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2009年1月15日 (木)

曲解音楽史51)西欧の太平洋進出とラテンアメリカ・フィリピン

心臓移植への応援の願いサイト「大樹君を救う会」
http://savedm.web.fc2.com/
・・・是非、お目通し下さい。



大宮光陵高校管弦楽部がSONYのウォークマン"Play You"のCMに12月13日から出演しています!
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/sony-play-youcm.html

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
    34)イスラムと西欧の融合 35)ルネサンス? 36)フランドル楽派 37)16世紀スペイン
    38)16世紀中南米 39)15-16世紀イタリア 40)英仏戦争の頃 41)15-16世紀中欧
    42)オスマントルコ 43)アフリカ 44)明朝時代の「中国」 45)朝鮮中世
    46)戦国期日本 47)17世紀イタリア1 48)17世紀イタリア2 49)17世紀ドイツ
    50)17世紀イングランド



エリザベス女王の時代は、ヨーロッパが血眼になって、アジアや新大陸アメリカに「儲けのタネ」を捜すべく、海上航路の開拓と覇権を競いはじめた頃にあたります。喜望峰を巡る有名なインド航路を使い最初に国富を得たのはポルトガルでしたが、最大の「世界支配」に成功したのは、先にオスマントルコに勝利したスペインで、現在ラテンアメリカと呼ばれている地域のうち、メキシコ(メヒコ)から南米のペルーにまで植民し、本国の再三の禁令にも関わらず原住民を酷使して多くの鉱山を開発し、富強な人物を多く出しました。それが結果的にはスペイン本国をも豊かにしたのでした。さらにスペインは太平洋に乗り出してフィリピン支配も試みますが、これは大きな島のうち北のルソン島を傘下に置くに留まり、南のミンダナオはイスラム圏のままで19世紀まで自立を保ちました。
スペインは、ラテンアメリカに増えていった植民者やその子孫と本国の利害の乖離が次第に大きくなり、また、ラテンアメリカの原住民はヨーロッパから持ち込まれた新奇な病原菌で大量死するなどするなどということもあり、せっかく築いた覇権も17世紀いっぱいで急激に衰えを見せていきます。

さらに、スペイン陣営の切り崩しを他のヨーロッパ諸国は虎視眈々と狙っていました。オランダを嚆矢とし、イギリスがそれに次ぎ、さらにドイツ・フランスも「東インド会社」を設立しましたが、統一のとれていなかったドイツは早々に脱落、フランスも勢力の拡大に行き詰まり、最も成功したのはオランダでしたが、最後に微笑んだのはイギリスでした。
イギリスは、特に銀の価格がラテンアメリカよりアジアでのほうが相対的に高価であることに目を付け、まずスペイン船に山積みされた銀を闇取り引きするか略奪するかして南米銀を大量に確保、それを元にインドの綿、中国の茶を安価に大量に仕入れてはヨーロッパで倍以上の値段で売りさばくことで稼ぎまくりました。
エリザベス死後のイギリスは、イングランドとスコットランドが事実上合併し、さらに二度の革命(ピューリタン革命、名誉革命)を経て富裕市民の権利が拡大することによって、国力が底上げされ、19世紀の「大英帝国」版図となる植民地の数を確実に増やしていきました。



そうした時代を生きたイギリス人の中のひとりが、17世紀中葉の太平洋諸地域でのヨーロッパの確執や土地土地の風物、現地の人々の性質を克明に書き記した著作を残しています。『世界周航記』(1697)がその書物で、著者の名をウィリアム・ダンビア(1652-1715)といいます。彼はラテンアメリカ海域をはじめとする海で外国船と密貿易をしたり、あるいは外国船を略奪する船の上級の乗組員でした。こういう連中を「海賊」と呼び、その船を「海賊船」と呼ぶのは厳密には正しいことではなく、船の方は「私掠船」と呼ぶべきであるようです。

当時のスペインが如何に広い海域で勢力を持っていたか、それがしかし、とくにオランダの勢力によって如何に窮地に追い込まれつつあったか、を、ダンビアはラテンアメリカ各地、さらにずっととんでフィリピンのミンダナオ島を中心とした博物的知識と共に詳細に記述しており、この『周航記』を非常に興味深いものとしています。
ただ、音楽については、南米について1ヶ所、ミンダナオ島について1ヶ所、あとは南アフリカのホッテントットの習俗に関する記述が1ヶ所、の計三ヶ所しかないのが、音楽ファンにはちょっと残念です。



ダンビアの、その3ヶ所の記述を、岩波文庫の訳文(平野敬一氏)によって読んでおきましょう。

1)アマパラ島(当時スペイン領、エルサルバドルのフォンセカ湾内)の音楽(第5章)
「この地では教会がすべての公的集会の場になっており、遊戯も娯楽もすべて教会で行なわれるのである。したがってインディアンの町に建っている教会にはあらゆる種類の仮面とか、異様でへんてこな男女の衣装とか、オーボエとかストラムストラムと呼ぶ絃楽器などが、ところ狭しと置いてあるのである。ストラムストラムというのはシターン(16、7世紀に流行したギターに似た弦楽器)にその作り方が似ている。インディアンが使うストラムストラムは、たいがい大きなヒョウタンを真っ二つに切って、その空洞部の上に薄い板をかぶせ、両側でとめ----これが楽器の胴になる----その上に絃を張るのである。祭日の前夜とか、祭日の当夜には、人々は集まってどんちゃん騒ぎをやる。歌ったり踊ったり、あのへんてこな衣装を身につけ、へんてこな身振りでふざけるのが彼らの楽しみ方なのだ。(中略)彼らのうたう歌は、陰鬱で悲しみを帯びている。奏でる音楽にしても、そうである。しかしインディアンが本来このように陰鬱だったのか、それともその隷属状態からこうなったのか、私には何とも断定できない。」(上巻219-220頁)

2)ミンダナオ島(フィリピン)の音楽(第12章)
「当地では音楽といえば私の知る限り殆ど声楽だけである。楽器に類するものはクラッパー(鐘の舌)のない鐘のようなものを十六個、重さ(小は3ポンドから大は10ポンドまで)の順に並べたものくらいである。この十六個の鐘は、割礼の日の一週間ほど前から将軍邸のテーブルの上に並べられていた。それを係がしょっちゅう小さな棒で並んだ順に叩いていた。そのため殆ど一日中にぎやかな音が鳴りひびくのだった。しかもこれもこの日の午前中で打ち止めになっていた。鐘の伴奏がないので踊り子たちは自分で歌い、その歌声に併せて踊るのだった。」(下巻 96頁)

3)南アフリカ、ホッテントットの習俗(第20章9
「・・・新月と満月の際の彼らの興奮と夜通しの騒ぎぶりを見ていると、彼らは月について何らかの信心を持っているのではないかと思われる。特に満月の時には彼らは一晩中歌ったり踊ったりして大騒ぎをするのである。(中略)全員----男も女も子供も----ひどく忙しそうに立ちまわり、住まいのそばの青々とした草の上でまことに妙な形の踊りをやっていた。しばしば手を叩き、声を出して歌いながら、前へ後へとナンの脈略もなく踊るのだった。(中略)彼らは月が沈むまで騒ぎ続け、月が没するとようやく歌と踊りを打ち切った。」(下巻 383頁)


ミンダナオ島は東南アジア系の金属打製楽器を用いていた点で古代の華南地方からインドネシアのガムランに至る音楽の伝統の延長線上にあったものと思われます。 ホッテントットの習俗も、あるいはフレイザーの『金枝篇』あたりを読めば、その系譜が見えてくるのかもしれません。 遺憾ながら、これら2つについては、適切な音源を見つけることができませんでした。

ラテンアメリカについては、メキシコで作曲されたミサ曲、ボリビアで発見された聖歌などの録音も出ていますが、スペイン音楽の影響のもとにラテンアメリカ諸国で書かれた音楽の中からひとつ、ペルーのものを聴いて頂くことにしましょう。
「ファン・デル・スプール」(M-Plus KTC1358)という、19曲を収録したアルバムからです。(メキシコやグァテマラ、ボリビア、アルゼンチンの曲も含まれています。1曲だけの選択に限るのが惜しい気がします。この曲も、他の曲も、現地の音楽と融合して後年この地域に根づくフォルクローレやラテン、スペイン本国へ逆輸出されてフラメンコに繋がったものと思われる響きがあります。)

・ペドロ・ヒメネズ(1646?-1668、ペルー)Cavallero De Armas Blancas


バロックの精神は、単に「歪んだ真珠」を洗練し美化した価値観からではなく、こうした植民地の音楽をもヨーロッパ中心主義へと取り込んでいき、ヨーロッパの(悪い言い方をすれば)エゴイズムへと吸収する貪欲さがあって初めて成立したものではなかろうか、という気がしています。その背景には、「こころ」の源は脳にある・・・とそのようにはまだ完全に断言してはいないのですが・・・と考え始めたデカルト(『情念論』)などの思潮がルネサンスのユマニスムを超え出したことも大きく影響しているものと思われます。精神観がカトリシズムの束縛をほぼ完全に乗り越えたのだということが、ここに読み取れるからです。

で、この観点からヨーロッパのバロックを先に見ていくべきなのか、同時期のアジア、とりわけ清という大帝国がどのような社会を築いていたかを先に見た方が良いのか、は非常に迷うところです。

ともあれ、今日はこんなところで。


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