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2009年3月18日 (水)

金沢城のヒキガエル


心臓移植への応援の願いサイト「大樹君を救う会」
http://savedm.web.fc2.com/
・・・是非、お目通し下さい。



大宮光陵高校管弦楽部がSONYのウォークマン"Play You"のCMに12月13日から出演しています!

齋藤友美賀ヴァイオリンリサイタル(2009年4月28日、市ヶ谷にて)、是非お出掛け下さい。

Hikigaeru金沢は、私の憧れの地です。
残念なことに、一度も訪ねたことがありません。
子供達が成人したら、亡妻と黒部旅行のついでに立ち寄って見学する計画でした。
その計画は亡妻といっしょに果たすことは出来なくなりましたが、憧れの気持ちには変わりはありません。

独身でまだ自分の地元で飲んだくれていた頃、可愛がってくれた飲み屋(パブ)のお姉さんが、金沢の、たしか割烹屋の娘でした。旦那さんも、割烹料理店の腕のいい板前さんでした。

お姉さんは、美人というにはちょっと鼻の穴がでかかったけれど、歌がうまくて、私がカラオケで少ないレパ−トリーを歌う時には
「kenはねえ、音が下ずるからダメなのよ」
なんて、歌唱指導まで受けました。
子分扱いで、店がはねると、旦那さんがまだ仕事、というときには、深夜保育所へ子供を迎えにいく時にボディーガードまでやらされました。
デパートの買い物にも
「あんたはものを見る目を養わなくちゃいかん」
というので、引っ張り回されました。
ついでに、嫁さん候補まで世話してくれかかりましたが、惜しいことに、これは実りませんでした。

異動で東京勤務になる時に、
「あんたは、これでもう、夜の世界とはサヨナラすべき人間なんだからね、一切便りも出さないよ」
そう宣告され、以来、消息は分かりませんし、探ったこともありません。

そんなお姉さんが、いつも自分の故郷の金沢のことを誉めちぎるのでした。
自分の地元がイヤでしょうがなかった私には、なんで生まれ故郷を誉めちぎったりできるのか、お姉さんの心理は、はかりかねていました。
・・・でも、それだけいい街なんだろうな、とは、なんとなく思い込まされてしまっていました。

後年、会社の先輩が金沢に栄転し、当時いろいろと悩みをかかえていたお嬢さんも一緒に(いや、後からだったっけかな)金沢へ引っ越したら、お嬢さんの心のトラブルも一気に解消した。
きくと、街と自然のバランスが、とてもよくとれているのだそうで、基本的には人と人が傷つけ合ったりしない・・・というのが、先輩の印象だったように記憶しております。

そんな憧れの金沢ゆかりのかたが
「ホッとする本ですよ」
と紹介して下さって、
(じゃあ、読んで自分も心を休めようか)
と手にしたのが、
『金沢城のヒキガエル』(奥野良之助 著、現在は平凡社ライブラリー所収【お-17-1】)
です。

単行本は、こちら



本書のテーマは、金沢城址のヒキガエルの生態を9年間にわたって追いかけた研究の平易な紹介・・・であるはずなのですが、
「愛と感動と驚愕に満ちたドキュメンタリー」
と裏カヴァーに記されているイメージと読んでのイメージがまったく違う、頁をめくるたびにニンマリしてしまうような、まさに著者のご研究対象そのままの、のんびりペースで綴られた文体に最大の魅力がひそんでいる
「まことにクセモノ」
なシロモノなのでした。

「不思議なことがあって、どうしてだろうかと疑問を持つ。ほんとうの研究はそこから始まるはずである。そこでいろいろと調べていくことになるが、自然はなかなか意地悪でその秘密を公開してくれない。調べ方を工夫し、あれこれ考えなければならぬ。ようやく一つわかると、わからないことが三つくらい増え、研究は永久に終わらない。終わるまで調べていると一生かかるから、適当なところで、わからないことはわからないとしておいて、わかったところまでを論文にまとめる。これが本来の研究であり、論文である。」(p.31)

すぐあとに断り書きがついているのを読むまでもなく、私も学部生当時・・・それはこの本にも現れる、決して正当とはいえない、与えられた「研究」であり「実験」ではあったのですが・・・に経験したことからでも言えるのですが、こんなことをしていたのでは研究者なんかには到底なれないのであります。
ところが、それ以前の著者のご経歴も面白いのですが、最初に述べたような研究を
「私は実をいうと人一倍せっかちなほうである。」(p.321)
と仰るこの人が、9年ものんびりかけてヒキガエルを研究した、というのが、なおさら面白い。

さらに、その研究からつい一匹一匹のヒキガエルの顔を想像したくもなるところですけれど、カエル以外に登場してくる人たちがまた、出色です。

研究の舞台となる植物園の技官、瀬藤さんは
「ある先生が椎の実を拾いにいって、『椎の実はどこに落ちていますか』と聞いた。瀬藤さん、すましていわく『椎の樹の下ですよ』」(p.57)
ヒトを食っている。

研究当時、著者が教官を務められた金沢大学は金沢城内にありました。学生運動の火種はまだ尽きておらず(私の大学時代も、場所は違えど状況は・・・下火になりつつはありましたが・・・似ていました)、組合の活動も活発なさなかに、組合のスト企画の打ち合わせの席で、著者も本気なのか冗談なのか、
「ストをやるのなら、城門を閉ざして籠城しませんか」(p.89)
と提案してはねつけられたりしているんですから、瀬藤さんに負けず劣らずヒトを食っている。

そんな著者のところに出入りする学生さんたちもまた、何とも言えない連中です。あるひとりの学生さんのエピソード。
「彼は、理学部卒業生にしては珍しく、ある百貨店へ入社試験を受けに行った。面接の時、経済や経営の学生は卒業研究のテーマを聞かれ、その道の先輩である試験官に鋭く突っ込まれ、たじたじとなっていたが、彼は澄ました顔で『ヒキガエルの移植実験をやりました』と答えたら、試験官のほうが絶句したそうである。『ヒキガエル? 移植実験?・・・・・・それは・・・・・・面白そうですね』『はあ、面白かったです』」(p.246)
これで、彼は就職に成功します。
このエピソードは私も面接で、大学でやった研究の内容を聞かれた時、
「はい、耳の錯覚の実験です」
とやった口なので、タダでは笑えませんで、他のまっとうな方ならなんともなく愉快なのでしょうが、ちょっと自分の新卒当時を思い出させられてほろっとしてしまいました。・・・これは、おまけ話。

ヒキガエルも人間も、この本の中では対等にノンビリしていて、ヒキガエルのほうは、縄張りもなければ繁殖期にメスを争って喧嘩するなどということもなく、人の姿とヒキガエルの生態が、読み進めるうちにイメージの中でいっしょくたになってしまい、ここで本書の副題の
「競争なき社会に生きる」
の意味が、しんしんと感じられてくるのです。

ここにヒキガエルがいたから、長い間「研究」と称してのんびり付き合った著者や学生さんたち。
そこに椎の木があるから椎の実が落ちているんだ、以上には語らない技官さん。
へたに経済だの経営だのを専門にしなかったから、ありのままを言ってありのままで就職が決まった青年。

みんな、あるがまま。

でも、それは、人間の今の「普通の」社会では「普通ではない」ことなのだ、ということを、著者は強烈に意識しています。それを柔らかタッチで描いてしまっているところが、本書にたいへんな奥深さをもたせているのです。そうしたあたりに言及しているあちらこちらが、この本の最大の眼目なのですが、それは是非、お手に取って確かめて頂ければと存じます。

著者は大学に限定して述べていらっしゃいますが、世の中全般を考えても、著者の仰る
「『思索』が消えて行きつつある」(p.298)
という言葉には、大変な重みがあります。

サラリ−マンの日常でも、サラリ−マンが要求されるのは、いまや
「どうしたら恒久的に安定して商品供給できるのか」
を考えることではなく、
「とにかく売って儲けろ、でないと保障はないぞ!」
という暗黙のミッションばかりであり、頭の中で仕事の利益を考えているのだとしても、そのあいだに少しでも他のメンバーより長くぶらぶらしてみたり、まして近隣逍遥なんぞしたりしていたら、それは「サボリ」以外のなんでもなく、それよりは、無意味なタイプをしているのでも、机でパソコンに向かっているほうが、あるいは売れる保証があるわけではなくても出先を求めて歩き回っている「フリ(・・・いや、本人は大真面目なのではあります)」をしているほうが、会社に損をかけない、らしいです。

「私は、競争しない生き物のほうが競争する生き物よりたくさんいるのではないかと思っている。そこで、10年に1匹しか見つからない生き物の調査をやれ、などと、学生をそそのかしたりする。そういう生き物がどのようにして生き延びているのかを明らかにすれば、これまでの常識に合わないような新しい原理が見つかるかも知れないではないか。もっとも、10年に1匹しか見つからない生き物の研究には、一年に三つも四つも論文が書けないという欠点がある。そんな研究をしていたら業績はまったく上がらず、したがって研究者の地位を得ることは不可能となる。だから、いくらそそのかしても学生はやらない。」(p.310)



私が「著者のお綴りになった核心部分である」と感じた部分は、あえて引用しませんでした。
核心には、お読みになった方それぞれの触れ方で接するべきであるだろうし、おそらくは私が核心部分だと感じたのとは別の部分を、読む人が異なれば幾通りもの見つけ方で発見できるのがまた、本書の魅力なのではないか、と思ったからです。

世の中は、本来、かように莫としたものであり、人の営みも、おそらくは何によらず莫としたものなのではないか、と、本書を手にするうちに、そのような思いで心がいっぱいに満たされました。

昨日はクラシック音楽の事象をくどくどと並べ立てたりしましたけれど、じつのところ、なんぼ「がたがたへりくつ」とは銘打っていても、
「へりくつなんかこねてる間があったら、ヒキガエルに倣った生き方でも考えたほうが老後のためになるんじゃないか?」
と、素朴に説得されてしまった、というのが、私の場合の、本書を通じてこころやすらかにヒキガエル教に入信させられた顛末なのでした。

ヒキガエル教に染まらない自信のある方にお薦めします。


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