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2009年1月19日 (月)

千五百番歌合2:成立事情と当時の世情

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・・・是非、お目通し下さい。



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<過去の定家関係記事>
千載和歌集:123456789
後白河法皇:1234
松浦宮物語:1234
六百番歌合:123
仁和寺宮五十首:123
(空白期):123
正治二年後鳥羽院初度百首:123
千五百番歌合:


昨日の続きです。

・・・実は、この集の成立を追いかけたい目的で、まだ家内の生前に入手してあったいちばん肝心の論文集が、家内死後のゴタゴタで行方不明です。
それがあっても分かったかどうかは心もとないのですが、少なくとも、いま手元で参照できる限りの文献には、後鳥羽院がなぜ『千五百番歌合』を企画しようと思い立ったのかについて明確な理由を述べたものはありません。加えて、『新古今和歌集』となる勅撰集の編纂も、いつの時点で決心したのか、やはり分かりません。
ただ、次のようなことは言えます。

正治二年(1200)8月に定家が見出されるきっかけとなった『院初度百首』は、定家の歌に限らず、試みとして後鳥羽院にとっては思いがけない大成功だったとみえ、院はたて続けに『正治後度百首』を、十名の歌人に命じて冬に詠進させ、さらに翌年三月(前月13日に建仁と改元)には伊勢神宮内宮に奉納するための『内宮御百首』を、同じく外宮に奉納するための『外宮御百首』も詠じ、その後、『院三度百首』として企画して6月までに30名から百首を集めたものが『千五百番歌合』となった事実が、まずあります。
『千五百番歌合』の歌が出そろった翌7月の27日には和歌所を設置した旨が前日付けの『明月記』記事にあり、自身が和歌を次々と詠じる才に恵まれていることへの自覚がこの二年の間に急激に生まれ、一気に勅撰集を編むところへまで思いが飛んで行ったのでしょう。

『明月記』を参照すると、ここにあげた以外にも、百首和歌でなければ、この期間たびたび院主宰の歌会が催されています。建仁元年3月以降、3月16日(六題各一巻、各十番の歌合。通親・権大納言【は誰だったでしょう、忠良の名は後に見えます】・大貳【?】・慈円・隆信・通具・保家・有家・具親・家長・鴨長明・寂蓮・忠良・宮内卿・越前・兼実の名が見えます。もちろん定家もいたのです)、船遊びのついでの22日(十首歌。通親・皇后宮大夫【季能】・左兵衛督【?】・宰相中将【公経】・六角宰相親経・侍従三位【?】・新三位仲経・大貳・信雅・隆清・親兼・通光・親実・定通・長房・有通・有雅・通方・親定・忠信・師季、と見えます)、28日撰左右和歌(良経・通親・寂蓮・家隆・慈円・大貳と見え、三十六首撰ばれた内訳も記されていて。御製7・慈円6・権大納言1・兼宗中納言1・宰相中将公経3・大貳2・定家5・雅経3・具親1・家長1・宮内卿3・讃岐1・丹後2、となっています)29日にまた歌(定家の感激の言葉があり、出席者の座席図もあります。図によると、上皇・良経・通親・慈円・俊成【入道殿】・雅経・家隆・寂蓮・範光・公経・通具が出席、定家は講師をつとめています)、4月26日(歌の他に奏楽)・・・慌ただしいことこの上ないだけでなく、歌のない日も今様を歌う会、遊女に郢曲(郢曲・・・民謡的な流行歌)などがあって目が回るようです。なお、5月については『明月記』に記事はありません。



この時期、社会は、平穏無事ではありませんでした。
武家側の記録である『吾妻鏡』を参照しますと、1月23日には越後の有力者で平家に加担しながらも頼朝の奥州征伐に参向したため所領を安堵されていた城氏(長茂)は、在京中、関東方の小山朝政らが土御門天皇・春宮(のちの順徳天皇)らの上皇訪問の警護で留守になった間、朝政邸を囲んで反乱の兆しを見せ、失敗して地元に逃れて三月まで抵抗しました。
このとき生き残った甥の城資盛も5月に敗れるまで戦いました。
この戦で捕虜となった坂額御前という女性は男性にまさる戦い振りを見せたことで評判をとり、処刑されるべきところを、時の幕府の将軍、頼家が阿佐利義遠という御家人のたっての望みで彼にめあわせる、という粋な計らいをしているのです。これが頼朝のしたことでしたら称揚の記事になったのかもしれませんが、『吾妻鏡』の記述は頼家をあえておとしめるような記述をしています(六月二十九日条「シカルニ義遠ガ所存、スデニ人間ノ好ムトコロニ非ザル由、頻リニ嘲弄セシメタマフ」)。
以後、頼家が蹴鞠に凝る記述も表現が冷たいのですが、頼家自身は蹴鞠を通じて京への恭順を示すつもりであったのだろうと想像できます(ただし、上皇自身が蹴鞠に凝るのはまだ少し後です)から、『吾妻鏡』の冷たい記述は、鎌倉方(まだ幕府という呼称は必ずしも馴染んでいなかったはずです)の中に、かつて頼朝の陰謀で誅殺された平広常のような「武断派」が少なからず存在したことを反映しているのでしょう。・・・頼家についての記述の冷たさが「北条氏を正当化するため」なのが確かに究極の目的であったとしても、そういう文脈でだけ頼家への目の冷たさを捉える必要は、必ずしもないのではなかろうか、と思っております。そう思わされる記述は随所に見られますが、頼家の行為は、その冷たい形容を度外視して『吾妻鏡』を読む限りにおいては、彼が強引に引退させられ(殺され)た後を継いだ実朝と大きな相違はみられないのです。鶴岡宮への決められた参拝も、流鏑馬等の行事も、きちんとこなしている。・・・それが主眼ではないため、ここではこれ以上は述べません。

※ 城氏の反乱と坂額御前については、角田文衞著「平家後抄」(講談社学術文庫、二分冊。一冊本は古書で入手可能)に詳しい記述があります。

とはいえ、武家の世界は、あくまで公家のそれとは別だった、というのは、平家滅亡の前後で、まだ変化していなかったのでして、
「武家方は血なまぐさいのに、公家は何と呑気な!」
と言ってしまうのも早計だと思われます。
平家の滅亡は、朝廷を中心とした京の公家世界には、精神的にそれを悼む人たちが存在したとはいっても、本質的な変化は、まださほどもたらしていないのです(そのあたりを窺う手軽な古典の例として、「建礼門院右京大夫集」があげられるでしょう。なにせ、著者は平家の中心に直接仕えていた女性であるにもかかわらず、その記述には生活への切迫感は感じられません)。少なくともまず頼朝存命中は頼朝のブレーキがかかっていた様子が『吾妻鏡』記事の随所から見えて来ますし、またその死後も頼家・実朝がトップに立っている間は、公家の荘園に対する権利はまだ、地頭として現地に乗り出した武家に横取りされてはいなかったのです。
後鳥羽が、源氏将軍在世中は決して「承久の乱」などという暴挙を思いつくことがなかった背景には、こうした京の社会・経済構造の「無変化」があった、と考えるのは、間違っているでしょうか?



鎌倉時代を専門にする史学者は、新古今までの後鳥羽は「政治を忘れていた」と評したりしています。
であれば、それは後鳥羽だけが忘れていたわけではなく、戦乱の直中にいたはずの祖父、後白河にしても、頼朝上京時に彼に秘蔵の絵巻物の数々を見せようとして断られたりしていて、とても今日的な意味での「政治」を意識していたとは思いがたいのです。
このあたりは、目崎徳衞氏が「歌もまた政治であった」旨を強調なさっています。
『新古今和歌集』の成立にまで立ち入っていく話にもなるのですが、では何故
「歌も政治だった」
のかについて・・・かつまた、「歌」の政治の中で定家を初めとする歌人たちがどのような「政治意識」を持っていたのか、を探ってみるのを、次の課題としましょう。
・・・なんて、大言壮語してしまっていいのかなあ。・・・危ないなあ。
・・・路線変更あり、ということにしておいて下さいね。

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