« 蓮見岳人さん参加CDご紹介 | トップページ | 見せない「工夫」 »

2009年5月29日 (金)

「学説」はどこまで参考になるか

ケルンで活躍中の蓮見岳人・阿部千春デュオリサイタル(リュート&バロックヴァイオリン)、是非お出掛け下さい。
静岡(7月22日)・東京公演会場(7月23日)が決まりましたので、追記しました。
その他、最新情報は追加でお知らせします。



大崎滋生さんのご著作はどれも面白いのですが、とりわけ
『音楽演奏の社会史』(東京書籍 1993 ISBN4-487-79104-9)
は、大崎氏が執筆なさった当時の「音楽史観」を反映してはいるものの、ここ数回<へりくつ>を述べさせて頂く上でも参考になったほど、16年前としては画期的なご本だったと思います。

「歴史とは、過去の事実なのではない。その時点から今日までの後世が作り上げてきた、過去に対するイメージである。」(184頁)

「『シーザーのことはシーザーでないとわからない』というテーゼがある。しかしわかりようがないものについての追究と実践は意味がないのだろうか。シーザーになれなくてもシーザーに迫ろうとすること、それが私たちの地平を広げ、私たちの精神を豊かにするのである。」(282頁)

後者の記述の後、大崎さんの執筆当時には西欧では古楽が先進的だったこと、それに対して日本ではまだ奏者も学者も未成熟であるくせに「価値観の違いを敵対的に表現する」(同頁)側にあったことを、「自戒を込めて」(同頁)述べていらっしゃいます。

日本の事情は、しかし、大崎氏の執筆時点からまた大きく変わって来ておりまして、「古楽」でない人のほうが古楽に対して「価値観の違いを敵対的に表現する」ことのほうが目につくようになって来ています。「古楽」と貼紙された人は、以前ほどではないにしても、相変わらず狭い認知度のなかに甘んじなければならない状況下にあり、そうでない人たちは、本来古楽の研究成果であったはずのものを「取り入れた」と称することによって、「それでも古楽なんてものは!」と、公然と、あるいは陰口を叩きながら、世間的・世俗的な権威を保っている、というのが実態ではないかと思います。

果たして、音楽というものも歴史の上の事象であるならば、演奏形態には様々な方法が容認されてしかるべきであり、それでこそ「私たちの地平を広げ、私たちの精神を豊かにする」はずです。が、上に引いた大崎氏の文に垣間見られる<矛盾>が、はからずも、現実はそうは運ばないことを明確にしてくれています。
すなわち、歴史とは「過去の事実」なのではなく、「過去に対するイメージ」なのですから、そのイメージを共有すべき「現在を生きる私たち」に対して
「我こそは正統である」
との権威を示すシーザーたり得た陣営が、「イメージ」の大枠に対して決定的な影響を及ぼすことになっているのです。



ですから、私たちがまず疑わなければならないのは、
「正統なるものが、本当に存在するのか?」
ということになるでしょう。
少なくとも、たとえば「ジャズ」がアメリカ黒人のものであるのならアメリカ黒人以外には「正統」は存在しませんし、同じくロックがイギリス白人のものであるのならイギリス白人以外には「正統」があるはずはない。
「クラシック」にしても、どなたかが仰っていたのを耳にしましたが、本来はヨーロッパの伝統音楽のいちジャンルなのでして、ヨーロッパ以外に「正統」はない。この論法で行けば、その音楽を生み出した民族以外が「正統」を称した時点で、そんなものはニセモノだ、ということになります。であれば、偽者同士が「正統」を競うことは、
「ハイ、ボクたちの方がニセモノです! どうだ、偉いだろう!」
というコミックを演じているだけの話になる。
そう考えてしまっていいのかどうか、は、問う気はありません。
ただし、日本の雅楽や能、文楽、歌舞伎を人種・民族的に「日本人」でない人が演じたら、それだけでもう「正統」とは見なさない、という根深い価値観が、私たちにあることは、誰にも否定はできないと思います。


では、この論法では「正統」であるはずのヨーロッパ・クラシックが、一つの例として、ハイドンの交響曲をどう演奏して来たか、について、面白い例を耳にしてみましょう。二つの演奏はピッチが違いますので、あらかじめご了承下さい。

※「奇蹟」第1楽章から
・ベイヌム指揮 コンセルトゲボウ(DECCA 476 8483)1952年
Beinum

・ホグウッド指揮 The Academy of Ancient Music(DECCA 475 9111)1985年
Hogwood

ベイヌム指揮とホグウッド指揮で、どちらが「奇蹟」っぽく聞こえます?(ニックネームの由来については、あえてなにも考えず、その正直なイメージに従って聴くことにしておきましょう。)
蛇足を申し上げますと、ホグウッド指揮のほうの演奏は、通奏低音にピアノ(フォルテピアノ)を用いています。・・・で、この演奏、古楽なるものに聞こえますか?

で、大崎著の、ハイドンの交響曲に関する記述。
「たとえばハイドンのシンフォニーはたくさんの古楽器団体がCDを出しているが、それらの団体はしばしばチェンバロ奏者として出発した人が組織しているものであって(中略)、したがって自ら『通奏低音』なるものをチェンバロで派手に奏しながら指揮をしていることがあるのだが、これはハイドン学者からみれば噴飯ものである。ハイドンのシンフォニー・オーケストラにはチェンバロは参加していなかっただろう、という推定は(中略)ハイドン学者の一致した意見である。」(前掲書29頁)

これは実は、記録で確認できるエステルハージのオーケストラの編成にチェンバロが含まれないことから来る推定でして、日本でも(ハイドン学者ではない)近衛秀麿氏が既に気づいていたふしがあります(近衛さんの『オーケストラを聞く人へ』に、エステルハージのオーケストラの編成表が出ています)。大崎氏の論拠も、同じところにあります。

で、続いて少し後の大崎氏の記述(途中の部分については最後に触れます)。
「私たちがさらに批判を加えなければならないのは、ハイドンのシンフォニーのバスは、なるほど自筆スコアには『Basso』と書いてあるが、これは『通奏低音』と考えてよいのか、という問題であり、そしてこれは、『通奏低音』とは何か、という根本問題を改めて考えなおすことにつながるであろう。ホグウッドは(中略)コーネル大学のウェブスターを顧問にしてハイドンの全曲録音に取りかかっている。これによってようやく、ハイドン学者たちの十年来の主張が取り入れられて、チェンバロが追放された。」(同書29-30頁)

これは、上のホグウッドの演奏にピアノフォルテが通奏低音として用いられていることから見れば、明らかに勇み足でしょう。大崎氏自身がそのあとにエステルハージ家のオーケストラの編成を論拠にしているので、エステルハージ時代に限って、という断り書きは必要だったのです。そして、お聞きのように、ホグウッドはこの、中断してしまったプロジェクトのための録音で、エステルハージ時代よりあとの「奇蹟」にはピアノフォルテ(当時はチェンバロだのクラヴィアだのと、いろいろに表記されたのだ、と、ものの本にあります)を「通奏低音」に用いているのです。

では、通奏低音とは何なのか、ということについては、大崎氏はこの本では、少なくとも私の理解できるような回答はどこにも述べていらっしゃいません。
ハイドンのシンフォニーについては「チェンバロは入らなかった」ということに固執しながら、別の個所で、氏は

「・・・ハイドンやモーツァルトのシンフォニーには初めから数字(註:いわゆる数字付低音のことで、「通奏低音」を表記するもの、とされてますが、「通奏低音」とは何か、の問題が解消していない以上は、これは「書かれたバスに対して、どのような和音がどのような配置でなされるかを簡便的に示し、奏者に即興的な便宜をも図る記譜法の一種」程度までしか言えないでしょう)などは記されていないばかりか・・・(後略)」(167頁)

と述べた箇所の注釈に

「数字の有無はチェンバロ参加の是非に関して決定的な問題ではないことを付記しておく。」(170頁)

なる文言をわざわざ記してさえいらっしゃいます。

「では、Bassoとは、いったいなんなのか? 単声で奏される低音なのか、和音を付した低音なのか、そもそも通奏低音と同義語なのか違うものなのか?」

そう問いたくて何度も本書をめくりましたが、私の小さい目ではそんな疑問への答えはどこにも見出すことができません。
したがって、推測するしかありません。
大崎氏は、ハイドンのシンフォニアの低音の扱いがエステルハージ時代前後に決定的に変わった、と述べていない以上は「単声説」であるはずですが、和音を付したホグウッドの演奏が既に聴ける状態になっているにもかかわらず、ホグウッドの「奇蹟」演奏に対して何の否定もしていないうえに、「Basso」の意味についても宙づりのまま放置しているように見えます。すなわち、チェンバロを付した演奏を「噴飯もの」とこき落としながら、その論拠を正式にきちんと示しているとは言えない。



その後も大崎氏の見解が変わっていないのかどうか、は分かりません。
かつ、いろいろ引いては来たものの、ここで私は大崎氏批判を展開する意図は全くないことは、ご理解頂きたいと存じます。
引用して来た本は、16年前に書かれたものです。
そして、当時としては、極めて斬新なものです。
この書を初めとした大崎氏の一連の著作がなかったら、私たちは、それまで普通に耳にして来た音楽に、何の疑問も違和感もなく親しみ続けて来たでしょう。
ですから、こうした業績は高く評価されるべきですし、私の信頼しているかたの何人もが、大崎氏の記述には肯定的に注目しています。
(実際、私は「古楽」と謳っているものは、大崎氏のご著書を読む以前には全く好みではありませんでした。大崎著は、私にとって開眼の書でした。・・・かといって、それに媚びるつもりもありません。)
上のように湧いてくる素人疑問は、16年経った今、どのようなかたちかで解決されているのかもしれず、私はたぶん、たまたま、それを知らずにいるだけなのです。

だからこそ、こんな素朴な疑問に耐えられる、新しい見解が、またどこからか出てくるのを、私はとても楽しみにすることができます。

名前が出ていましたので、ホグウッドの「チェンバロ」を用いていない方の演奏をも、ちょっと聴いておきましょう。併せて、アンタル・ドラティがフィルハーモニア・フンガリカと録音した世界初の「ハイドン交響曲全集」に入れた、同じ曲の演奏をもお聴き下さい。こちらにはチェンバロが入っています。が、フィルハーモニア・フンガリカはいわゆる古楽団体ではありません。(ピッチの違いにはビックリなさらないで下さいね。)

※「夜」から、第3楽章のトリオ
・ホグウッド指揮 The Academy of Ancient Music(DECCA UCCD-2025)1990年録音
Hogwood

・ドラティ指揮 フィルハーモニア・フンガリカ(DECCA 425 900-2)
Hogwood

皮肉なはなしですが、チェンバロを用いなかったホグウッドの方がチェンバロ奏者であり、チェンバロを用いた方のドラティはチェンバロ奏者ではありません・・・。


L4WBanner20080616a.jpg


クラシックCD検索に便利!バナーをクリックして下さい!


sergjOさんの記事の便利なインデックスも是非ご活用下さい。

|

« 蓮見岳人さん参加CDご紹介 | トップページ | 見せない「工夫」 »

コメント

お久しぶりです。ふねです。
図書館で拝見しているため、音楽の方はまだ聴けていないのですが、とても興味深い題目だと思います。
実は、私自身、来年から本格的にインドでカルナティック声楽を学ぼうとたくらんでおりますので、とても身に迫る話題でもあります。少し本題からは逸れますが、日本で西洋クラシックをたしなむことは恐らく「普通」の範疇に入るし、そのプロ演奏家になることも割と常識内に収まれると思うのですが、きっとインド古典音楽となると「なんで??」となるのでしょうね。西洋中心イデオロギーというものでしょうか。
千住博という日本画家の先生をご存知でしょうか? 今はニューヨークを拠点にされている方なのですが(既に情報が古いかもしれません…)この方が、たしか光文社新書で「千住博の美術の授業」及び「千住博の美術の授業Ⅱ 美は時を超える」という本を書いてらっしゃいます。特に二冊目は、この問題を考える上で参考になるかもしれませんので、ご興味がありましたらぜひ。
私自身、日本人なのだし、今度帰ったら詩吟を学ぼう、などと思っていて、まあなんというか、複雑です。笑
この頃は学問等について悶々と、色々考えさせられることが多かったのですが、Kenさんのご本の引用を久しぶりに読むと、うん、そう捨てたもんじゃないよな、という気分になりました。ありがとうございました!

投稿: ふね | 2009年5月31日 (日) 15時08分

ふねさん、ご無沙汰です!
お変わりなくお過ごしでしたでしょうか?

日本でインド音楽なり東南アジア音楽の「プロ」というのは、仰る通りの目で見られる可能性は大きいですね。いまはもう、日本が西洋中心イデオロギーである必要はなくなっていてもいいのですが・・・長年培ってしまった固定観念というのは抜き去りがたかろうか、とも思います。西洋クラシックの日本人演奏家は、日本でしか演奏をしなくても「本物」になりすませますけれど(そしてなかには正真正銘の本物になれてしまう方もいらっしゃるのだけれど)、距離の近い国々の音楽を「本物」として演奏する日本人のほうがうさんくさくみられる可能性大、というのは、まったくもって不思議な話です。・・・その理論体系の難しさも原因しているのでしょうけれど。

千住博さんですか、すみません、世界が狭くて、存じ上げませんでした。光文社新書ですね! 必ず読んでみます!・・・って、最近積ん読が多くて・・・ホントはこんな記事を偉そうには綴れないのです。(^^;

学問をすることは、楽し、です。
楽しんで下さい。
詩吟も。

インド音楽との類似点なんかめっけられたら、いいかも知れないなあ。
それが偶然の一致であっても、東洋的なものの特徴を示すなにものかとして、大きな意味を持つようになって行くかもしれませんし。

今、当方、縁あってお囃子に夢中です!


投稿: ken | 2009年5月31日 (日) 19時20分

千住博さんは、作曲家の千住明さん、ヴァイオリン奏者の千住真理子さんの一番上のお兄さんだったような・・・
本題に関係なくてすみません。

投稿: gatto-rosso | 2009年6月 8日 (月) 09時47分

gatto-rossoさん

あれま、そうでしたかー。
昨日今日と本屋を覗いたけれど、ありませんでした。
宅配便で勝っちゃうと読まないからなー。明日も探してみますー。

投稿: | 2009年6月 9日 (火) 00時23分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「学説」はどこまで参考になるか:

« 蓮見岳人さん参加CDご紹介 | トップページ | 見せない「工夫」 »