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2009年5月11日 (月)

「全体像」を聴く大切さ:大井浩明氏「ベートーヴェン 交響曲第1番・第2番他」

大井さんのCDを何枚か興味深く拝聴して来ましたし、この他にも楽しませて頂いているところですが、さて、なんで大井氏の録音がこんなに面白いのだろうか、ということを、ちょっとだけ顧みてみました。

鍵盤楽器の門外漢がいちばんその「面白さ」を身近に感じられるのは。

Beethoven "Symphonies for Fortepiano"(リスト編曲版ベース)
ENZO MOCP-10006

でした。それが大井さんの本意かどうかは全く別として、あくまでも、享受者としての私にとっての「面白さ」だけを念頭においているのですが。


Ooibtsymphonyピアノフォルテ、はもちろん、現在の「ピアノ」という楽器にも疎い私にとって、学生時代から馴染みのある「弦楽四重奏曲第1番第1楽章」・「交響曲第1番」・「同第2番」を、ピアノフォルテという1台の楽器でどのように奏でられているのかを聴くことは、この大井さんのCDを耳にするまでは必ずしもしっくり行きませんでした。

それはどうやら、出回っている「ピアノ独奏によるベートーヴェンの交響曲」は知る限りリスト編曲版と謳っているものばかりでして、いざ耳にすると
「これじゃあ、ピアノの曲じゃねえか!」
「なんぼリストが頑張ったって、弦楽器と管楽器の色彩は所詮ピアノ1台では出ないヨ」
という、まあ、思い上がった考えと、もうひとつには、同じリスト編曲のはずなのに、聴くもの聴くもの、なんだか違うもんを弾いているような、妙な感触があったからです。
(これについては、演奏者によっていろんな音の補充をしているらしいことを後で知りましたが、なにせリストの楽譜なんか私には読めませんし、どのピアニストがどういう補填をしているか、なんてことを峻別できるいい耳なんていうのも持ち合わせていません。また、本当は、リストよりも優れた編曲をした人もいる、というお話を、詳しい方から承ってもおりますが、そう言うものに関しても全く疎いままです。)

だから、ピアノ1台で流れてくるベートーヴェンの交響曲(や弦楽四重奏曲)は、誰の編曲であろうが
「どうせモノクロさ!」
と単純にタカをくくって、人生を送って参りました。


大井氏の用いている楽器は、例によって、作曲者もしくは編曲者が、作曲・編曲時に用いていたもの、もしくはそれと同等のものです。このことは、だからといって、私は「復古主義」だとは感じていない、ということは、前にも申し上げたことがあります。
大井氏が狙っているところを独善的に邪推するならば、あくまで、その作品が生まれたままの響きだったらどのように聞こえるのか、という「いま、このとき」の音の追求です。

この交響曲編曲版で用いられているピアノフォルテは、ヨハン・バプティスト・シュトライヒャー作である、と、リーフレットに記されています。シュトライヒャー一家の中でも後期に属する人物で、1830-50年代に活躍した制作者ですから、まさにリストの時代の楽器です。耳にした限りでは、それ以前のピアノフォルテに比べ音の均一化が進んでいる(という聞き方が適切かどうかはちょっと怪しくて、18世紀後半から19世紀後半にかけてのフォルテピアノの音色は音色で、それぞれ、それなりの統一感はあると思ってはおりますから、自分のアタマで考えられるもう少しまともな表現では「現代ピアノに近づきつつある」としか言えません)、そのような楽器です。

トータルで聴いていきますと、楽器だけの要因ではないのですが、少なくとも、まずこういう「道具」を用いていることで、モダンピアノによるベートーヴェン交響曲編曲版の演奏では感じられることのない、音の柔らかな伸びが実現しています。これは、他の演奏家が近い時期のフォルテピアノを演奏しているのを聴いても思うことです。
あとは、調律と演奏の問題です。
大井氏が日本の他のフォルテピアノ奏者と一線を画しているのは、大井氏自身がどれだけ関与しているのかは分かりませんが、すくなくともかなりのこだわりで、「理論」によらない、響きの融け合う調律を、演奏する曲毎に調整しているかさせているかすることです。比較すると叱られるかも知れませんが、これはモダンピアノでもミケランジェリのこだわりを想い出させます。
楽器の特性に、この調律へのこだわりを加味することで、少なくとも私が耳にした限りでは、ピアノ編曲されたベートーヴェンの交響曲から、あるいは木管楽器の、あるいは金管楽器の、あるいは弦楽器の音色を出すことに成功している。

・・・これは、私のような一介のヘボアマチュアにとっては、大変うらやましく思われることです。

ピアノだからオーケストラを1台で実現できる、ということは、フツウは決してありません。
ですから、たとえばブラームスでも、第3交響曲は、おそらく下案は連弾ピアノで作り上げ、のちには2台のピアノ版の編曲として普及版を売り出したりしています。第4交響曲についても事情は似ています。ところが、それでもなお、管弦楽では実現できている音色の変化や大事なディテイルについては省略をせざるを得なかったりしています。
ショスタコーヴィチも、交響曲の試演用に2台ピアノ版を作成しています。
ベートーヴェン以降の作曲家にとって、交響曲は1台のピアノで響きを実現できるシロモノだ、という発想は、もしかしたらなかったんじゃあなかろうか、と思っております。で、自分としては、リスト編曲版を謳う1台ピアノでのベートーヴェンの交響曲演奏は、どう聴いても
「これってやっぱりピアノ音楽だよね」
としか思えませんでした。


大井氏の演奏の第1番めの面白さは、こうした私の独善的な「常識」を突き崩してくれたところにあります。
些細ないくつかをあげますと、トレモロがきちんと「同音程上のものに聞こえる」(これはピアノのトレモロがどんなものかをご存知でしたら、いかに驚くべきことかがお分かり頂けるでしょう)、あるいは、いまの普通の感覚では打鍵と同時に音が減衰するピアノでは連続的なクレッシェンド・ディミヌエンドは不可能なはずなのですが(でもって、そういう演奏は非常に多いのですが)、大井氏の演奏では、あたかもヴァイオリンやヴィオラやチェロ、笛、ラッパをかかえた小人が楽器の中にひそんでいるかのように、滑らかに連続するディナミークの変化が聴き取れるのです。

第二の、特筆すべき面白さは、そうは言いながら、ピアノフォルテならではの即興の「遊び」が随所に聞かれる・・・その数を私は拾い切ることができません。
ときにディキシーっぽいひねりが入ったり、と、それは必ずしも古典的な「遊び」ではないところが、意表をつきます。

でも、もしかしたら、これでも大井氏にとっては堅実すぎたかもしれない。
ご本人は、もっと遊びたかったのではないかと思います。

アマチュアオーケストラに所属していたりして、ついつい「自分のパートにのみ」耳が行ってしまうという習慣を持ってしまった私たちは、大井氏の
・トータルな響き
・それを構築した上での自由な遊び
に耳を傾け、オーケストラ音楽の全体像とは何か、をあらためて考え直していければいいなあ、と思っております。

以上、勝手に勝手な楽しみ方をして、これでいいのかの確認もとらぬままの、不許可掲載です!


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