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2008年12月22日 (月)

フルトヴェングラーの語ったロマン派:TMF演奏会を前に-1

Tokiomusikfroh200812
特別演奏会東京ムジークフロー演奏会(12/27)、是非お越し下さい。
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51pxpkkxxwl_sl500_aa240_記事の最上部でご案内にリンクしました通り、きたる12月27日、私の所属する東京ムジークフローが演奏会を開きます。

つきましては、それまでの間、プログラムを楽しんで頂くうえで興味深いかな、と思われるトピックを少しずつ載せようかな、と思います。

今回の東京ムジークフローのプログラムは、
・ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
・ハイドン「めんどり」(交響曲第83番ト短調)
・シューマン「交響曲第4番」
です。

3曲中2曲までが、いわゆる「ロマン派」の作品です。
で、ワーグナーは勿論、名演の録音が豊富に出ていますし、曲も有名なのですが、シューマンの第4交響曲となると、案外お耳になさったことは少ないのではないかと思います。

17de4042e6507b62ところが、この曲には、既にモノラル時代、フルトヴェングラーによる「とんでもない!」名録音が残されていて・・・iPodに取り込んで聴いてぎょっとしてしまったくらい凄みのある演奏でしたが、今この記事を綴る肝心のときになって現物が見たりません、相変わらず鈍臭いのです、私・・・、これはあまりに凄すぎてアマチュアにとって(いや、今のプロにとっても)参考になりませんので(こういう演奏を再現できる「無心」を持った技術者が演奏家には稀になってしまったからです)、以前もあえて紹介をしませんでした。・・・これを「聴かれて」しまったお客さんに「聴かせられる」シューマンを演奏するのは、奇跡を起こすようなものです。

シューマンについては他にも私が耳にした限り「ピアノ協奏曲」や当時再発見された「ヴァイオリン協奏曲」の名演奏を残しているフルトヴェングラー、シューマンについては先駆的な理解者だったはずなのですが、書簡集でも、代表的な著作である『音と言葉』でも、シュ−マンについて目立った言及を残していません。

ですので、シューマンについて云々するのはあとにとっておくことにして、ここではフルトヴェングラーが『音と言葉』の中の短い一章として記している「ロマン派について」を、少し覗いておきましょう。



「(前略)ロマン派といえば私たちはまず単なる気まぐれに身を任すこと、現実の世界からあの錯覚(イリュージョン)や夢幻の世界へ、----形体となることはできないし、またしばしば形体となってはいけない世界への逃避である(後略)」
「この限界においてゲーテが、ロマン派的なものの中に、何か『わざと仕組まれた』もの、憧れ求められたもの、盛り上げられたもの、誇張されたもの、一言にして言えば何か病的なもの、未成年的で世に堪えぬもの、があると見、いや、もっと推しすすめて、すべてすぐれた作品は、それ自体古典的でならなければならぬ、と主張したのは正当であったと思います。」(以上、新潮文庫版96頁 芳賀 檀訳)

一般のファンには、その指揮による演奏を<ロマン派的なものの体現>と見なされ易いフルトヴェングラーがこうした発言をしているのは、実に興味深いことです。彼は

「今日ロマン派であると自らも観念し、ロマン派的に表現し、描写しようとする者があったら、それは季節外れ、と言うべきものでしょうし、あるいは、社会的な秩序ある世界から見たら、もっと悪いことに、----すなわち滑稽至極なものになりかねません。」(同99頁)
とまで断言しているのです。

これは、果たして、フルトヴェングラーの自己否定なのでしょうか?
彼は、ベートーヴェンの交響曲からさえも「ロマン派的なもの」を引き出したことによって、その名声を不滅にしたのではないでしょうか?

答えは、このあと、彼自身が述べています。
いちばん簡明な回答はこれでしょう。

「ところで、現実から(つねにそれは全人間的現実でありたいものです)逃亡しようとするこの種の傾向は、いわゆるロマン派と呼ばれている人々において見られることははるかに少なく、むしろ彼らの敵手であり、およそロマン派と名のつくものでありさえすれば、目の仇にしてこれを引き下げることに飽くことを知らぬという人々の側にこそ多く見出されます。(中略)すなわち全人間的現実から逃亡する人々、私たちの場合で言えば、非創造的な、知性的錯覚の中へ逃亡する人々こそ、ロマン派なのです。(中略)この世界に所属する人々から『ロマン派』であると指摘されることは、私にとってはいつも一種の名誉ある称号をちょうだいした、と同じことだと思っているのです。」(同100-101頁)

すなわち、フルトヴェングラー自身が、彼の演奏を「ロマン派」だと見なされ易いことをよく承知していたことを、この記述ははっきり示しています。
そのうえでフルトヴェングラーの述べる「ロマン派」とは何かを再度振り返ってみますと、この回答に先立つ彼のこの記述がよく理解できるのではないかと思います。

「拒否すべきロマン主義、私自身最も手きびしく拒否しているロマン主義というのは、現実の代わりに錯覚と夢の世界を置き換えようとする精神的態度です。現在の要求ときびしさに堪えられないで、無責任な止めどのない空想の中に逃れようとする態度であり、----この現実に向かって対決することのできない、不能を言うのです!」(同100頁)

「およそ芸術なるものは、限りなく奔騰する生命の象徴としてのみ、----なんとニイチェは、うまことを言ったものか、----はじめてその意味を価値と持つものだからです。」(前文に先立つもの)

・・・よくよく日常を振り返って見る、どなたにとっても多少美化であっても構いません、自己の人生を「芸術」という言葉の代わりに置き換えてみれば(これについては彼は容認するでしょう)、フルトヴェングラーのこの言明は、私たちの「いのち」になんと密着したものであることでしょう!

そのことに気づけば、「音楽」は、人の営みとして、決して特別なものではないのだということも、分かってくるのではないでしょうか?

なお、この発言は、今だからこそ分かることですが、フルトヴェングラーが、ユダヤ人排斥などに対しては抗いながらもなお、なぜナチスの支配するドイツを離れなかったか、の根本的な理由をもよく言い表しているように、私には感じられます。

この文章が書かれたのは、1943年のことでした。



今回は、特定の曲の話とは致しませんでした。

フルトヴェングラーの上の言葉の心髄に触れることの出来る演奏は、シューマンのものの他、ヒンデミット、ブルックナー作品などに於いてもなされていますが、戦後のものになるとはいえ、最もその精神を良く伝えてくれるのは、もしかしたらブラームスの交響曲のライヴかもしれません。機会がおありでしたら、是非お耳になさってみて下さい。


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