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2009年5月22日 (金)

「古楽」は古楽にあらず・・・屁理屈概略

蓮見岳人・阿部千春デュオリサイタル(リュート&バロックヴァイオリン)、是非お出掛け下さい。
最新情報は追加でお知らせします。



「古楽」は古楽にあらず・・・ということの裏には、「モダン」はモダンにあらず、というへりくつもひそむのですが、歯に衣着せてものを言います。
なおかつ、こんなタイトルにしたにもかかわらず、「古楽」とは何であって、「モダン」とはなんなのか、ということにも触れません。
しかも、材料は科学の本です。
「え、なんで?」
と思われてしまうでしょう。
・・・だから、へりくつなんです。へりくつだから、これでいいのだ。

Arienaiご紹介するのは、わりと読み易い本です。
『ありえない!? 生物進化論----データで語る進化の新事実/クジラは昔、カバだった』
(北村雄一著 ソフトバンク サイエンス・アイ新書SIS-088 税込1,000円 2008.11.24)

なんで「クジラは昔、カバだった」なんてことが言えるのか、は、本書のいちばん最初にある話です。
が、これは読んでいただいてのお楽しみとしましょう。
この本の「はじめに」に、まず、とっても大切なことが言われています。引用します。
「『科学は論理的なものである』。このようにいう人がいる。それはおよそ正しい。しかし、こういう人もいる。『論理的であるのだから科学的である』。これは明らかに間違いだ。論理は科学の専売特許ではない。」(以下略、p.3)
この後、著者は、論理だけでは科学は成り立たない例を簡単に上げています。しかし、それを読むまでもなく、まず、引用文は論理的に正しいのです。とはいえそれを言い出すとキリがなくなるので、これについては高校の数学の教科書ででも復習なさって下さい。
あと少し引用します。
「論理的だから正しいと素朴に主張してしまうのが、むしろ問題だといえる。(中略)自分たち自身の思い込みとは裏腹に、私たちの世界はほとんど仮説で構築されている。」(p.4)
「科学の世界では論理だけではない、仮説の検証が激しく行われている。自然の仕組みを探求すると決めて以来、科学者たちはざまざまな仮説を構築してはそれを破壊してきた。破壊が目的なのではない。仮説が壊れてしまうのは、もっとよりよい仮説を探しだすことに成功した結果である。彼らはこうして自然界の仕組みを解き明かしてきた。」(以下略、p.5)

「はじめに」の後、著者は4章にわたって、生物の進化を巡り繰り広げられた多様な仮説と検証のありさまを、平易で印象深く例示し、読み易く述べてくれています。



で、音楽。とりあえず、クラシック。
この世界で「クジラは昔、カバだった」ことについていろいろな仮説を立て検証している人たちを、私たちは一律に「古楽」奏者と呼んで、疑うところがありません。古い音楽を、復元した古い楽器という道具で演奏するからのようです。でも、そうした人たちの試みていることをちょっとでもよく眺めて見ると、彼らを一律に「古楽」奏者という箱に詰めこもうとするものの見方の妥当性を疑いたくなります。
生物学の方で「クジラは昔、カバだった」ことを検証する人は、「古生物」学者と呼ばれるとは限らないでしょう。古い生物と今の生物の関連性を調べることは、生物の運動や遺伝という現在的な目的のためにも充分に有用性を持つことだってあるからです。
その上、「古楽」奏者、と括られている人たちの中には、むしろ20〜21世紀の音楽までへも積極的に取り組む人が、少なからず存在します。今の作曲家もまた、復元された「古い楽器」のための新作を生み出し始めています。
一方で、「モダン」と胸を張っている人たちのクラシック音楽に対する臨みかたの方が、多様性に乏しい印象を受けるのは、私の錯覚でしょうか?
自らを「モダン」と称しながら、「はい、古楽の要素を採り入れました」と仰るから、何事かと思えば、「ノンヴィブラート一本槍ぃ!」とやることでマーラーからフルトヴェングラーあたりまでの「保守的な」音楽観を打破したと標榜するか、あるいは正反対に「ノンヴィブラート、くそくらえ!」とカラヤン以後の審美眼を守ることに使命感を持つか、のいずれかでして、選択肢の幅が非常に狭いような気がします。・・・アマチュアは、これらの点では「ノンヴィブラート」奏法の好き嫌いを個々人が持つかどうかに関わらず、「ノンヴィブラート」奏法ってどうするのかについては、「正しい」情報を得られないまま、「ヴィブラート」奏法に頼って演奏するしかないのが、大多数の現状です。
こうしたあたりを、科学の方法に照合すると、どうなるでしょう?

再び『ありえない!? 生物進化論』を覗いてみましょう。(文意を鑑み、句点を一部別表記に改変)
「科学は宗教ではないのだから、真理に安住することはない。(中略)仮説はダメになるから、すべての仮説がダメなのだ・・・この発想は間違っている。もしそうなのだとしたら、どうせ私たちはあとで考えなおすのだから、考えることはすべて間違いだということになるだろう。真理に安住したいとは、なんのことはない、手もちの仮説で満足し、それ以上の理解をやめるということに等しい。」(p.192)

ノンヴィブラートという仮説の是非のみに拘泥すること(すなわち、それをプロパガンダとすること)は、この文の記述に沿って考えるならば
「結局はどっちも誤りなんだけど、音楽だから、どっちかにしておくのが正しいのだ」
みたいな感じで、これがまず非論理的だし、態度として非科学的なはずなのですが・・・「音楽だからこれでいいのだ」とは、今の私のへりくつが「これでいいのだ」と言ってしまっているのと同じように、「これでいいのだ」と言い切れるのでしょうか?
(なお、「ノンヴィブラート」なる用語をプロパガンダ的に使うのは「モダン」の箱の中のかただけがなさっていることですから、この言葉は「古楽」の箱の中の人は、もしそう自覚なさっているのだったら、奏法用語として以外には用いることが原則として出来ません。箱の中で、「科学的な」方法によって分類が進んで行けば、話は変わるのかも知れませんが。・・・でもって、こんなつまらん話は、「古楽」って箱しか自分にはないの? 変なのー、と思っていらっしゃる方には、別段どうってことはないはずです。このブログで採り上げて来た面白い例では、本当に明確に意識して「ノンヴィブラート」を標榜しているのはノリントンくらいなもので、彼だけが周到に計算をしているかのように見受けます。さて、ここで問題です。ノリントンは「古楽」・「モダン」どっちの箱に自分を入れているでしょう? くどいですが、彼はそれを<意識的に>やっています。ヒント:アーノンクールは「全く反対側に見えるように」振る舞っているかと見せかけながら、ずいぶん意識的に、自分を「宙ぶらりん」にしているみたいです。日本における知名度ではこの二人が両横綱ですが、実は、ノリントンとの対比に適切な指揮者はアーノンクールじゃありません。知ってる人は知ってる人ですけれど。)

ちなみに、オーケストラ音楽に限って言っても、マーラー〜フルトヴェングラーの世代は、彼ら自身が保守的だったのだ、とは、彼らの多様な思考錯誤の痕跡が残されていることからみると、否定されなければなりません。
マーラーによるベートーヴェンやシューマンの交響曲のスコアへの手入れをはじめ、フルトヴェングラーあたりまでは、各指揮者が各指揮者独自の「仮説」を持つことを是とし、積極的に他者と別の仮説を立てて響きを構築するのが常識でした。ついでにいらんことを付け加えれば、これらの世代は「ノンヴィブラート」の是非については関知していません。(ヴァイオリン教師たちはそうでもなかったようですが、これもヨアヒムにまで遡れる録音を聴く限り、教育者がどう言っているかと演奏者がどう弾いているのかについては、巷で一部の人が言っているほどの相関関係を見出せるほど有力なデータも、その蓄積もありません。)
そして「保守的」という箱に括られたこれら過去の指揮者たち(あるいは演奏家全般)の方法は、19世紀末から20世紀初頭にかけての科学の方法と軌を一にしたものだったとの感触は、たとえばフルトヴェングラーの『音と言葉』とバートランド・ラッセルの『哲学の諸問題(邦訳題名:哲学入門)』(ちくま学術文庫所載の2005年の高村友樹訳が、最も読み易いものです)を読み比べることからも得られるはずです。
さらにまた、とくにラッセルが前掲書で1911年には述べてしまっていたことが、今回ご紹介した『ありえない!? 生物進化論』では、いっそう噛み砕かれた姿で記されていることもまた、明確になりますから、この読み比べは、お時間が許すなら是非試してご覧になって頂ければと存じます。



歯に衣着せ過ぎましたかね?

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