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2009年2月 6日 (金)

音楽美の認知(11):音の「受容野」

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さて、だいぶ空きましたが、セミール・ゼキ博士『脳は美をいかに感じるか』の後半を読んでいってみましょう。

「イデア」についての誤認はあったものの、これはたどっていくと既に中世のカトリック学者達にまで遡る誤認、さらには案出したプラトンでさえ、ゼキもその中から言葉を求めた彼の『国家』の中では、すでに『メノン』で最初にたどりついた本来的なその意味をあまりに敷衍しすぎ、自らごまかされているのでして、その責任をゼキに帰すことは出来ません。・・・晩年のプラトンによって具象化され過ぎた「イデア」論については、弟子、アリストテレスが既に危機感をもって猛烈な反駁を加えていますけれど、その読解はかなり難しいものでして、私も(日本語訳によっても)まだまだ理解出来切れませんから、それは機会があれば別の問題として採り上げることにしましょう。

世の中、何でも「脳」で語る風潮が強くなったことに対しては反論書も若干出るようになりました。
ですが、いまだに、<脳科学者>と称する中のホンの一部の(本当に、一部に過ぎません)、科学的根拠の薄い本が書店の棚を埋め尽くしていて、ガッカリします。
究極的に「脳がすべて」であることが、単に実験科学だけではなく論理でも、さらに形而上学的にも解明された後ならば、いくらそう語ってもらっても構わないのではありますが、現実に「脳」がどこまで「知覚」を支配しているか、を証明できる事実は、複雑に入り組んだ社会の中では、ほんのわずかなことがらについてしか解明されていないのが現状だ、ということを忘れてはなりません。

ゼキ著の偉いところは、最初から「脳がすべてを解明できるとは、私は未だ言い切れない」という態度で出発していることで、生理学上でも扱える抽象画に素材を限定しながらいよいよ具体的な記述に入る第2部では、彼の客観性が存分に発揮されています。

これを音楽とどのように対比できるのか、が、奇妙な言い方ではありますが、「どのような音楽創造がこれからの音楽ビジネスを形作りえるのか」を検討する出発点となるもの、とみなしても良いのではないでしょうか?

さて、第2部の最初は第11章の標題である「受容野」そのものの、脳に於ける視覚像の受容野についての概説から入っています。
具体的な内容は次章からとなるのですが、ここで彼は、視覚に関わる脳の「受容野」が、各担当領野ごとに、特定の色、特定の線の角度、特定の向きへの運動等にしか反応しない事実を明示しています。
抽象的美術を語る上では、たしかにこれで充分である、との印象を受けておりますが、こうしたデータ例を元に、ゼキは
「形を本質的な構成単位に還元しようと試みた画家の作品と、すべての形の構成要素が脳内で以下に表象されているかという問いの答えを脳の単一細胞の反応の中に求めた科学者の発見との間に、類似点があるかどうかを」見ていくと述べ(198頁)、それで本論(12章以下)に入るのを待たず、咲きに結論を次のように明示しています。
「生理学者と画家は脳について同じような問いを発して来たのである・・・画家が形の普遍性を抽出することに成功したかどうかを最終的に判断するのは・・・画家と鑑賞者の脳なのである。そして脳が下した決定は、何百年もの進化の過程の産物である脳の生理学的構造に基づいているはずであり、この進化の結果、脳はほぼ無限に存在する形を、共通する特定の側面から認知できるようになったのである。」(198頁)
この結論により、ゼキはなお
「モダンアートの価値を単一細胞の反応という観点からのみ説明できるというつもりはない」(203頁)
という慎重な姿勢を保ちながらも、実質上は美術家と生理学者=脳科学者を同列に置いています。

この同列関係は、果たして、正しいでしょうか?



音に関する受容野で、音楽に関わるものとしては、聞こえる周波数帯域によって、いくつかの受容野が順序良く並んでいて、特定の範囲の周波数の認知を司っていることまでは分かっています。
ですが、(音量・リズムの問題はとりあえず措くとして・・・とくに後者は運動を司る領野と密接な関係をもっているはずですから、ゼキの論との対比は可能になることでしょう)音色についてとなると、もしかしたら広い世界の論文の中には研究発表されたものが存在するのかも知れませんが、少なくとも公にされるほど一般的に発表し得る研究結果は存在しないように見受けます。・・・もし存在するようでしたら、ご教示下さい。

詳細は、ゼキが「色彩」を具体的に取り上げる際に検討することとしますが、仮に、音高(周波数帯域)だけでなく音色・リズムまでの問題が解決したとして、それは音楽がもたらす「情動」と・・・これは演奏家の上に起こるものと聴き手側に起こるものとで一致・不一致があることも考えられます・・・どのように結びついているか、までの解明は、果たして、どこまで可能なのでしょうか?
なおかつ、そのようなことが「科学的に」解明されなければ、音楽の「価値」というものは<客観的に>とまではいわなくても、美術品がそうであるように「オークションでの価格付けが可能になる」までに至ることはあり得ないのでしょうか?



以下は、まるきり「神話的寓話」ではありますけれど、特に哺乳類の子宮内での生育過程を観察しますと、そもそも感覚器官というものは、発生をたどればすべて触覚の延長と鋭敏化から分化したものであることは、既にどなたもご存知の通りです。その生物の目的によっても順番は異なるはずですが、それは、五感として現在人間が理解している限りにおいては触覚-->嗅覚-->味覚-->聴覚-->視覚と、おおよそそうした順番で出来上がってきたもので、生命維持本能に近いものから順に発達が始まった一方、後に来るものほど高度な機能・精密な構造を持つようになった、と言えるでしょう。
嗅覚や味覚は、言うまでもなく、肉体の維持にとって毒となるか否かを判別するために早くに成立し、聴覚は、どちらかといえば外敵の接近を回避する必要に起こって、さらには種の保存本能のために同種および異性の存在を確かめるために高度化して行ったのではないかと思います。

すると、聴覚という感覚の目的にとっては、「音楽」という創造物は、副次的なものに過ぎない。
視覚にとっての美術も同様ではあるでしょう。(もっと言うなら、高級料理の「上品な美味しさ」もまた、味覚にとっては副次的なものに過ぎません。)

そうすると、なぜ、そのような副次的な目的物(音楽作品、美術作品)を人間は求めだしたのか、という根本的な問いが、まず存在しなければならない。

ですが、議論はむしろ多くの場合、逆方向をたどっています。
「音楽こそすべてを律する」
「美術の崇高さの前に我々はひれ伏す」
本来は結果論であるはずのこうした主張の方が、まず大前提とされてきたのが、じつは生理学者のほうではなくて、「芸術家・あるいは芸術の理論家」と称してきた人々だった。とくに音楽については、古代の神話が前提もなく「人を律するものだ」と語っている例は、豊富に目にすることが出来ます。

問題なのは、そうした古代から決別すべく客観的な議論を試みるたてまえから出発したはずの「自然科学者」の末裔が、出発点をまたもや振り出しに戻し、自分が体感した事実からのみ
「音楽こそすべて」
のようなことを平気で書いて、しかもネームバリューで大量に売ってしまうことにあります。

音楽に限った話ではない。
そもそも「科学」と称しているものがなぜ、主にヨーロッパにおいて、中世末期には「哲学・神学」から分離と訣別を開始したのか、それがまたなぜ、20世紀後半から、少なくとも「哲学」とは融合したがり始めたのか、を明らかにしなければ、人の「生業(なりわい)」は将来如何にあるべきなのか、を人間自身が見失っていくことになるのです。

それを思うと、自己の見解にも慎重で謙虚さを保っているゼキ博士ですら、「美術家の考えてきたこと=生理学者の考えてきたこと」という等式を成り立たせてしまっていることに対しては、私は疑問を感じざるを得ません。

どのような意図をもって、ゼキはこんな等式を成立させるところから具体論に入っていくこととしたのか、は、したがって、本書を読み、読者なりに考察を加えていくにあたっては、極めて大切なポイントとなってくるはずです。
結論とまではいかなくとも、最終章でゼキがモネの絵を採り上げて語る際に、私たちがその続きを考える上での大きなヒントを見出すことができるでしょう。

趣旨をお汲み取りいただければ幸いに存じます。


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