« ミヒャエル・シェファー「バロック・リュートの音楽」 | トップページ | 蓮見さん阿部さん関西ツアー開始:CD "ROMA" ご紹介 »

2009年7月15日 (水)

音楽を聴く「点と角度」:モーツァルト「作品2」の中の1曲を例に

Yamatouchiharu蓮見岳人・阿部千春デュオリサイタル
(バロックリュート&バロックヴァイオリン、ケルン在住)、是非お出掛け下さい。

千歳(7月12日、終了)・天理(7月18日)・京都(7月19日)・名古屋(7月21日)静岡(7月22日)・東京(7月23日)です。

総合連絡先:スパティウム・ハルモニエ(電話050-5539-8845、mail:duo@angel.nifty.jp

HP:http://abe.hasumi.de/

会場情報をリンクしたご紹介記事:http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-c067.html



〜若き天才作曲家が世に問うた「作品1」〜

《モーツァルト:パリ・ソナタ集 作品1(全六曲)K.301-306》

(護国寺:同仁キリスト教会にて、18時開演)はリンク先(←ここをクリック!)、この演奏会への私の期待については「サヨナラ『古楽』」をご覧下さい。

連絡先:オフィス・アドック(電話:050-5532-5562、mail:office.adhoc@gmail.com

blog:http://ooipiano.exblog.jp/11686543/

吉田美里さんヴァイオリンリサイタル

・7月25日(土)ペンション・モーツァルト (山中湖) 残あり。

※8月22日(土)14:30〜  荻窪:衎芸館(かんげいかん)・・・は満席となりましたそうです!

プログラム等は、こちらをご参照下さい。

すみません、あとで(7月16日夜)内容を記します。

大したことが綴れるわけではありませんが、この記事の課題は、下記3例の「違い」をどのようにきくことが出来るか、についての
・方法のヴァリエーション
・音楽を「愛する」といううえではその中でどれが望ましいか
を考えてみることです。

それぞれ、まず、使用楽器と使用している調律法が違います(事実だけで言えば、とくに鍵盤楽器側は当然のことながら固定されています。たぶん、中全律そのものを使った例はないのではないかと思っていますが、門外漢ですので推測に過ぎませんから、その点はご容赦下さい)。
では、それこそが「耳を傾けるうえで最も大切なことなのかどうか」
というお話にしたいと思っております。(方針転換の可能性はあり!)


曲は、モーツァルトの「ピアノとヴァイオリンソナタ」K.378 第1楽章呈示部(モノラル化してあります)で、7月25日の大井さん阿部さんの演目には含まれませんが、関連の深い作品です。

・デュルケンモデルのフォルテピアノ(ヴァイオリンはシュタイナー)
 調律はおそらく中全律に近い設定のウェルテンペラメントの一種
k378-1
(ちと、奏者は伏せます) Gramola GRML98789

・シュタインモデルのフォルテピアノ(ヴァイオリンはシュタイナー)
 調律はおそらく等分律に近い設定のウェルテンペラメントの一種
k378-1
シュレーダー(Vn.)/インマゼール(Fp.) deutsche harmonia mundi BVCD35053

・使用楽器は分かりませんが、ヴァイオリンはクレモナのもの。
 調律はいわゆる現代の平均律
k378-1
アッカルド(Vn.)/カニーノ(Pf.) BRILIANT 99721/7



と、以上を綴って一晩置きましたが、そのあいだにお聴きになられた方は、どのようにお捉えになったでしょうか?


で、あらためて申し上げたいのは・・・これも録音ですから本来望めないことなのですが・・・今回掲載した音楽だけでなく、どんな音楽をお聴きになる時にも、まずは他の種類の芸能をお楽しみになるのと同様に、まず「どんな台本か」・「それがどのように演じられているか」を素直にそのままお楽しみになって下さったら、それで充分だということ、ただし、楽しむ間だけは、出来れば劇場に身を置くようにしてご自身を「閉じた」世界の住人にしてしまう(つまりは自分自身をもフィクションにしてしまう)方がよろしかろう、ということ、の二つです。

この二つの心づもりだけあれば、音楽を楽しむのも演劇を楽しむのと非常に似たものとなります。



すると、上の3例をどう楽しむかには、シェークスピア劇や日本の時代劇の楽しみ方に非常に似たヴァリエーションがあることが分かります。

それらのうちの代表的なものだけになぞらえてみましょう。



まずひとつめは、シェークスピアのストーリーが守られていれば、演出・演技は時代にとらわれなくてもいい・・・シェークスピアの精神を楽しみましょう、という行き方。
これだと、上の3つの例に添えた、どんな楽器や調律法がとられているか、ということは(極端に言えば)何も考えなくていい。
台本がきちんと生きているかどうか、を聴き取れればいいのです。

この楽しみ方でいくのが、いちばん公平な評価が出来るかも知れません。
台本には、セリフの区切り方やニュアンスのつけかたが必ずしも全て書いてあるわけではありませんが、器楽作品の場合には、たとえば
「おなじかたちのメロディを複数の役者(楽器)が演じる場合、基本的には同じ区切り方やニュアンスなどで演じる」
のでして、そうなると、さて、1例目などはどうお聴きになるでしょう。また、3例のうち、この原則をいちばん良く守っている、従っていちばん心地よく聴けるのは、どれでしょう?



ふたつめは、シェークスピアの「時代」と私たちの生きる「現在」とを対比させて楽しむ・・・対比は演出家(音楽の場合は演奏家さんですかね)が行ないますので、限られた演出家さんにだけ注目するか、いろんな演出家さんのものを見てみる(聴いてみる)か、というのが、私たちの選択肢となります。今回の3例は、それぞれが違う選択肢なのですが、じつはここでもまだ、「使用楽器がどうの」とか、「調律がどうの」ということは、それほど細々とした意味は持ちません。・・・ちょっとトリッキーなのですが、これはとても気をつけなければならないことです。
この楽しみ方における「使用楽器」や「調律法」は、舞台衣装に過ぎません。
3例目が

「現代劇におきかえた演出だ・・・ハムレットが背広を着ている」

といった類いのものであることは自然に分かりますが、1例目2例目について言えば、どちらも同じような「時代」を想定している、ただし演出を変えただけだ、というのに過ぎないものを、「1つ目と二つ目は本質的に違うんだ!」と頑固に思い込んでしまう、大きな過ちを犯すことになります。

ここで前提としている楽しみ方で行けば、1例目のハムレットは中世の衣装をまとって現代語でセリフを喋っているのであり、2例目のハムレットは衣装だけでなくセリフも中世の言葉に似せて語っているのでして、「楽しむ」という意味では、似たような衣装でも言葉が違うとまた色合いが違うんだね、面白いもんだね、というのが妥当なところです。

つまり、「時代考証」ということをあまり問題にするところにまで深入りしない方がいい。
話はそれますが、「時代考証」をキチンとやると、日本でもこんな例があります。
時代劇に出てくる江戸の庶民の長屋ですけれど、これは「二階建て」だったものが圧倒的に多かったらしいのです。
ですが、それが分かっている今でもなお、時代劇の江戸の長屋が「二階建て」であらわれることはありません。もし「二階建て」長屋なんかが出て来ちゃったら、私たちはビックリ仰天すると共に、なんだかしっくり来ない思いを味わうことでしょう。

すなわち、「まとっている衣装の違い、言い回しの違い」を素直に楽しもうという場合には、あんまり「時代考証」的な批評眼(耳、なんですけれど)なんか、なまじっか持たない方がいい。



みっつめの、今回最後にあげるヴァリエーションだけは、「時代考証」をやや厳しめに意識して聴いてみよう、という「楽しみ方」なのですが・・・これは、実は「楽しみ方」というよりは「苦しみ方」と言った方がいいかも知れません。
ご自身が音楽を演奏する立場でしたら、アマチュアであっても、

「作品が出来た当時を<考証>したこの演奏は、どんな根拠でこのような<考証>をしたのか、それは是なのか非なのか」

ということを、寝ても覚めても考えなければなりません。
かつまた、安易に結論を出すことも許されません。

徳川時代の江戸では「二階建て」長屋が普通だった、という考証・・・これは確かに正しいのでしょうが、じゃあ、どれだけの割合で「二階建て」長屋があったのか、平屋は皆無だったのか、炊事だの洗濯だのトイレの問題はどうしたのか、と、突き詰めていけば行くほど、「正しさ」の輪郭は曖昧になっていきます。ちょうど、「原子論」が正しい、と認められた後、素粒子の世界に入り込んでいくと、単純な原子模型では実は原子というものは論じられないということがだんだんに分かってくると同時に、では原子の実態とは何なのかがどんどん難解で、素人目には曖昧模糊としてきたようなものです。
従って、これについては
「この時代考証は、ここまでの正確さで線を引いて、なおかつここまで整合性を保っているのだな」
という見極めが必要になってくる。
そこで初めて、使用楽器やら調律法やらが意味を持ってくることになるのです。

こうなってくると初めて・・・批判を述べるのは僭越の限りなのですが・・・1例目と2例目の聴こえ方の違いに<考証>の甘さ厳しさの差が歴然としてくることが分かります。

すなわち、1例目は、単に

「モーツァルト当時に使われたであろうタイプの楽器と調律法を使ってみました」

程度の、<考証>とも呼ぶに値しないブザマなことしかしておらず(これが日本の演奏例ではない、なんと、ウィーンのものなのだ、というのは、私には少なからず驚きでもあり残念でもありましたが)、ヴァイオリンは作られた年代は古いかも知れませんけれど演奏方法は現代そのままですし、フォルテピアノの固定された調律に対して音程上で歩み寄ろうとする努力が全くありません。これはフォルテピアノの側にも言えることでして、こちらはこちらで、ヴァイオリンの演奏する「セリフの区切り」・「ニュアンス付け」とは全然違う演出(いちばん最初の「楽しみ方」で耳を傾けるべきポイントがなんだったかを想い出して下さい)をしてしまっているため、胡散臭さを増すだけの結果になってしまっています。

・・・という次第で、演奏もする立場として、これは重要な他山の石として
「これぢゃあいかん!」
という自戒の材料にしなければならなくなるのです。文句を言っている場合ではないわけです。


結論。

したがいまして、みっつ述べたうちの「いちばん最初」が、いちばん素直な、たのしい音楽の聞き方になるんじゃないでしょうかね!

で、この聴き方でも、モーツァルト当時にはまだ存在しなかったグランドピアノが、やはりモーツァルト時代には存在しなかった「平均律」という調律をされていながら、第3例目の、とくにピアニストであるブルーノ・カニーノが如何によくヴァイオリンという「平均律なんか関係ネエ」楽器にこんなにも歩み寄れる演奏が出来ているのか、と(これは最後の「音楽を聴くときの苦しみ方」でも同じ結果が得られるのが面白いところです)新鮮な驚きで響きに身を委ねられるのです。

同時に、
「じゃあ、モーツァルト自身に聴こえていたはずの音そのものは分からないけれど、近いとしたらこんなふうに変わるのね」
という具合に、2例目に対しても何の偏見もなく接することが出来るようになる、というからくりです。



すみません、あんまり面倒な物言いをするつもりはなかったのですが・・・時間制限の中で泡を食って綴っているのと、やはりまだまだ私自身が「浅い」ヤツですから、こんなことでご勘弁下さい。

ゆとりがあるときに、もうちょっと平易にまとめなおしたいと思います。

大変失礼致しました。

|

« ミヒャエル・シェファー「バロック・リュートの音楽」 | トップページ | 蓮見さん阿部さん関西ツアー開始:CD "ROMA" ご紹介 »

コメント

>(ちと、奏者は伏せます)

調べさせていただきました。
おそらくKenさんと同様の反応を示す方もいらっしゃると思います。
それだけ名の通ったベテランなわけですし。

ただ僕は時代考証的な面よりもまず、
「これはアンサンブルとしてどうなの!?」
という疑問を抑えることができませんでした。
(この記事の趣旨には外れるかもしれませんが。)
余興的に楽しんでみましたというのなら兎も角、
これをプロの本気として売り出していいのだろうかと
しばし考え込んでしまいます。
こういう「緩さ」を伝統と呼んでいいものなのかどうか。
古楽器を使えばそれでいいのだろうか。
コンビネーションは一体どこへ…。

うーん。
僕も批判的な内容になってしまいました(汗

投稿: Bunchou | 2009年7月18日 (土) 04時54分

Bunchouさん

今回は、反応が速い私です! (^-^;
・・・さすが、です!!!

正直に、最初に頭を駆巡った言葉。

「あーーー、Bunchouさんも、言っちゃったーーー!!!」

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

投稿: ken | 2009年7月18日 (土) 09時58分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 音楽を聴く「点と角度」:モーツァルト「作品2」の中の1曲を例に:

« ミヒャエル・シェファー「バロック・リュートの音楽」 | トップページ | 蓮見さん阿部さん関西ツアー開始:CD "ROMA" ご紹介 »