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2009年1月21日 (水)

千五百番歌合3:判者の価値観(1)為政者の場合

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純粋に「クラシック音楽」関係ではありませんので、ご容赦下さい。
わたくし的には、「ねこは猫の夢を見る」をお読み頂ければ幸いに存じます。

<過去の定家関係記事>
千載和歌集:123456789
後白河法皇:1234
松浦宮物語:1234
六百番歌合:123
仁和寺宮五十首:123
(空白期):123
正治二年後鳥羽院初度百首:123
千五百番歌合:


またもや千五百番歌合の続きです。

通常の歴史家と違い、「和歌」の研究者である目崎徳衞氏が「歌も政治であった」という意味合いのことを述べているのは、何故でしょう?(「和歌の勅撰は若い治天の君の最初の政治的達成であった。」同氏著『史伝 後鳥羽院』72頁、吉川弘文館2001)

目崎氏の記述を裏付ける言葉は、『新古今和歌集』の仮名序に
「やまと歌は・・・世を治め民を和らぐる道」(九条良経)
同じく真名序に
「夫和歌者、群徳之祖、百幅之宗也。玄象天成、五際六情之義未着、素鵞地静、三十一字之詠甫興。爾来源流寔繁、長短雖異、或舒下情而達聞、或宣上徳而致化。(或ハ下情ヲノベテ聞ニ達シ、或ハ上徳ヲ宣ベテ化ヲ致ス。・・・」(藤原親経)
という具合に見ることができます。詠歌が「勅撰」でまとめられるのは政治的意図に基づいていることが、明示されているわけです。
その「政治的目的」は、歌を通じて民意を汲み、あるいは上意を下達するところにある、というわけです。

こんにち的な目からすれば、「歌集ごときで、何を!」となるでしょう。
たしかに、平安中期までは見られた具体的な社会政策は、朝廷及び官僚によって成されることは、当時既に絶えていました。
しかしそれは、官僚としての国司が自ら任地に赴かず、現地の下級官僚に民政も財政も委託してしまったからであり(その歴史的な意味合いについては述べるまでもないでしょう)、京にまします上皇やお公家様には直接そうしたことに手を染める体制ではなくなってしまっていたからで、とくに下級官僚の大半(ではないかと思っております)が武士化し、さらには民政と財政の実務を完全に握ってしまったあとには、皇族と上級官僚はそこから約束事に従った「あがり」だけを受け取ればすべて済んでしまった、と言っても良いのかもしれません。

それでもなおかつ朝廷が「直接出来る政治はないか? 民意を汲み、朝廷の威を世に示す手だてはないか」となると、残っていたわずかなひとつの手段が、「勅撰」により和歌集を編む、ということだったのです。
・・・従って、「承久の乱」の準備をし始めて、あるいは武芸にとりかかってみて、初めて後鳥羽が政治を意識した、という見方は、『新古今集』の序文から見ても誤っています。「承久の乱」自体は、前回少し述べた通り、皇族・公家社会と武士社会のあいだにあった「はず」の財政分担上の暗黙の了解とでも言うべきことどもが崩壊してしまったことで初めて企図されたものではないか、と思われます。

「新古今」そのものが、後鳥羽上皇に達成可能だった初めての政治的結晶だとすれば、その前段階での後鳥羽をはじめとする為政者(=朝廷)の意識は奈辺にあったのでしょうか?

それが、『千五百番歌合』の判者を担当した彼らの判辞のうちに垣間見られるのではないか、というのが、今回の仮説です。



この歌合で判者となった為政者は、急死した源通親を除けば、後鳥羽上皇自身の他には左大臣の九条良経です。それに準じる立場にあったのが、九条家出身の慈円だった、と言うことになるでしょう。

それぞれが担当した巻から、興味深いと思われた判辞を、その判を下した歌の番えと共に各自一例ずつ紹介しておくことにします。



まず、後鳥羽上皇自身が担当したのは「秋二・同三」の巻です。
特徴は、判辞が折句(歌の番えから、そこにある言葉を引き、それを織り込んで和歌の態に仕立てたもの)になっていることで、このことは『千五百番歌合』に言及した書物では必ず触れられていることです。
いまは、その「面白さ」をではなく、なぜこのような「遊び」を後鳥羽が行なったのか、を、少しでも見ておきたいと思います。

六百三番
   左 勝                   前権僧正(=慈円)
なくしかのこゑにめざめてしのぶかなみはてぬ夢の秋の思ひを
   右                     雅  経
たづねてもたれかはとはんみわの山きりのまがきに杉たてるかと

(判辞)しのふ夢かつがつさめぬそらの月よはわたる山のきぎの秋かぜ

・・・この例で勝ちとされた慈円の歌は、『新古今集』にも撰ばれることになります。
判辞は、後鳥羽の担当した中では最初の方の、担当巻中もっとも典型的なもののひとつとなってます。
すなわち、「折句」のキーになる語彙は基本的に勝ちとする歌の方から採り(この例では「しのぶ」・「夢」)、可能な限り負けにした方の歌との対比が分かるかたちで(雅経の歌からは「山」を採っている)、「勝ち」の歌のどこが優位かを汲み取り、それを読んだ負け側が「なぜ自分の負けか」を悟ることが出来るように配慮するこまやかさを示しています。判辞は、
「見た夢の余情を忍ぶ心根は、(雅経が詠った)山霧の中に杉の木々が立っているとだけの単純で動きのない風景に比べて、そこがまるで月に照らされて、秋の冷えた風が呼び覚まされ、哀れに鳴く鹿の声をこちらに伝えてくれることから、それを目の当たりにして無常を悟り、こだわりを捨てようと試みる作者の諦観までが伝わって来るではないか」
とでも読み取ればいいのでしょうか?
言葉から「民意」を読み取り、その深さを感得しよう、という姿勢が生真面目に現れているケースでして、読み流しただけの印象で恐縮ですが、後鳥羽の判辞の圧倒的な割合がこの精神で貫かれているように思われます。で、その中に、折句の各句の頭をとると、
「し・か・そ・よ・き」
で、左が勝ちである、ということが明確に示されるユーモアをも交えている。
発想は、後者のユーモアが先立ったことでしょう。しかしながら、それを元に「歌のこころのどこが優劣を決めたのか」をきちんと考えている。・・・本当は繊細な判辞なのに、それを
「句の頭だけとってみれば勝敗が分かるよ」
とおおらかにとぼけてみせるところに、このときまだ22歳だった後鳥羽が、まちがいなく「帝王」としての器を見せているのを感じさせる、そんな「凄み」がこもっています。
(先行する六百一、二は「か・ち」のことばがはっきり分かってしまいます。それぞれ、「み・き・の・か・ち」、「と・こ・は・か・ち」・・・「とこは」は六百二番の左の歌にある「とこ」と「草葉」の言葉をとったものです。六百二と六百三の判辞は、こうしてみると二重の<折句>とみなしてもいいかもしれません。



同じく和歌のかたちで判辞を下したのが慈円です。担当したのは、この歌合の最後の2巻「雑一・同二」です。
かたちは後鳥羽に似ていますが、単純な折句でして、「各句の頭をとって見な!」というようなユーモアはありません。
ただ、他の判者と大きく違うのは、歌の脇に「勝」とか「持(引き分け)」とは記さず、判辞の歌の後に「よって左が勝ちでしょうなぁ・・・」といった風にして初めて結果を見せる。気を持たせるため、というよりは、「どちらの歌もよく玩味させて頂きましたよ。その結果なんです、悪しからず」という、ある種の貴族的な優しさが籠められているように見えます。この優しさは、彼が出家の身であることにも関係するかもしれません。が、慈円の人生は、充分に政治的であり、為政者側のものでした。

ちょっとたいしたことがなさすぎるなあ、という「持」の例。ここでは、うんざりしているような感触も無きにしまらず、ですが、「歌」のかたちの判辞になっていて、かつ結果が最後に現れる時にはこれくらいその結果の予測がつく判辞を付けた方がいっそ思いやりがあるのかも知れません。・・・それが「優しさ」というものの本質なのでしょう。

千四百七十七番
   左                      宮内卿
谷ふかみかさなるやどをみわたせば軒よりいづる山川の水
   右                      家 長
もしほ草かきをく末のあととみればむかしにこゆるわかのうらなみ

(判辞)とにかくにいひながしてもみえぬ哉(かな)、和歌のうらなみ山河の水 仍持歟



和歌できた前二者に対し、左大臣良経は、摂関家にふさわしいとの考えからでしょうか、詩に擬した漢文を判辞として用いています。まずはこの精神の姿勢に注目しておきたいと思います。
七言で二句を基本としたようですが、破調もあります。韻を踏むことも諦めているようです。ただ、字数はきっちり十四字を守る。その中に「どう読み取ったか」を渾身で刻み込んでいることが窺え、良経が教養の人でもあり情の豊かな人でもあったと伝えられる片鱗を目の当たりにするようです。この真摯さは、とにかく、ただものではありません。
女流歌人讃岐と定家の番えを判じた、夏の歌の例。

四百八十八番
   左 勝                   讃  岐
夏の夜の月のかつらの下紅葉かつがつ秋のひかりなりけり
   右                     定家朝臣
なつのよはまたよひのまとながめつつぬるやかはへのしののめの空
(夏の夜はまた宵の間とながめつつ寝るや川辺の東雲の空)

(判辞)只翫桂花秋色染 夏宵不憶一夢成
    (ただ翫ぶ桂花の秋色に染むるを 夏の宵は憶えずして一夢と成る)

・・・どちらの歌も捨てがたいのがホンネなのです。ただ、定家の方はあっさりし過ぎだよなあ、というのが良経の受けた印象だったのですね。



以上、拙い引用で恐縮でした。為政者にはそれなりの「精神の芯」があり、それを形として律する姿勢をも併せて持っていることが明らかになったと思います。
惜しむらくは、彼らはしかし、実務家ではないところが、「時代の子」なのでした。
こうした彼らの精神的姿勢が、専門歌人を自負した判者たちといかに違っているか、を、この歌合について、さらに見て行きたいと思っております。

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