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2009年3月 9日 (月)

ルネサンス仮説の見直し:曲解音楽史番外

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齋藤友美賀ヴァイオリンリサイタル(2009年4月28日、市ヶ谷にて)、是非お出掛け下さい。


過去の音楽史関連記事はこちらの「曲解音楽史:総合リスト」からご覧頂けましたら幸いです。


ようやく羅和対訳のヨハネス・ティンクトリス(1435?-1511)『音楽用語定義集』(シンフォニア社、1979、原書の刊行は1494頃)を目の当たりにして、数日来気になって仕方がなかったのですが、意を決して手元に置くことにしました。(AMAZONのリンクでは高価ですが、運良く楽譜店等で見つけられれば3,360円で入手できます。)
ところがこの書物、見かけ上の文の平易さからは想像がつかないほど難解な書物であることに気づきました。現代の「常識」では読めない。音楽の「基礎」理論が、現代とは全く違うのです。
同時に、翻訳者の中世ルネサンス音楽史研究会(磯山雅、金澤正剛、岸本宏子、高野紀子、為本章子、永田仁、正木光江、皆川達夫、村井範子の各氏)が本書後半に丁寧に綴って下さった解説を読んで、
「ああ、何でもっと早く、この本が出ていることに気づかなかったかな!」
と、正直なところ、大変な衝撃と後悔に心を占領されながら、まずティンクトリスの本文理解を断念し(ただし、今回の後半で、一例だけご覧頂きます)、この書の背景にある「音楽への思い」に注目することで、以前35節で述べた
「西欧のルネサンスは音楽においては文学より200年遅く訪れた」
との仮説を軌道修正する必要を感じました。


古代の復興、という現象面での実現は、たしかに1600年のペーリやカッチーニ、カヴァリエーリの成果を待たなければならず、そのことは本書の解説でも触れられているのですが、そこに至る水脈は、やはり15世紀には既に芽生えていただけでなく、音符の呼び方や記譜法、音楽作品の創作法、それらを貫く従来の価値観からのコペルニクス的転回というかたちで、まず「見なければ分からない」ようにして、徐々に準備されていたのでした。
その結晶の一つが、このティンクリトス『音楽用語定義集』に見られる辞典的叙述法なのだ、ということを、初めて知りました。

詳細に立ち入ることはしませんが、

・この「用語集」がアルファベット順に語彙を並べた初の「音楽辞典(事典)」であったこと

・いわゆる「天上の音楽(ムジカ・ムンダーナ)」・「人間の音楽(ムジカ・フマーナ)」・「道具の音楽(ムジカ・インストゥラメンターリス)」の中で、耳に聞こえることのない思弁的な初めのふたつには全く触れていないこと

・旋法の性格付けを全くしていないこと(ということは、中世の理論書ではそれを行なっていた、ということになるのですが、残念ながら一般向けに出版がなく、私の目にした狭い範囲では【古代ギリシアの、プラトーンのところで述べた通りで】文献への記載が見当たりませんでした。ご教示頂ければありがたく存じます。)

という3つの大きな特徴によって、ティンクトリスの音楽観はそれ以前のものと明確な画期をなしているのだと見なせるようです。
そして、こういう「以前の音楽との画期」は、彼の先人であるデュファイやオケゲム、ジョスカンについても、いろいろなかたちをとって見られるのです。

「・・・集団的な制作形態が独立した個人の創作へと変わってゆき、ミケランジェロにおいて、自己の想念にのみ忠実な近代的作家の発生をみる。これと同じことは、音楽においても、デュファイからジョスカン・デ・プレにいたる歩みの中に認めることができよう。デュファイはすでに個人的名声と芸術家としての自由をなにぶんか保持していたし、ジョスカンの矜持は、王侯をも手こずらせるほどのものであったと伝えられている。」(ティンクトリス訳書所載、「ルネサンス音楽への手引き」第6章 p.136、磯山雅筆)

「ルネサンスの楽曲は、閉じられた時間・空間の中にある。中世の楽曲は、テノールをめぐって、相互に有機的関連をもたない声部を任意に積み重ねた形をとり、声部を増やしても減らしてもよく、時間的にも長くも短くもし得るような、いわば開かれた構造のものであった。盛期ルネサンスにおいては、それぞれ自立しながらも相互に有機的な関連をもち、ほぼ対等にからみあう旋律が、閉じられた構造を出現させる。その変化を物語るもっとも重要な現象は、これまで一声部ずつ順次作曲していった多声音楽の書法が、各声部を同時に着想して仕上げる書き方に変化したいったことである。」(同上、139-140頁)

これらの説明するところを耳で確認するには、12世紀末の作例と、イタリアからは逸れるとはいえイタリアでの音楽実践抜きには存在し得なかったともいえる、広義のフランドル楽派の作例を聞き比べ直すだけでも充分でしょう。

・12世紀の作例:シャンスリエ「言いたまえ、キリストの真実よ」

Deller-Consirt,Londn (1961) deutsche harmonia mundi BVCD-38003

・15世紀の作例:デュファイ「星の創り主」

Tözer Knabenchor(1964) deutsche harmonia mundi BVCD-38007


さらに興味深いのは、これまで五里霧中で追いかけていた、固定ドと移動ドの問題が、ティンクトリスの記述(私にはまだ直接読み取れる力はないので、上と同様に解説を頼りにしますが)からは明確に区分して捉え得るという事実です。・・・これは、このところ急激に「固定ド」教育オンリとなってしまった日本の音楽教育が、実は西欧の伝統を無視し、教え方だけは自らの伝統音楽に回帰してしまった、端的に言えば国粋主義的な側面を持っていることをあぶり出してくれます(日本、またその音楽理論構築に大きな役割を果たした中国の音楽理論は、「固定ド」と同じく、特定の音高に特定の名前を固定して与えるものです)。

・・・つまりは、西欧の動きを素直に取り入れる演奏より、和風に解釈し直した演奏が主流になりつつある、ということです。

創作面でも、日本風のものの融合を目指した山田耕筰や近衛秀麿の初期の洋楽導入者たちと比較した時、その流れを汲む團伊玖磨・芥川也寸志と並立して活躍した黛敏郎以降、とりわけ武満徹以降にあってはむしろ、洋楽という道具を使った邦楽の(もしかしたら無意識的な)確立・・・それも、どちらかというと非大衆的なそれ・・・を目指しているかのように見えるところに、日本音楽が19世紀末に盛んだった民族主義的クラシックとは別の道を歩んできていることがはっきり刻印されているように見えます。

これは東洋においては、日本に限らず、イ・ユンサンに代表される韓国音楽にも、あるいはハリウッドで活躍することになったためにやや異なった傾向を示しているかとも思われる中国系のタン・ドゥンの創作方法にも現れており、単純に「破壊された調性音楽としての無調音楽」を輸入したと見なすのは妥当ではなく、無調化され、非相対化された(すなわち、絶対的に限定された名前を付された)音を自己の伝統に沿った音楽に変容させて消化して来たことの現れであると捉えることも出来るように思われます。
これらはまた、ヨーロッパの伝統とは実は似て非なる、日本人の嗜好に沿ったオーケストラのノンヴィブラート演奏の採用に、これも無意識的に繋がって来たものと思われます。・・・すなわち、それは、たとえばアニマ・エテルナがシュポアの「ヴァイオリンの学校"Violinschule"1832」を拠り所にしている、と明言して行なっているようなものと、特段一緒くたにして見る必要はない【しかもそれは、だからといって19世紀末から20世紀初頭のオーケストラの「ノンヴィブラート奏法」とは異なる、現代の演奏になっているのだ、ということとも、実は日本人演奏者や教育者が思っているほど直結はしていない、なぜなら日本人にとって、「ヨーロッパ音楽の復古」など、自前でやる限りは所詮外来文化に過ぎず、むしろ「日本人だからこうやっているのだ」と割り切ってしまった方が、余計な心配も要らない】・・・どう理屈付けて実施しているかは別として、日本固有のもの現象と考えてしまって差支えない・・・ものだと思われ、このことが東洋としての独自なあり方として一つの文化を確立し得るのかどうかは、後世の目(耳)が決めることだと言って構わないはずです。かつて雅楽がそうだったように!

(ヨーロッパはヨーロッパの長い歴史の上で、奏法の変化をどう捉えてよいかに関する明確な記述は【少なくとも私たち一般人が手に出来る範囲内では】希少ですが、それは日本の中の史料に日本の伝統音楽の唱法・奏法が出て来ないのと事情は同じでしょう。「梁塵秘抄」の現存部分を読んでも、12世紀に今様がどう歌われていたかは見当もつきませんし、催馬楽や神楽歌にしても、歌い方そのものは口伝ですから【そうした稽古の様子は九条兼実の日記「玉葉」に息子が催馬楽のレッスンで師の来訪を受けている様子を描いた数箇所の記述からも窺われます】、古譜以上のものは、文字史料としては残っていない。そしてその古譜には、口伝を受けたものにしか分からない唱法に関する専門用語以上のものは現れないのです。面白いのは・・・これは音楽に特化された書籍しか読まないかたが目にしたことは無いと思いますが、信長や秀吉時代の日本をつぶさに目撃したイエズス会士ルイス・フロイスが1585年に記した『ヨーロッパ文化と日本文化』【岩波文庫に翻訳収録】には、こんな一節があります。「ヨーロッパの国民はすべて声をふるわせて歌う。日本人は決して声をふるわせない。」・・・彼の言う「ヨーロッパの国民」がどの範囲を示すかには注意がいりますが、イエズス会の性質から、すくなくともスペインとイタリアにおいて、広くみればガリア圏においては、歌うことに関してはヴィブラートをつけて歌われることが普通だったのではないか、ということがこの記述から伺われますと共に、ここで対象とされている日本の歌は謡曲であるらしく、謡曲には演歌で言う「しゃくり」のようなものは存在しますから、「しゃくり」のような謡い方は、彼の耳には「声をふるわせる」ものとしては聞こえなかった、という事実もあぶり出されます。訳書173頁と注を参照のこと。)


さて、もっぱら方法としての「移動ド」・「固定ド」等の読譜の仕方を総括した呼称として現代に定着しているソルミゼーションですが、ティンクトリスの記述は、少なくとも現代のソルミゼ−ションに固執すると全く理解できることが出来ません。
たとえば、冒頭のAの項目の最初からして、こんな記述があります。

A est clavis locorum are et utriusque alamire.

対応する訳は、このようです。

aとは、aレ(are)および2つのaラミレ(alamire)にあたる位置(ロクス)の音名(クラヴィス)である。
(estは、英語のisに当たる、ラテン語の動詞。)

これをもう少し噛み砕いて読むと、

Aという音名は、当時認められていた3オクターヴの音階(ヘ音記号のいちばん下のAからト音記号のいちばん上のEまで)よりも下に位置するΓ(ガンマ)音(G音のオクターヴ下)をut(ど)と呼んだ場合に「れ」と読まれる音の音名であり、そのオクターヴ上、またさらにオクターヴ上の音の音名である・・・これがaラミレの位置であるとされるのは、ふたつ上のC音を「ド」と呼んだ時には「ラ」に当たる位置となり、F音を「ド」と呼んだ時には「ミ」に当たる位置となるからである。

ということになりますが・・・ちんぷんかんぷんでしょう?

一つの音Aを規定するのに、なんでこんな回りくどい言い方をしているか、ということには、ティンクトリス当時(15世紀半ば)のソルミゼーション(ティンクトリスの用語集の中ではSolfisatio)がどうであったか、が反映されています。それが理解できると、これは非常に厳密な定義であることが分かります。(ここにはさらに、B音がフラット化【下降導音化】されることがドリア調とリディア調で通例化しつつあったことへの暗示もみてとれます。それは、F音を「ド」とみたときのA音が「ミ」であるということは、A音はその上のB音とは半音の関係にあることを示唆しているからです。時代的には、それ以前のグレゴリオ聖歌でも既にこの傾向ははっきり見られ、最も有名な例は、レスピーギが「ローマの祭」に一部を使用したリディア旋法の「クレド」ではないかと思います。)

すなわち、utとかreとかmiとかlaとか呼ばれているのは「ドレミファソラ」を相対的な位置で呼んだ場合の音の名前=「階名」であり、グイード・ダレッツィオ(995頃-1050)の整理によって、これは音のスタートがどこであっても、それぞれの相対的位置関係が守られる、すなわち「移動ド」の読み方に当たるものである、ということを、まず理解しておかなければなりません。
その相対的な位置の読み方は、歌を階名唱する時に、半音のある部分は「ドレミファソラ」の6音(ヘクサコードと呼ばれます)の中央に置いた「ミファ」に読み替えなければならない、という慣習が定着していたからでして、グイードが洗礼者ヨハネの讃歌から思いついたヘクサコードのut-re-mi-fa-sol-laという階名唱は、まだ「シ」を持っていなかったために、曲の旋法が入り組んだ時には、半音の位置に応じて、半音の一を基準に、ut-re-mi-fa-sol-laの読み替えがなされなければならなかったからです。

現在の長調や短調が「移動ド」の場合では主音によって「ド」の位置を変えるのとは少々性質が違いまして、同じ教会旋法でも、たとえばフリギア調の歌唱がオクターヴあるいはそれ以上の音域にわたる場合、たとえば現代なら
「ララソラドシラソラ|ラソファレミ」(「ラ」をA音とする)
と読むところを、半音を「シ・ド」で表わすことは出来ませんから、前半に存在する5、6音目の「ド・シ」を「ファ・ミ」と読まなければなりません。したがって、上例はグイードからティンクトリスの時代にあっては、
「(G音を「ド」と読んで)レレドレファミレドレ|(C音をドと読んで)ラソファレミ」
という読み方がされたわけです。

分かりにくくて恐縮ですが、すなわち、ティンクトリスの用語集は、グイード以来の階名唱を前提にしたときには、当時の人には(まあ、決して平易ではなかったでしょうけれど、一度納得できてしまえば)
「ああ、そうか、上の半音の位置と下の半音の位置の両方から見て、この音が、ABCDEFGの名前で呼ばれたときの<絶対位置>としてのAになるわけね!」
と、物差しで測るようにして判明し、しかもその位置が他へ移動しないのだということをも理解し得た、というからくりです。

いずれにせよ、ティンクトリス当時までにはソルミゼーションは「移動ド」式だった、なぜならば、ヘクサコードの体系の中では音名(ABCDEFG)と階名(ut-re-mi-fa-sol-la)は併存しており、歌の訓練の中では音名唱よりも階名称の方が便利だったとはいえ、階名はその半音の位置を「ミ・ファ」で読まなければならなかったために、半音が上にあるか下にあるかで「ミ・ファ」と読む音の高さを変えなければならなかったからだったのである、ということが、ティンクトリスの用語集から読み取ることが出来るわけです。

文字での説明は私のような素人には、いま、これ以上簡便に出来ませんので、これは先ほど引用した磯山さんの解説を第6章とする、「ルネサンス音楽への手引き」第3章(高野紀子氏筆)をお読み頂くのが、類書に比べて格段によく分かってよろしいかと存じます。


音の表現という意味での「ルネサンス」は、1600年になってやっと耳でも確認できるものになったのではありますが、それだけでは「見落としてしまう」、ダンテの「神曲」やペトラルカの書簡などと同じような世界観の転換は、音楽にも確かにあり、それは、作曲法の変化にも現れているとはいえ、単に音楽家たちの地位が上昇したというところにではなく、神学との関係から「思弁的で難解な学問」であった中世音楽理論を、ティンクトリスのような合理的な「音組織の観察と記述」によって、あたかも自然科学が「創世記」から切り離されたのと軌を一にするかのように、神学につきまとったプラトニズムから脱却し、実技的なものへと特化されたところにあるのでして、やはり私たちは、オペラ誕生前夜に既に地道に進行していた「音楽のルネサンス」を見据えておかなければならず、音楽についても、私たちの当時の文献読解がもっと一般的に進むべきなのではないか、との思いがひとしおです。

・・・ま、アマチュアがこんなことを考えても、所詮は「オタク」なんだそうですけれど。
・・・それはそれでもよろしかろうと思います。


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