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2009年5月 7日 (木)

ハイドン伝(ガイリンガーによる):2(1740-1749)

01・2(今回)



ウィーンへ行ってからのヨーゼフ(=ゼッペルル)は、甘言で連れ出されながらも、とくに後半期は恵まれた環境にあったとは言えませんでした。
初めの頃こそ、彼は飛び抜けた美声でマリア・テレジアにその歌いぶりを気に入られはしたものの、このころから伝記に見え隠れする悪戯心で、他の合唱少年と一緒に宮廷の庭の小山を駆け上って叱られた翌日、懲りずにまたひとりだけ同じところをよじ上り、しかも登頂に成功して歓声を上げたところを女帝(正確には彼女は女帝ではありませんでしたが)に目撃され、彼女に命じられた家宰から激しい折檻を受けたりしていたようです。
また、ゼッペルルをスカウトしたロイターにしても、個人的な超多忙スケジュールで合唱団員への教育もなおざりであり、ゼッペルルだけでなく、合唱団員の誰もが、満足な専門教育を受けたわけではありませんでした。それでも、幼い子供達はそれぞれに精進し合って、音楽の素養を磨き上げていたようです。大宮著「ハイドン」(1981 音楽之友社)で補足しますと、ハイドンはマッテゾン「完全な楽長」やフックス「グラドゥス・アド・パルナッスム」(後述)の勉強もしているのだそうですが、それはロイターの元を離れてからではないか、とラールセン(有名なハイドン研究者のひとり)が述べているそうです。大宮氏もそれに同調しています。
ゼッペルルについてガイリンガーが上げているエピソードでは、少年がサルヴェ・レジナに12もの声部を書いて見ているのを目撃したロイターは、ヨーゼフ少年を嘲笑し、
「オバカサン、おまえさんにゃ2声で充分なんじゃないのかい?」
と冷やかしたとのことです。
それでも、とりわけ、シュテファン大聖堂やシェーンブルン宮殿で自らが歌ったり他の人々が演奏したものを聴いたことは大変勉強になった、と、晩年のハイドンは述懐しています。それらの作品は、カルダーラ、フックス(パレストリーナ様式対位法の古典的な著書で有名ですが、彼自身はじつはその著「グラドゥス・アド・パルナッスム」から想像されるものよりは遥かに自由な作風を持っていました)、ヴァーゲンザイル、ボンノら、当時一流の作曲家たちの手になったものでした。

勉学は別としても、また、ロイターの扱いのぞんざいさ(これはロイターに100%の責任を押しつけるわけにはいかないでしょうが、彼自身もそこそこの定収入を得ていたことや、彼の妻テレーゼ・ホルツバウアーがウィーンでは当時最ももてはやされたソプラノ歌手で稼ぎも決して悪くなかったことも併せて考慮しますと、すくなくともロイターには少年たちの面倒身役としてはなんらかの人間的な欠陥があったのではないか、と、私など、ふと感じてしまいます。ただし、私は耳にしたことは無いのですが、ロイターの作品は当時の人々からは絶賛を受けたそうで、宮廷作曲家としての使命感と少年監視業とは両立しがたかったのかも知れませんね)を度外視すれば、ウィーンは帝都なりのきらびやかさと、表面だけにとどまらない豊かさで、幼ハイドンの好奇心を強く煽ったようでもあります。ただ、そのあたりの詳細については、私の手元資料では確認出来ません。大宮著はガイリンガーのハイドン伝の当該章の冒頭部をそのまま翻訳することで、ハイドン少年が受けたであろうウィーンへの新鮮な思いを代弁しています。私の本記事の方では、したがいまして、部分を含め、翻訳はせずにおきます。

1745年、ゼッペルル少年は変声期を迎えます。
同じ年、5歳年下のミヒャエルが・・・いきさつは分かりませんが・・・兄と同じシュテファン大聖堂の聖歌隊員となります。最初は得意げに弟にウィーンのあれこれを教えていたヨーゼフですが、どうも、ヨーゼフの最盛期に比べミヒャエルの美声の方が優れていたのでしょうか、それとも兄と違って品行方正(だったようで、成人してザルツブルクでアル中になった後年のミヒャエルの姿は1745年時点では想像もつきません)だったからでしょうか、声変わりで使い物にならなかった兄に即座に取って替わってソロを歌わせてもらえるようになり、しかも1748年(11月15日のレオポルト祭の折だそうです)にサルヴェ・レジナの独唱をした際にはマリア・テレジアから24ダカットの金貨を褒美に与えられたりしています(ちなみに、このお金を預かったロイターは、ミヒャエルの退団の際にこのお金を返さなかった、という話も伝わっており、ロイターの人格にはさらに嫌疑が加わります)。
有名なエピソードがふたつあります。
ヨーゼフの方は、聖歌隊にとどまるためにカストラートとなる目的で去勢手術を受けさせられるところでしたが、話を聞いて慌ててすっ飛んできた父によって手術を阻止されています。その後のカストラートの衰退を考えると、父よ、あなたは偉かった!
もうひとつは、ヨーゼフがシュテファン大聖堂から追い出されるときのものです。
ふざけ心から、前に立っていた団員のお下げ髪を切ってしまい、ロイターに
「こんなことをして・・・折檻を受けるか、この聖堂から出て行くか。どちらかだ!」
と睨みを利かせられ、
「折檻を受けるくらいなら寺院を出て行った方がマシです」
とこたえたヨーゼフを、ロイターはひどい折檻も加え、そのうえで裸同然のヨーゼフをウィーンの町中に追い出した、という話。
以後、このとき17歳のヨーゼフは、ほぼ11年間にわたって、流浪に近い生活を送ることになります。

ロイターはとても残酷に見えますが、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがコロレード大司教と訣別したおりのエピソードや、ルソーの「告白」に現れる類似の場面をみますと、この時代の若者に対する世の中の考え方としては、ロイターの態度は、ごく一般的なものだったとはいえるのです。悲しいですけれど。
より詳しくは、いつも同様ご興味に応じ、ガイリンガーの原書によって頂ければと存じます。


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