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2008年12月12日 (金)

曲解音楽史49)シュッツの世紀(三十年戦争期ドイツ〜ドレスデン)

心臓移植への応援の願いサイト「大樹君を救う会」
http://savedm.web.fc2.com/
・・・是非、お目通し下さい。



大宮光陵高校管弦楽部がSONYのウォークマン"Play You"のCMに12月13日から出演します!

その大宮光陵高等学校第23回定期演奏会(12月14日)のご案内を掲載しております。

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
    34)イスラムと西欧の融合 35)ルネサンス? 36)フランドル楽派 37)16世紀スペイン
    38)16世紀中南米 39)15-16世紀イタリア 40)英仏戦争の頃 41)15-16世紀中欧
    42)オスマントルコ 43)アフリカ 44)明朝時代の「中国」 45)朝鮮中世
    46)戦国期日本 47)17世紀イタリア1 48)17世紀イタリア2



標題を素直に読んでしまうと、
「シュッツが17世紀のドレスデンを牛耳った」
みたいな感じですが、ちょっと違います。・・・つまり、今回のタイトルは(いつもですが)センスがないのです。
17世紀のドイツを代表する作曲家、ハインリッヒ・シュッツ(1585-1672)は、ドレスデンの宮廷楽団の責任者として、宮廷の楽団を「牛耳る」どころか、むしろ楽団が宮廷の恣意で左右されることに体を張って、しかし決して謙虚さを失わずに対抗しつづけた、忍耐の人でもありました。
彼の生涯の、ほんの断片を眺めることで、前回見てきたイタリアの影響が如何にドイツに及んだか、ドイツ音楽はそこからいかなる自立を遂げようとしたか、を、ざっと眺めておこう、という算段です。この時期のドイツについては、したがって、シュッツに代表させておき、次回はエリザベス朝にまで時間を遡ってイングランドを再訪し、そこからとある海賊と一緒に太平洋に飛び出していってみようか、と思っておりますが・・・思い通り行きますかどうか。
なお、音楽都市ウィーンの萌芽も17世紀末には見られますが、それはオペラ中心に始まりますので、ちょっと素通りします。


この頃になると、ドレスデンを含めたドイツ各地にはルター派プロテスタントがかなり浸透し、のちにJ.S.バッハのカンタータの素材や下敷きになるコラールが次々と作詞・作曲されてもいるのですが、これはこれでグレゴリオ聖歌をドイツ語訳詞で、かつ、民衆までもがより親しみやすく歌えるようにリズム付けしていくにはどうすべきか、の試行錯誤をも含んだ、一つの大きなトピックになりえるのでしょうが、私の手元の材料も少なければ、仮に資料を増やしたとしても膨大な時間をかけなければ正しく観察できるものではありません。ただ言えるのは、ルター派プロテスタントにしても、音楽面ではカトリックとまったく違ったものを「創造」したのではない・・・但し、教会の聖歌隊に独占されていた「聖なる歌」を民衆に開放する上では大きなはたらきをした、という事実です。

シュッツの作曲した聖歌も、ドイツ語の歌詞によっています。
ですが、シュッツの場合には、ルター派のコラールとは違い、作品は宮廷ないし教会の聖歌隊を必要とする、というものであり、ラテン語ではないにも関わらず、形式や内容はカトリックの聖歌の忠実な後継者である、との性格を持っています。

彼はイタリア(ヴェネツィア)でモンテヴェルディ(推測)とジョヴァンニ・ガブリエリ(これは確実、ただし1612年死去、そのためシュッツは翌年にドイツへ帰国)に教えを受けています。
ガブリエリは、彼の才能を高く評価しました(臨終に際し彼に指輪を与えています)し、シュッツの作風には自分を大切にしてくれたガブリエリから何を学んだか、が忠実に、かつより発展的に結実しているのを認めることが出来ます(ただし、モンテヴェルディ的な<不協和>を感じさせる、劇的すぎる特徴をシュッツの作品から私が感じ取ったことはなく、これはもっと注意深く検討してみなければ分かりません)。少なくとも、シュッツの作品から聴き取れる響きは<パレストリーナ的>ではないことは明らかです。器楽部分は対位法的には複雑であり、歌唱部分は対照的にシンプルに聴き取れる、というスタイルが確立されており、これはJ.S.バッハが間違いなく受け継いでいるスタイルでもあって、プロテスタント・ドイツ独自の様式であると捉えて間違いないと思います。

ガブリエリの作例:キリストは甦られた(「サクラ・シンフォニア」所収)

パロット/タヴァナー合唱団/ロンドン・コルネット・アンド・サックバット・アンサンブル
L'OISEAYU-LYRE UCCD2003(国内盤)
※日本では金管楽器の壮麗なアンサンブル曲で知られるガブリエリですが、声楽にもこうした名作があります。

シュッツの作例:「キリストの生誕の物語」第1曲

サマリー/オックスフォードカメラータ NAXOS 8.553514


シュッツが活動したドレスデンの、当時の選帝候はヨハン・ゲオルク1世(治世1611-1656)です。かつ、シュッツの活動期の大半は、折しも勃発していた三十年戦争(1618-1648)の真っ最中でした。この戦争は基本的にはボヘミアの支配権をめぐるものでしたから、ボヘミアと境を接するドレスデンは勢い戦争の影響をもろに蒙らざるを得ず、為政者としてのヨハン・ゲオルク1世は、よくその長期にわたる危機を乗り切り、ドレスデンを衰えさせることない地域として守り続けたと言えます。ですから、以下に見えるような楽団の縮小にともない仲間・部下が生活に窮するのを目の当たりにしながらも、シュッツはよく感情的にならず、謙虚に事態を見守り、かつ仲間のために少しでも雇用環境の保持に冷静に務めていたかは、むしろ楽壇の縮小度合いが、「戦時」のものであることを考慮すると最初の15年間は最少限に留まっている(しかもむしろ、最初の9年間は拡大に向かっていた)ことから、よく伺えるのではないかと思います。

・1914年(シュッツのドレスデン着任時):アルト4、テノール4、バス3、ディスカンティスト5、器楽奏者11(計27名)

※ 1625年以前の2年間は、ただし給与支給停止(シュッツの嘆願書から判明)

・1632年までに39名に増員

・1634年:30名(減員の始まり)

・1639年:10名

・1651年頃:演奏家17名、少年聖歌隊員4名

(以上は「西洋の音楽と社会3」音楽之友社記載の通りです。)

三十年戦争による本格的な影響が楽団に及ぶまで(給与支給の停止はあったにせよ)、ヨハン・ゲオルク1世は、すくなくとも戦争勃発から15年間、つまり戦争期間中の半分は踏ん張ってくれたことになります。その後の凋落はシュッツ自身の音楽出版にも甚大な影響を及ぼし、そうでなくても出版できずにいた多くの作品(彼の作品は、彼の任務上、のちのバッハとは違って毎週日曜日の礼拝への奉仕のためのものではなく、特別な祝日や行事のものだったため、劇作品も少なくなかったことが分かっています)が印刷されることを妨げ、こんにち失われてしまう結果をもたらしたのは、非常に残念なことです。

シュッツはもちろんのこと、ドイツ人音楽家は当時、金銭面では恵まれなかったのですが、それは、為政者が経済的な困窮にも関わらずイタリア人音楽家を積極的に雇用し続けたことに原因があり、三十年戦争後半の楽団の縮小の背景には、イタリア人メンバーの増加も影響しているのではないかと思われます。おそらく、イタリア人音楽家はドイツ人音楽家の3倍の給料の支払いを受けていました。シュッツはそのことについての苦言も残しています。・・・ドイツ貴族には「音楽家といえばイタリア人」という固定観念が根強くあったのでしょう。

とはいえ、ドレスデンが先述のようにルター派の都市だったことが、シュッツをしてドイツ語歌詞による規模の大きな作品を作らせる結果となったのですが、そのため、ドイツ音楽は自国語(といってもドイツという単独国家は存在しませんでしたから、自連邦語、と呼んだ方が適切でしょう)による豊かな表現力を、シュッツという大きな存在を通して初めて獲得したのです。
1656年、仕えたヨハン・ゲオルク1世の死後、シュッツは引退しますが、その生存中は後継者ヨハン・ゲオルク2世により月3〜4回の出仕は義務づけられ、なおかつ特別な祝日には彼の作品が演奏されるならわしが続きました。復活祭にはシュッツの「復活の物語」SWV50、クリスマスにはシュッツの「キリストの生誕の物語」SWV435、受難節にはシュッツの「マタイ受難曲」・「ルカ受難曲」・「ヨハネ受難曲」という具合でした。クリスマスオラトリオだけは1668年以降は他人の作品に取って替わられたようですが、この習わしはその他の作品についてはハン・ゲオルク2世の死んだ1680年まで続いたそうですから、当時の音楽としては異例の長い寿命を保ったと言えます。

シュッツの作曲法が如何にドイツ語に適しているかについては、先日ご紹介したゲオルギアーデスの書に詳しく述べられています。が、語とアクセントの一致は、ガブリエリから学んだ「第2の書法」(モンテヴェルディのものほど極端なものではないかもしれませんが)をシュッツがマスターしたことによりにもたらされた、ということを忘れてはならないでしょう。「第2の書法」はイタリアに目立った果実を残しませんでした。そのかわり、ドイツでシュッツによって様式的に整理されたのであって、ここにイタリアが単独で「ヨーロッパ大陸の音楽の中心」であると誇る時代の解消していくのを読み取ることも可能ではないかと思います。

最後に、せっかくガブリエリの名前が出て来ましたから、彼の有名な「ピアノとフォルテのソナタ」をお聴き頂いておきましょう。
モダン楽器向けに様々な人による編曲版が用いられるのが通例で、この録音は誰の編曲か明記されていませんが、1968年にアメリカの名門オーケストラ(クリーヴランド・シカゴ・フィラデルフィア)の金管奏者19名によって演奏されたものです。


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