後のピアノソナタになってしまったのか、そしてそれが彼のピアノソナタの集大成とみなしてもおそらく間違いではないと言い切れるのか(・・・たしかに、言い切ってよいのだろう、と信じてはおります)のほうが、分かりにくくなってしまう気がします。
そういう意味では、前史も含め32曲すべてをひと繋がりで捉えた園田・諸井両御大の往復書簡のほうが、作品理解には良いガイドになるのではないかと思います(惜しいことに古書でしか入手できなくなっていますが)。
特に、32番をめぐって、諸井氏は、これをもって探求に訣別の辞を贈ろうとしているのに対し、園田氏の方は「これでお別れするわけにはいかない」と最終書簡で応酬しているところには、背後にじつはそういう展開になるであろう暗黙の了解が双方にあるのだと直感させられ、胸打たれるものさえあります。

さらに言えば、

・個人としての「現世」と「昇天」はピアノで書き終えたが、彼には公が残っていた

・公に対しては、ふさわしい編成である管弦楽と合唱(第九)で外向的に描いてみた

・しかしながら、それでもやはり、彼には「魂の浄化」はもっと内的なものであるとの反省があった

・達成しえたとの思いがあったかどうかまでは分からないが、締めくくりを、4声が調和する「弦楽四重奏」の形態で、神性、霊性の双方に触れ得るかたちで書き残すことを、ベートーヴェンは試みた

・これらは、彼が初期に既に達成した一群の弦楽四重奏や第1・第2交響曲から、実は間断なく追求されてきたものであり、従って、晩年に突然新奇なものを生み出したわけではない。手法において大胆だった、という表面的事実をもって、晩年作品のみを特別視することは、ベートーヴェンという「個人史」を知る上では避けなければならない

といったところが、私の疑問の集約となるでしょうか。

・・・いや、いまさらこんな駄文を連ねる必要はなくて、世間でベートーヴェンを熟知なさっているかたがたには、これらのことはわざわざ記すまでもない、彼の人生を見つめる上で自明なことでしかないのかもしれません。
そうであることを願います。


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コメント

こんばんは。

ベートーヴェンの32番の第一楽章、見てみました。
「フーガ風で、音が分厚い」という点については納得です。
序奏部がバロック風の付点リズムを中心に構成されている事、
主部では第一主題が極めて強力であり、
主題から派生した16分音符の動きもフーガ風といえますし、
第二主題がまたもや付点リズムに拠っていることも、
序奏部との関連で注目に値するものです。
楽章全体はバロック風の「前奏曲とフーガ」を
彼なりに解釈したような風貌をもっているようですね。
(そういえばモーツァルトのプラハ交響曲の
第一楽章もそういう構成でした。)

投稿: Bunchou | 2009年8月23日 (日) 22時36分

Bunchouさん、いつもありがとうございます。

>楽章全体はバロック風の「前奏曲とフーガ」を彼なりに解釈したような風貌をもっている

そうか、こういうふうに表現すればいいんですね。。。
はい、そして仰る通り、「プラハ」第1楽章も同じ造りです。
ただ、「プラハ」の方はバッハっぽいよりはヘンデルっぽいと思っていますが、いかがでしょう?

いずれにせよ、文中に記しました通り、断定口調ではあっても「疑問」の提示です。
重ねてご教示頂けることがありましたら幸いに存じます。

投稿: ken | 2009年8月23日 (日) 22時51分

>「プラハ」の方はバッハっぽいよりはヘンデルっぽいと

確かにそうですね。
あえて言えば両者の中間という感じしょうか。
バッハほどは緊密でなく、ヘンデルほど緩くもなく。
むしろ「プラハ」では全体が教会ソナタの形式を
模していることの方が重要かもしれませんね。


いずれにしても、現在の通説的な音楽史は
「革新性」とか「進化」にこだわり過ぎているように感じます。
ベートーヴェンのこの楽章にしても、「プラハ」にしても
「温故知新」の精神が強く感じられるのですが、
そういう観点はもっと出てこないものかと思うことがあります。
これは余談ですが、ベートーヴェンに限って言えば、
「スケルツォの革新性」はかなり胡散臭いものを感じてもいます。

投稿: Bunchou | 2009年8月29日 (土) 07時36分

スケルツォについては、ブログを始めたばかりのころにささやかな記事を綴りました。

参照頂ければありがたく存じます。(ちょっと中途半端なものなのですが。)

http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/1_9915.html
http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/2_98a4.html
http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_ed61.html

投稿: ken | 2009年8月29日 (土) 12時24分

スケルツォの記事にコメントさせていただきました!
参考になれば幸いでありますです。

投稿: Bunchou | 2009年11月 6日 (金) 13時10分

Bunchouさん、ありがとうございます、拝読し、たいへん参考になりました。

お変わりなくお過ごしですか?

ほかに頂いたコメントへのレスは少しお時間下さいね。

風邪、インフルエンザ大流行の折柄、ご健康第一でお過ごし下さいますよう!

投稿: ken | 2009年11月 6日 (金) 20時36分

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