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2009年3月20日 (金)

「モーツァルト・レクイエムの悲劇」:書籍紹介


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・・・是非、お目通し下さい。


齋藤友美賀ヴァイオリンリサイタル(2009年4月28日、市ヶ谷にて)、是非お出掛け下さい。


書籍「金沢城のヒキガエル」、記事をお読みになってお気が向くようでしたら、どうぞご一読下さい。



Opusultimumこの本は、研究書ではありません。
著者、ダニエル・N・リーソンが、最初のはしがきで、読者に対して宣言していることです。

「本書には脚注もなければ、さらに詳しい引用、参考書、引用文献、図、図表、索引、ケッヘル番号も付けていない。音楽理論に関する詳細な知識は必要ない。」(p.2)

「語りの手法をとっている理由は、専門家向けの学術論文のようなもの(学術論文や専門家を軽蔑しているわけではない)ではなく、この話の内容を悲劇的だが、魅惑的な物語としてあるがままに、読んでいただきたいという願いから生まれたものである。このアプローチが、この話の複雑さを軽視したり、取り繕ったり、過度に単純化したりしていないことを望む。」(p.3)

このことで、読者には表裏の「読み方の条件」が与えられます。

「表(おもて)」の読み方は、本書を「エッセイ」として、身構えることなく一気に味わうこと。他のなにものをも・・・モーツァルトの本作の自筆稿だとか、それに基づいた・・・筆者の用語によれば・・・「現代のジュスマイヤーたち」の様々な校訂譜、専門家の研究一切合切を振り返らずに、リーソンの語りがあたかも「映画」のように私たちの脳裏を通り過ぎて行くようにする、という態度です。
そうすることによって、私たちは、モーツァルト自身のことはさておくにしても、彼の未完の遺稿を、それを取り巻いたさまざまな人物、とくに妻のコンスタンツェ、この作品を「モーツァルトのもの」として完成させるのに本当は最大の貢献をなしたジュスマイヤー、それを「自分の作品」と偽って演奏したかったヴァルゼック伯爵それぞれの、今日まで難解な研究の中で「輪郭がつかめなくなっていた」本来的な「悲劇」が浮き彫りにされるのです。
この中では、モーツァルト自身の姿は全くと言っていいほど必要とされません。
ただ、コンスタンツェがこの「レクイエム」の完成の経緯についての真実をどれだけ必死で闇に葬ったか、それは夫の死で、生活の必要から見違えるように人が悪くならざるをえなかった彼女にどれだけ手を汚させたか(著者リーソンはそんなコンスタンツェに好意的ではありませんが、ツレを亡くしたらどういう心の変化が起こるか、を経験した私には、著者がいくら彼女の行為を悪意をもって描いても、同情すべきものであるように感じられます。私にそう感じさせただけでも、しかし、リーソンは「エッセイ」形式で本書をまとめたことから来る効果をしっかり生かしていることを証明して見せていると言うことができます)ということ、ジュースマイヤーの筆がいくらモーツァルトに及ばなかったにしても、彼がいなかったらまずこの作品の存在自体が恐らくは闇に葬られたかも知れないということ、これらの営みがなければ、本来匿名の注文主であったヴァルゼック伯爵が「レクイエム」を世に知られぬ作品で終わらせたかも知れないこと、だけが、本書の「背骨」として必要最少限のことどもなのです。あとの細々としたことは、たしかに、読者には何も予備知識の必要がない。

「裏」の読み方。
研究を読みまくったりしてしまっては煙に巻かれてしまうような大切な事実についての記述は、「エッセイ」形式だからこそ自由に、あるいは気侭に書いても、研究者たちからは攻撃を受けることもなく、マニアからはやんやの拍手を浴びる、というふうで、リーソンのこの記述方法は、巧みな「追求回避」という点でも成功を収めているのです。
典型的な「事実」は、ふたつのことです。

ひとつは、ヴァルゼック伯爵は私たちの「常識」では、有名作曲家に「匿名で作品を提供させ、それを自分の作品として、自前のオーケストラに演奏させる」悪人になっていますが、真相はこの事実は彼が身近な人々の前でだけ自分の能力を過大に見せたかったというささやかなものでしかなく、とくに「レクイエム」に関しては、妻が20歳で早く亡くなってしまったために余計に思い入れがあった注文だった、という哀しい「人の性」。

もうひとつは、後年、とくにモンダーが過大視した「アーメン・フーガ」は、じつはモーツァルトの「試行錯誤の断片」に過ぎず、モーツァルト自身が完全に「レクイエム」を完成させていたとしても取り入れられていたかどうかは明確だとはいえない、という点です。

前者については研究論文が「ドラマチックに」触れるところではありませんし、後者については本書が「論文」の体をなしていたら、「アーメン・フーガ」教の狂信者にはすぐ袋叩きに遭うかも知れないことであり、そうでなくても断定的には言ってしまえないことでもあります(とくにモンダーとその信奉者、レヴィンという、「アーメンフーガ」補作者たちを前にしては絶対に口に出来ません)。



実は、リーソンの綴っている内容は、モーツァルト=ジュスマイヤー作「レクイエム」について、研究をある程度読み重ねた「マニア」にとって目新しいところは、何もありません。
ですが、「マニア」にとっては、「マニア」であるがゆえに「見落としていませんでしたか?」という強烈な問い返しをリーソンから受ける羽目に陥らせられる、恐怖の「エッセイ」でもあるのです。
リーソンの「エッセイ」を読んだ後で、たとえばロビンス=ランドンが、たとえばモンダーが、たとえばレヴィンが(それぞれが知る人ぞ知る優れたモーツァルト研究者でもあり、元祖ジュスマイヤーの稿を書き直した版を出したことで、「現代のジュスマイヤー」となっている人々でもあります)・・・これら錚々たる学者諸氏の述べていたことを読み返す時、どれだけ各自の主観から自由ではないかを思い知って、愕然とすることでしょう。重要な情報を私たちに提供してくれたという点では同列にある「現代のジュスマイヤー」の中で、なおかつ自分を抑制しながら論を進めるのを忘れずにいたのは、リーソンの文章の中にも時々その名前が現れるバイヤー、次いで、アーメンフーガのあまり過剰ではない補作を試みたレヴィンくらいなのではなかろうかと思われます。アイブラーの補作部分をジュスマイヤーのそれと入れ替える試みで成功したロビンズ=ランドンが、その「論」においては思いがけず結構主情的なことには、ちょっと驚きました。
もっとも、愕然とするためには、リーソンの記述を頭から湯気を立てずに読めるだけの冷静さが必要になるかもしれません。

リーソンが訴えているのは、まさに、モーツァルトの「レクイエム」については、みんなもっと頭を冷ませ、ということに尽きるのではないか、というのが、私の本書に対する印象です。

ザルツブルク時代のモーツァルトのミサ作曲法と「レクイエム」の構造が違う、とは、リーソンが断言しているようには決して言い切れないこと、あるいはモーツァルトが尊敬していたミヒャエル・ハイドン作のレクイエム(さらにはモーツァルトの「レクイエム」の補作者のひとりであるアイブラーが後年作曲したレクイエム)にも非常に創りの似た個所があること(アイブラーの件はBunchouさんのご教示により確認しました)、またヘンデル作品の吸収の痕跡も見られることなど、突っ込んだらキリがないほど、作品の性質には追求されてきた、あるいは続けて考察されるべき多様な側面がありはします。
ですが、そういう「重箱の隅」は、「論」と銘打っていない限りは「つつく」隙もありませんし、「つつく」必要性も、読者にはありません。

「論」をかけない人は本書を見倣い、リーソンほどの賢さを持つべきでしょう。

そう、これは文字で描かれた「映画」なのです。
モーツァルト(=ジュスマイヤー)作「レクイエム」は、従来の演奏のままでも人々に深い感銘と力を与え続けていることを綴り、その原型としての作者不明の小説を最後に置くことで、リーソンは本書を終えています。

「エッセイ」という形式の選択といい、自由度を獲得したストーリーの展開の巧みさといい、この「見せかけだけの自由」世界の中で、<本当に自由に>ものを言い、しかも受け入れられるためにはどうしたらいいか、という手法を確立させている点で、もう3年前(日本語訳は2年前)のこの書物は、成功を手中にしていると言えます。



なお、翻訳については、本文には全く問題を感じませんが、見せかけ部分にはコマーシャリズムのトリックがあることは申し添えておかなければなりません。
原題は "Opus Ultimum, The Story of The Mozart Requiem"(最後の作品-モーツァルトのレクイエム物語)なのですが、訳者が「本書の内容を伝える意味から」<モーツァルト・レクイエムの悲劇>と変えた旨、あとがきで述べていらっしゃいます。これは、日本という市場を念頭に置いた点で、アーノンクールの著書のタイトルを『古楽とは何か』と変えてしまったほどには罪深くはありませんが、「内容を伝える」ためにあえて原題と違ったタイトルを与える必然性は、「売れるため」以外には見出せません。・・・このことは、本書に「売れて欲しくない」などという悪意から申し上げていることではありません。ただ、こうしたことをしなければならない、と訳者が考え、小細工しなければならないほど、日本のクラシック音楽市場というのは貧困なのだろうか、と、はた、と考えさせられたことではありました。
また、「あとがき」の後には、全く解説になっていない「解説」が付せられていることも、少々気にかかります。小さな一つだけを取り上げれば、フルネームでその名前を挙げていないことで言い訳は出来るようになっているのですけれど、解説をお書きになったかたは、明らかに、有名な歌劇作曲家ヴェーバーと全く違う人物で、リーソンの著書の本の脇役として登場するヤコブ・ゴットリーブ・ヴェーバーを混同し、誤認しています。・・・この程度の「解説」がなぜ付される必要があったのか・・・この背景にも、日本経済のうさんくささ、もっと穿って行くと、「言論の自由」なるものの虚像の切れ端が顔をのぞかせているのを感じずにはいられません(なぜそう感じるかは、説明は致しませんし、ご質問頂いてもお答えしませんが)。

などとすぐに綴ってしまう私なんか、綴ったものは日本のどんな出版社からも、文章を本にしてもらえることは無いでしょう!
もっとも、本にしていただけるような文章は、これっぽっちも綴っていませんので、なにも心配することはありませんね。


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コメント

長々とコメント書いてみた甲斐があります!←と解釈しております。

投稿: sergejO | 2009年3月21日 (土) 02時13分

sergejOさん

そう仰っていただけると。。。(T_T) <--感涙。

まだ序の口でありますが。
何せ、いろいろ追いついておりませんで。
ゆるゆるやります。

投稿: ken | 2009年3月21日 (土) 02時25分

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