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2009年4月20日 (月)

シューベルト「ザ・グレート」二つのライヴ 付:能の謡の音域

齋藤友美賀ヴァイオリンリサイタル(2009年4月28日、市ヶ谷にて)、是非お出掛け下さい。



最初に、「グレート」のライヴの記録から、「古いものの復興を目指した」新しいものと、「古いものの伝統を引き継いだ」ものを聴いて頂きましょう。第3楽章主部の前半部分です。

・ノリントン/シュトゥットガルト放送響(2001)
ノリントン/シュトゥットガルト放送響
haenssler CLASSIC CD 93.044

・フルトヴェングラー/ウィーンフィル(1929)
フルトヴェングラー/ウィーンフィル
ADD 223508 321

・・・思いのほか、似ていませんか?
・・・ただし、少なくとも一点を除いて。



Soumei_2佐藤聰明さんという、大変面白い作品を書く作曲家が、ご著書の中で、だいたいこんなようなことを述べていた、と記憶しております(嘘八百だったらゴメンナサイ)。

「アジアの音楽がポリフォニーにならなかったのは、発声法の面白さが多声化によって妨げられることが良しとされなかったからだろう」

アジア全般は分かりません。
日本人が西洋音楽を初めて聴いた時にどう感じたか、は、どこかで目にしたような気がするのですが、手元の資料を引っ張っても、日本人側からの記録が見つかりません。フロイスの記述に、
「日本人にとっては、われわれのすべての楽器は、不愉快と嫌悪を生じる」(「ヨーロッパ文化と日本文化」岩波文庫 1991 173頁)
とあり、また、ヴァリニャーノの記述に
「我等の声楽や器楽は、通常彼らの耳には煩わしく聞こえ・・・」(千葉優子「ドレミを選んだ日本人」音楽之友社 2007 17頁による孫引き)
とありますから、まずは、私たちの先祖はヨーロッパ音楽を快しとしていなかったことが分かります。

片や、欧米側の耳に響いた日本の発声は、やはり欧米人には快くなかったことが、フロイスやヴァリニャーノの記述からも分かりますし、ジャポニズムに火をつけたピエール・ロチが実体験を元に書いた小説の数々にも、日本人の歌う歌や奏でる三味線が耳に馴染むまでに相当苦労したさまが描かれていたりするようです(内藤高「明治の音」中公新書 2005参照)。

日本には日本の歌い回しがあって、その縁源は謡曲にききとれるのではないか、と私は思うのですが、謡(うたい)には基本的に弱吟(よわぎん)と強吟(つよぎん)という発声の区分があり、

・弱吟は4度幅(テトラコード)の音程の積み重ねによる2オクターヴの音域を上下するものの、真直ぐな息で声をふるわせないもので、上品な役柄に使われます。(テトラコードはd音【下音】から下5度、g音【中音】までの上4度、中音からc'音【上音】までの4度、上音から上へ5度と、下と上は広めにとられるようです。

・強吟は力強さ、喜びの表現で、声を激しく揺さぶるのですが、音域はほぼ1オクターヴにおさまります。(下音を「下の中音」とも称しますが、もともとは古代ギリシアのテトラコードと同じように、この二つは微妙に違う音程でしょう。f音が中音であると同時に上音ともなりますが、これも同じです。)

・・・という具合で、聴いていると、テトラコードの音が西欧音階のようにはっきり区切られるよりは、音程と音程の間を滑るようにして声が動きます。音程感が極めて抽象的な能管(笛)も、同様に聞こえます。

では、西洋音楽は、対照的に音程を明確に区切ることで成立しているのかというと、これを究明するのはおそらく非常に困難です。

ただ、幸いにして録音の残っている19世紀後半の伝統を引き継ぐ演奏では、ポルタメントを多用しているさまが伺われるのでして、ヨアヒム、アウアー、サラサーテらのヴァイオリンの録音で、このことが明確に確認出来ます。この伝統を継ぐ最後のひとりが、エルマンでしょうか?
ですから、19世紀後半には、少なくとも、ポルタメントが愛好されていた、と考えてもいいでしょうし、このことは自作の厳密な演奏を期待したマーラーが、交響曲のスコアにしばしばポルタメントを掛けるべき箇所を明示していることからも伺われると思います。

19世紀中のポルタメント各論に関してはClave Brown "CLASSICAL & ROMANTIC PERFORMING PRACTICE 1750-1900" (OXFORD 1999)に頻出しますが、いまはまとめることが困難です。一つだけ言えることは、ポルタメントという表現方法は、少なくとも後期ロマン派を特徴づける奏法の重要な一つではあったものの、それ以前においてはどの程度用いられたのかは私には分からない、という程度のことに過ぎません。

推測であり、根拠のない仮説に過ぎませんが、ヨーロッパ音楽におけるポルタメントは、能楽の謡における「弱吟」に類似するものであり、これを多用した19世紀後半にはヴィブラートの使用が控えられたことと、もしかしたら密接な関係があるのではなかろうか、との気がしてなりません。

・・・こんなことを記したのは、今回聴いて頂いた2つの演奏の差(ヴァイオリンのワルツ的なメロディの部分)をどう考えて演奏するかということについては、私たちは私たちの責任において選択しなければならないし、この点において2つの例はテンポも表現も(思いがけないほど)よく似ているにもかかわらず、

・時代的に新しいノリントンの方はポルタメントを採用していない

・フルトヴェングラーはポルタメントを採用している

違いがあり、フルトヴェングラーは明らかに後期ロマン派の先輩たちを意識した演奏をしているのである一方、ノリントンがポルタメントを採用していない理由はいまのところ明確にし得ませんので、この点、まだ「後期ロマン派」ではないシューベルトにおいては本来どうだったのか、を考えたければ、この辺はノリントンの採用した方式を含め、私たちはよくよく勉強をしなければならない、ということのみ申し上げておきたいからです。(クヴァンツは、たしか、ポルタメントの技術を身につけておくことの大切さについては記述していますが、多用を推奨するところまでのものではなかった気がします・・・確認します。)

かように、私たちは、歴史主義であろうとすると、大きな謎にぶつかります。
・・・いや、所詮、素人にはここまでしか分からない、ということであって(かつ、日本で、そのあたりの演奏法について明言した資料を、私の狭い視野ではまだ目にすることができません)、そのときどきの「現在」において「再現」されなければならない、という宿命を持った音楽においては、歴史主義への拘泥は、必ずしも望ましいものではない、と言ってもよろしかろうと思います(念のため申し添えますが、先日確認しました通り、本人のさまざまな発言にもかかわらず、ノリントンの根本は歴史主義ではないのだろう、と私は強く感じております)。

ただし、
「シューベルト当時の楽器が、いかにしたらいちばんよく鳴るか」
の究明は、「現在」という時程において「過去」の精神に触れるという意味では、体感を伴うが故に、非常に優れた方法なのではないかと思います。
そうしたサンプルとしてアニマ・エテルナの演奏をも、私たちは耳にしておく価値があるかも知れません。
(<古楽器>が脆弱である、というのは、年数による劣化という条件以外には根拠がなく、レプリカであれば現時点で相応の丈夫さを持っていますが、残念なことに、いい以後著書の中にもこの点への偏見は拭い去れていません。これはひとえに、私たちが歴史的な楽器そのものに触れる機会が殆どないというだけの理由によります。)

とはいえ、毎度のこんな屁理屈よりなにより、まずは私たちが、楽器が「昔のものであるか今のものであるか」を問わず、自ら「良い響き」を求めて演奏するなり、聴き手として音の渦中に身を置くなりして、無心に

「止まれ! おまえは美しい!」

と叫べるようであることが、もっとも幸いではあるのです。


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