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2008年12月15日 (月)

音楽美の認知【番外】:「プラトン問題」・「イデア」・「普遍」

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・・・是非、お目通し下さい。



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その大宮光陵高等学校第23回定期演奏会(12月14日)は、無事終了致しました。

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・・・どうも、ボケが進んでいるのか、今日ネタにしようと思っていた元ネタの本が見当たりません。
年齢のせいではないと信じていますが。。。

仕方がないので、いちばん肝心の部分は、間接資料を用いながら綴ります。・・・それでも、その資料からの引用の方が、私の「読み」よりは適切でしょう。

今日の話題は、久々に一般的なものではありませんので(いや、いつもか!)、ご容赦下さい。ご興味のない場合は読みとばして頂いて結構です。



エミール・ゼキ博士『脳は美をいかに感じるか』の読みを中盤で止めておいたのは、そもそもゼキの「イデア」(同書第5章が発端)の提示方法に疑問が湧いたからでした。
その疑問を、第5章の読みのところに、以下のように綴っておきました。

ゼキの提示したイデアは、次のようなものでした。
「人間の主観の中には経験を重ねる過程でさまざまな「像」の蓄積が出来る。人がものを「見る」ときには、その蓄積=イデア(というのが、端的に言えばゼキ見解です)として、その「もの」が何であるかを判定する。」

これに対して、私がすぐに抱いた疑問は、次のようなものでした。
「私たちは、自分達が未経験な事物・事象に出会ったときにでも、感激を覚えることがあるのではないか? そのときには、自己のうちには依存すべき原像がないはずであり、ゼキ定義の<イデア>ではこのケースの感激を説明することが不可能である」

では、プラトン(プラトーン)自身による「イデア」とは、どのようなものなのか?

竹田青嗣『プラトン入門』(ちくま新書190)198-199頁に、その要約が記されています。

「----『善のイデア』(『真のイデア』ではなく)こそ、一切の事物の本質(=イデア)を照らし出すその根本的根拠である----(中略)プラトンにおいてこの『善のイデア』は、一切の事物の本質を照らす根拠であるとともに、人間の魂の欲望の真の対象として性格づけられている(小略)・・・知の普遍性とは、あらかじめ何らかの絶対的真実を設定し、一切の考えをここに帰着させるというようなことではない。それは、各人のさまざまな『思わく』(各人の準則)における食い違いから出発して、そこに新しい共通理解を見出そうとする言葉の努力それ自体だが(じっさい言葉なしにこのことは不可能である)、この努力の根本動機となるのは、すでに何らかの『正しい知』をもっていること、ではない。それは人間間の確執や矛盾に際して、これを調停し争いを宥め解決を見出そうとする心意、つまり『善きこと』を求めようとする魂の欲望以外にはありえない。(以下略)」

<真のイデア>という部分は、とりあえず考慮しないでおくことにしましょう。プラトンは、人間にとってのイデアは<真のイデア>よりも<善のイデア>を上位においているからでして、とりあえず
「では、真のイデアとは?」
という問いは、今回考えたいことに対してさほど本質的な意味を持たないからです。

見当たらなくした肝心の本・・・プラトンの『メノン』という著作は、まだイデアという言葉はありませんが、「徳」とは何かについてソクラテスとメノンという人物が延々と、その「本質」を見出そうとしては論理の矛盾や仮説の偽が証明されていくばかり、でもって最後には結論が示されずに終わる、という、対話自体が狐につままれたような感じの、読むとタヌキにバカされた気がしてくる、不思議な書物です。但し、岩波文庫版は厚手ではない上に訳文が非常に良く、おそらく本対話編に続く『饗宴』および『パイドーン』で確立する<イデア論>の本来の意味を知る上では、絶対に読み解いておくべき作品でもあります。

竹田著の記述からの引用は、省いたところに本質を述べてある箇所もあるため、かえって難解なものにしてしまいましたけれど、ここで語られていることは、そのまま『メノン』の記述に通じます。すなわち、<(善の)イデア>というものは、何らかの「かたち」として思考されているのではなく、「求めるべきものを如何に得るか」という、むしろ精神そのものの姿勢を指している。・・・従って、本当は、必ずしも「結論としての<かたち>」を必要としていない。
それが、後代の人々にあたかも「イデア=理想像」的な解釈を受けるようになった原因は、『メノン』以後の著述の仕方が、より具体的に「姿形を伴ったものを通じてイデアを探求する」ようになっているからで(最も総合的で顕著な例は『国家』【岩波文庫では2分冊】に頻出します・・・『国家』には「音楽についてはイデアをどう考えるべきか」の対話も含まれています)、プラトン自身が<イデア>をどう人々に伝達するかでずいぶんと苦労したことが伺われるのですが、プラトンの苦労がかえって、<イデアとは形を持った抽象物、あるいは数に還元し得るもの>(ちなみに、『パイドーン』で死刑の毒を仰ぐ前のソクラテスの前に集まって<魂の不死>を議論する登場人物は、すべてピュタゴラス派の人物であり、プラトン自身の経歴にもピュタゴラス派との深い関わりがあります)という発想へと人々を縛り付ける結果となってしまった、と思わざるを得ません。(いちはやくその危険性に気づいたのはアリストテレスではないかと思いますが、彼の危惧はこれまた後代の人々からは逆手にとられて、ルネサンス期には非科学の象徴にされてしまいました・・・詳しくご紹介できるほどの理解力も力量もありませんが、プラトンの記述した方法での<イデア>ではいかんのだ、という危機感を、プラトンの名やイデアについては明記してはいないながらも、アリストテレスの著作(政治学・倫理学関係や形而上学)には色濃くにじみ出ていて、それはそれで、著者の苦悩を感じさせるものとなっています。)



以上のことから、ゼキの持ち出した「イデア」は、プラトンが本来考えた「イデア」とずれていることが確認出来ました。
すなわち、プラトンの言うイデアは、決してゼキが思ったような「経験を重ねる過程でさまざまな『像』の蓄積」ではない、のでした。

では、ゼキだけが「イデア」をこのように捉えているのかというと・・・全然違う話題の際に頂いたコメントから必要を感じて上っ面だけをニワカ勉強したのですが、言語学、とくに「生成文法」とその延長としての「普遍文法」を考える際に<プラトンの問題>というのがあることを知りました(町田健『チョムスキー入門』183頁以下参照、光文社新書244)。子供が生まれたあとの言語経験には不足があるにも関わらず、その子供は「完全な」言語を獲得する、というものです。「生成文法」じたいは、英語という特定の言語について発案されたものであり、町田氏は上掲著書の中で、日本語にも英語同様の「生成文法」が成り立つという見方を、懇切丁寧に解析しながら否定しています。「生成文法とは何か」を語れるほど私は理解できたわけではありませんが、誤りを恐れずに要約しますと、

・(言語における)文の構造を主語や述語という一般的な学校文法よりもさらに突っ込んで、構成素に分解し、それぞれの構成素に名前をつける。すると、一般に文法規則とされているものよりも実用上の言語に適応性の高い言語解析がなし得、かつ、それらがどのように「まとまるか(句構造標識化できるか)」についての解析が可能になる

といった具合でしょうか?
これに対する町山氏の疑問提示は『チョムスキー入門』でお読み頂くとして、この「生成文法」の発想の究極に、やはり、「形態化されたイデア」としての「普遍文法」なるものを追い求める、言語学のあるひとつの派を見出すことができます。さらに、これは、発想者チョムスキーをずっとさかのぼり、現代的な言語学の創始者であるソシュールの、言葉が伝える意味とは何か、についての探求にその淵源をみることも可能なのではないかと思います。ソシュールはそれを言語(単語)の「体系」とか「連合関係」として捉えており、後年のチョムスキー(句構造)に繋がる発想としては「連辞関係」なるものを考えています(同氏著『ソシュールと言語学』講談社現代新書1763)。
ところが一方で、ソシュールは「言語には恣意性がある」ことを認めています(言語の恣意性について私のような素人にも易しく理解させてくれるのは、黒田龍之助『はじめての言語学』講談社現代新書1701です)。言葉を記号として捉えた場合には、それは表示部(音素の構成)と内容部(意味)を有することになるのですが、この二つの部分は常に固定的に結びついているわけではない・・・すなわち、日本語の単語の例で言えば(これは上掲書に記載されているものではありませんが)「自由(ji-yu-u)・・・正しい音韻記号が使えなくてすみません)」というのは鎌倉時代には今で言う「勝手」とか「わがまま」という意味を表していました。あるいは、「気の毒(ki-no-do-ku)」という句の意味は、江戸時代を通して、「自分の心がいたい」から「困る」という意味を経て、現代に近い、他人への同情を示すものに変遷している例が有名です。もっと短い刻みで単語の意味、言い回しの変化が起こっていることは、私たちみんなが日常経験していることです。
これは、(極端すぎる表現ですが)「言語にも『かたちとしてのイデア』が存在するはずだ」との「普遍文法」の発想あるいは仮説には反する現象です。

このほかに、物理学と、おそらくはプラトンがピュタゴラス派と関係が深かったことの延長でしょうが、数学とを抱き合わせて、生理学生物学とは違った自然科学の領域から著されたロジャー・ペンローズ『心は量子で語れるか』(講談社ブルーバックスB1251)のような本もあり、この論も結局は「プラトン的世界」というものを思考上「物質的世界」と置換することの可能性から「認知」の世界を扱っていて、「イデア」に対する捉え方はゼキの生理学、チョムスキーの言語学と同一のものだと見なし得ます。



プラトンの発想した元来の<イデア>が、かたち・概念へとより固定化された「イデア」に変質したところから人間世界が観察されている(特に欧米で)、という事実は、ですから、私たちはよくよく銘記しておかなければなりません。
このことをまとめるにあたってヒントを下さったかたのコメントには「普遍楽典があったらいいのですけれど」とありました。
理想を言えば、そうしたものがあることによって誰にとっても「ああ、これは音楽だ」と認めうるものが出来るのであれば、それは素晴らしいことだと思います。ですから、コメントを頂いた時には、正直言って「うーん、いい発想かも知れないなあ」と思う反面、お答えのコメントには「でも、そういうものがあったら、ずいぶん内容が限られたものになるでしょうね」といったニュアンスのことを綴らざるを得ませんでした。

『ドレミを選んだ日本人』(千葉優子、音楽之友社)という、非常に興味深い本がありまして、それによれば日本人が現在のように西欧音楽を違和感なく受容するまでには、明治政府の政策で洋楽が推進された(これは実は正しい言い方ではありませんで、明治の音楽教育の確立に尽力した伊沢修二を中心とした音楽取調掛の記録・・・東洋文庫に収録されています・・・を読むと、当初は邦楽と洋楽の併行による国楽を意図したにもかかわらず、路線がどんどんズレていっている様子が手にとるように分かります)にもかかわらず、大正期を過ぎてもなおすんなりいっていなかった実情がはっきりと分かります。音楽史で戦国時代を話題にした際には確認しきっていなかったのですが、当時あくまで西欧式の音律にこだわろうとしたイエズス会に対し、戦国大名たちは正統にも、日本の伝統に馴染もうとしないまま一方的に自分たちの音楽文化を押しつける修道士に抗議していたという事実も記されていて、日本人の今の音楽享受環境を(ビジネスとしても)見直す際には、そういった経緯をよく見直す必要があると感じております。

すなわち、決まりきったかたちとしての「イデア」は、音楽においても、本来的な「イデア」でもなければ普遍性を持つものでもない。
「善いもの」を目指す精神の姿勢こそが<イデア>という語の元来示しているものだ、という再認識から仕切り直すことが、「ルックスを売る」・「スタイルを売る」類いの、必ずしも「音楽そのもの」が売りにはなっていないビジネスシーン、音楽生活に、もっともっと、あるべき深みを与えていくのではないでしょうか?



ともあれ、長くなりましたが、ゼキの後半部を読むにあたっては、こうした点に留意して、美術と音楽を対比し、音楽に有益なものが見い出せないかどうかを探りたいと思っております。
都合の良いことに、ゼキが後半部で扱っているのはモダンアートであり、最後の締めに持って来ているのはモネが何枚も描き続けた「ルーアン大聖堂」です。

・・・ああ、だけど、ド素人の私には、これはあまりに荷が重いかな・・・


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コメント

短にイデアという単語が、プラトンとゼキで違うということだけなので、プラトンとの違いであまりナーバスになる必要はないかと思います。ideaの意味には、プラトンの「真なる理想」という意味もあれば、ゼキやクロード・ペローのような「(後天的な、経験的な)理想」という意味もあります。プラトンの意味に沿わないからといって、拒絶されるべきものではないように思います。

ただし、ゼキの研究は単純矩形に人間の脳が特別に反応する現象について、先天的なものか後天的なものかが明らかに出来ていないため、「経験の蓄積=イデア(理想)」と述べている箇所があることは、ゼキの理論の自己矛盾と言えるかもしれません。

投稿: 通りすがり | 2016年12月11日 (日) 03時37分

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