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2008年12月 2日 (火)

ヒラリー・ハーン:天才・努力家・真摯そして自然

ヒラリー・ハーン:天才・努力家・真摯そして自然

心臓移植への応援の願いサイト「大樹君を救う会」
http://savedm.web.fc2.com/
・・・是非、お目通し下さい。



大宮光陵高等学校第23回定期演奏会(12月14日)のご案内を掲載しております。

まもなく半世紀という年齢を迎える私にとって、いま、いちばん「手本」にしたいヴァイオリニストは二人。敬称略なのはご容赦下さい。

51lfifif1kl_sl500_aa240_一人は五嶋龍。もう一人は、ヒラリー・ハーンです。
私がこの年齢になっても結局身に付かなかった技術を、10歳のときには既に身につけていた人たちであり、まだ二十代です。
え? ずっと年下じゃないか、ですって? そのとおりです。
この二人を含め、若いヴァイオリニストたちが、素人には到底真似できない名人芸を身につけている例は、枚挙にいとまはありません。ですが、そのすべてを、私は必ずしも尊敬しているわけではありません。いくら私が出来ないからといっても、名人芸だけで食ってるような人は、年上か年下かを問わず、私の尊敬の対象ではありません。

もうひとつ、この二人の名前を挙げておきながら、実は、五嶋龍もヒラリー・ハーンも、私はCDはそれぞれ1枚ずつしかもっていません。かつ、(これは自分でもとても残念に思っているのですが)、その演奏にじかに接したことがありません。・・・それでよく「尊敬する」だなんて、のうのうと言えるなあ、という声が聞こえてくるようです。

ですが、音は「ナマ」でないのなら、演奏を知るには1枚聴けば充分ですし、その1枚を聴き込む方が、あの曲もこの曲も、と「追っかけ」のようにして浅く聴くよりも学ぶことが多いと思っております。

五嶋龍について言えば、姉の五嶋みどりも私の尊敬の対象ですが、姉に対する尊敬とは違う類いの敬意をおぼえています。彼は、おのれが「きたない」音を出すことを非常に嫌う。姉とは違った生育環境であったこともあるでしょうが、深い情緒で迫ってくる「みどり」の同じ年齢の頃に比べると、「音そのもの」に客観的な姿勢を持っている。軽重で言えば情緒を兼ね備えつつ完璧な姉の方が存在としては重い。ですが、五嶋龍ならば、私によりダイレクトに、音の大切さを理解させてくれる。偉大な姉がいながら、姉とは別路線を歩めるのは、母親がいかに素晴らしい人であるかを考慮しなくても、一人で立っていく道を自ら自由に見つける力を持っていることを如実に表わしていて、
「もう、この年齢で!」
と羨望の念を抱かずにはいられないくらいです。



ハーンには、さらに深いものを感じさせられます。

この間から、近所のCDショップで在庫一掃セールがあり、そこで私はハーンの2枚目のディスクを手に入れることができました。ただし、映像です。
定価では5,000円のDVDが、1,050円!
生活が生活ですから2日我慢しましたが、3日目には、気づいたら商品を持ってレジの前に立っていました。

「ヒラリー・ハーン ポートレート」Deutsch Gramophone UCBG1209

2003-2004年に収録され、2005年に発売されたものです。

彼女の2枚目のCDとして入手しようかどうか迷っていた、ナタリー・シューと共演しているモーツァルトのヴァイオリンソナタのうちK.301のコンサート映像も収録されています。

ホンネで言いますと、私はコンサートだけの映像というのには価値を感じるところが少なく、クッパーツブッシュやストラヴィンスキーの指揮姿のような歴史的なもの、聴きにいけなくて口惜しい思いをした1960-70年代のウィーン・フィルやベルリン・フィルの来日公演以外には、仮に買っても何度も見ることはありあません。また、自分自身ソロが弾ける人間ではありませんから、ソリストのもの、室内楽ものは勉強で見ますけれど、極力、リハーサル風景を含んだものを選びます。

この点、「ヒラリー・ハーン ポートレート」は、主部であるドキュメンタリー部分にもリハーサル風景を含まず、選んだDVDの中では珍しい類いのものです。
ですが、そのドキュメンタリーも、本来付録であるモーツァルトのソナタとコルンゴルドの協奏曲全曲も、つい食い入るように見つめてしまいました。

ドキュメンタリーは、編集の良さもあるでしょうが(これは映画ではないのでイコールで見ることは出来ませんが、映画に於ける編集の重要性については「息子と映画を考える」の、こちらにリンクした記事に綴りました)、彼女の人間性を、単純に「こんなキャラクターだ」と伝えるのではなく、その「現場屋」としての深い思考、思考の上で静止することのない活動力を存分に描いています。「現場屋」という言葉を使うことを、読む方がどう感じるかは分かりません。ですが、私にしてみれば、これは最高の賛辞のつもりでして、皮肉など全く込めている気はありません。

たとえば、コルンゴルドについて。コルンゴルドはドイツからアメリカに移り住み、映画音楽で名を馳せ、やがて最近まで忘れられた存在になてしまっていた人物ですが、前提として、常識的には映画音楽は金儲けのためでありクラシック音楽と称されるものに比べて価値が低い、という世の中の一般的な価値観を踏まえての発言を、ハーンはしています。
「映画音楽は、特別な才能がなければ書けないものです。限られた時間の中で、映像に最高の価値を付加するものに仕上げなければならない。誰でもできる仕事ではないのです。成し遂げることが出来るのは、選ばれた人だけ。」
・・・この、客観的で冷静な、音楽に対する観察眼。どうでしょう!



彼女はバッハが大好きです。
その演奏は、落ち着いたバッハが好きな聴き手にしてみれば青臭いかもしれません。古楽的な響きによるバッハを愛する人には、あまりに「モダン」かもしれません。
けれど、パーティの席上で彼女がバッハのシャコンヌを弾く場面には、私は思わず涙してしまいました。映像のアナウンスは、飲み食いお喋り自由のパーティなのに、誰もが沈黙してハーンの弾くシャコンヌに聴き入った、ということを、淡々と、ではありますが、明らかに強調しています。・・・こんな解説はいらない。彼女が、周りを囲んでくれる人を体中に感じながら、そこがどんな場であるかに関係なく「シャコンヌ」の一音一音、そして瞬間瞬間の響き、なおまたその流れに、自分の感じる聴衆がたったひとりでも耳を傾けてくれれば本望である、とばかりに精魂を傾けている。その様子が映し出されていれば、他に言葉など、なにもいらないのです。

一方で、母校のカーティス音楽院の中を案内するときの無邪気な話し振りに彼女の実直さが充分現れている。多忙な中で、演奏が終わって次の場所へ移動するときの姿には、「出張に慣れたビジネスマン」と全く違わない、普通の(仕事で移動に追われる、というのがビジネスシーンでは必ずしもフツウではないかもしれませんが、経験のある人には分かると思います)生活リズムで生きている彼女がしっかりと見て取れる。

日常の中で「音楽」をいつも息づかせている。彼女にとってはたまたま音楽が仕事だから、彼女がいつも「音楽」を離れずに暮らしていることをうらやむのは筋違いですし、「音楽から離れられない」でいることを可哀想に思うのも、同様に間違いです。
ただ常に、「音楽」そのものを通して・・・それはともすれば「手段」に化し易いのですが・・・人間を、世の中を見つめ続けている。他に欲はない。軽々しく「世界」を云々しない慎重さが、そこから自ずと生まれて来ている。
「私は人の思想を変えたり自己主張をするために弾いているのではない。ただ、私なりの演奏で楽しんでもらえればいいのです」
彼女はそう明言しています。



ここまで「音楽」そのものに徹している彼女の、最も素晴らしいのは、とくに最近の演奏家には欠けがちな「合わせる」センスです。
ドキュメンタリー中に挟まれる他の曲(ヴォーン=ウィリアムスの「揚げひばり」やエルガー、パガニーニの協奏曲など)の演奏風景にも現れていますが、その視線に注目すると、相手が一人のピアニストであれ大規模なオーケストラであれ、彼女は自分の伴奏者をよく見つめています。ですから、曲の流れを壊すことなく、伴奏が主導権を握るか自分が主導権を握るか、の弁別を瞬時に自然に行なっている。さらに意義深い発言が、パガニーニの協奏曲に取り組む際になされています。彼女はあらかじめパガニーニの(伝えられ、スケッチされている)肉体的特徴と自分のそれとの違いをよく認識し、自分が選択すべき演奏法がパガニーニと同じであってはならないことを、しっかりと把握しています。

ドキュメンタリーには、他にも「録音」についての考え方など興味深いコメントが随所にちりばめられていますから、ヴァイオリンを弾くかたにだけでなく、クラシック音楽を愛する人がよりいっそう深い音楽体験をするために必要な情報を豊富に得ることができます。

アナウンスが加わらない、演奏だけの映像が、先に述べたように、モーツァルトとコルンゴルドの2作、付録映像として(しかし、フルに)ついていますが、2作品とも、伴奏者と彼女のコミュニケーションのよさを注意深く観察し、傾聴すべきです。コルンゴルドでは、オーケストラが彼女のイメージする音楽と一致したときには、それが独奏の加わらない部分であっても、オーケストラに向かってにっこり微笑みかけている。これは、並のソリストには出来ない芸当ですし、彼女が如何に、独奏部だけでなく伴奏をも含めて「音楽」を理解しているかをよく表わしています。
出た当初話題盤となった、ナタリー・シューと共演したモーツァルトの素晴らしさは、さて、この映像と音声から、どれだけ理解して頂けるでしょうか? こちらのソナタでは、ハーンとシューのお互いが、お互いの音を尊重し合いながらも、それぞれを伸び伸びと表現している姿が明確に捉えられています。ヴァイオリンの音の切り上げとピアノの音の切り上げが、一致すべきすべての箇所において、見事に同じタイミングで、何の違和感も感じさせずに成し遂げられる。理想のアンサンブルです。・・・ここで表現されているモーツァルトが、聴く個々人の趣味に合うか合わないか、などというのとは次元の違う話です。
そういうことを敏感に感じて見て頂きたい(やはり視覚と聴覚の双方を一体化させて鑑賞すべきでしょう)、そんな逸品です。

お安く手に入るようでしたら、いいのですが。私は運がよかったけれど。
安く見つけられなくても、絶対に価格以上の価値のある映像だと、見終わった今、無責任にも、確信しております。

・・・4年経った今の彼女のいっそうの成熟ぶりは、1月3月に聴けるようです。・・・私は残念ながら、まだその機会に恵まれそうにありませんが、日本語も勉強する(もうしている?)そうですから、なんべんでも日本に来てくれるでしょう。彼女をナマで聴くまでは死ねない、とつくづく思った私でした。


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コメント

私はヒラリー・ハーンを知ったのは2年ぐらい前なのです。

正直に書くと、はじめは別嬪さんなので興味を持ったのですが、「16歳で」「バッハの無伴奏」でCDデビューした、という逸話を知り、度肝を抜かれました。

シャコンヌを聴いてとても好感を持ちました。

私のブログでもハーンによるバッハのソロ・コンチェルトやドッペル(の一部)を載せたことがありますけれども、

Kenさんはどのようにこの人を評価するだろうと、思っていました。太鼓判を押して頂いて(押されたのはハーンですが)少し、自分の耳に自信を持ちました。

DVD見たいですなあ・・・。

投稿: JIRO | 2008年12月 4日 (木) 20時13分

ハーンの音については、実はほぼ1年前に採り上げていまして(ここでは家内を亡くしたことと結びつけた文になってしまっていますが、度外視して下さいね)、

http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_6a87.html

こちらではオイストラフとの比較をしていますが、記事中にリンクしてある「最初の記事」では日本人女流バイオリニストとの比較も聴いて頂けます。
「最初の記事」の方が、ハーンの特性をよりはっきり知ることが出来ると思います。

JIROさんには、いまさら、そんな聴き比べは不要だと思いますが、よかったらそちらもまた読んでやって下さい。

「技術力」にとどまらない、というより、彼女は「技術は手段である」ことをよく弁えていて(だから、いま離婚するしないで話題になっているS嬢も確かに素晴らしいけれど、S嬢は「いったん演奏活動を休止して哲学を勉強しなければならなかった」のに対し、・・・これは五嶋龍さんも同じだけれど・・・「音楽」そのものの中ですでに思考の「方法論」を作り上げながら活動して来ましたし、あらためて<腰を据えて>哲学を勉強し直す必要もない。「方法論」についての思索で、年齢に応じ「何を、どのように」変えたり変えずにいたりすべきかを、はっきり自覚している。

強い人ですね。

投稿: ken | 2008年12月 4日 (木) 23時28分

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