« SONY "PLAY YOU"新CM:大宮光陵高校出演!(12/13〜) | トップページ | モーツァルト番外:カンナビヒの交響曲から »

2008年12月10日 (水)

モーツァルト:マンハイムでのピアノソナタ(7、9番)

心臓移植への応援の願いサイト「大樹君を救う会」
http://savedm.web.fc2.com/
・・・是非、お目通し下さい。



大宮光陵高校管弦楽部がSONYのウォークマン"Play You"のCMに12月13日から出演します!

その大宮光陵高等学校第23回定期演奏会(12月14日)のご案内を掲載しております。

ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。

ミュンヘンでの就職活動が実を結ばず、モーツァルト母子は1777年10月には父の故郷アウグスブルクに、そしてその月のうちには数ヶ所の経由地を経て30日にはマンハイムに至ります。

今回ご紹介するピアノソナタは、マンハイムでの就職運動の方は成功するだろう、との明るい見通しのうちに書かれた作品で、翌年3月中旬まで滞在し父を憂慮させることになるこの街での最初の作品群です。
伝記的な事は伝記にまかせるのがよろしいようで・・・書簡集を読みつつ、それを痛切に感じました・・・私のすべきことは、はあくまで作品を見つめる、必要ならばそれを伝記的事実と突き合わせる、程度に留めておくことなのだな、と思っております。
そう言う観点からいきますと、2つのピアノソナタとも、3年前に(奇しくも)ミュンヘンで書かれた6曲のソナタの延長線上にあり、すでに3年前成し遂げていた成熟の域から、表面上は「目立つ」ほどの発展を遂げているようには聞こえません。クリスチャン・バッハ風、すなわち前古典派風の雰囲気からの脱皮がないから、であり、そこから多少発展したものが聴き取れたにしても、同時代の作曲家たちの「疾風怒濤(シュトルム ウント ドランク)」と一線を画すほど個性的であるとはいえない、からです。

ところが、それはあくまで「耳の印象」であって・・・そういう意味では「印象」が聴衆のためには無難であったことが災いしたのでしょうか・・・、ヴォルフガング自身のクラヴィア演奏にはマンハイムの人々も感嘆し、マンハイム滞在の最後の方では彼の作品ばかりの演奏会が催されるほど評判にもなったのですが、結局は、当地の並みいる優秀な音楽家たち(代表的なのはカンナビヒとラムでしょうか)以上の価値を当地のプファルツ選定候やその側近たちに認知させるには至りませんでした。



音楽というのは、如何に工夫を凝らして書かれても、それを「聴き取れる」耳の持ち主に出会えなければ、まず価値が理解されません。仮に理解者に恵まれたとして、その理解者が「有力者」であって、自分を養ってくれる財力もしくは権威を持っていなければ、実利に結びつくことがありません。
ヴォルフガングの場合、カンナビヒやラムという、本当に彼の音楽の価値を分かってくれる人々と出会うことは出来たのですが、この理解者たちはヴォルフガングの同業者であって、雇い主になるというわけには行きません。で、ヴォルフガングは、肝心の、選帝候やその有力側近からは特段高い評価を得られませんでした。
マンハイム、という地では、それも仕方のないことだったかも知れません。
ヴォルフガングを理解してくれた人たち自身が、すでに、当時ヨーロッパの第一人者でした。選帝候や側近たちは、もう充分なだけの音楽の第一人者に取り巻かれていたのです。ヴォルフガングの音楽が「それ以上の価値を持つ」ようには聞こえない以上(発せられる音の効果面では、ヴォルフガングの作品が素人耳に他の第一人者から突出して判別できるほどの個性ではなかった事は確かです)、候を中心とした為政者たちは、もう今以上に音楽に予算をつぎ込む必要はなかったのです。
ヴォルフガングの言い分を聞いて(書簡で読んで)このあたりの「見込み違い」にいち早く気づいたのは、離れていた父、レオポルトの方でした。母アンナは、それほど敏感だったとは思われず、当初はヴォルフガングのマンハイムに来てからの忙しさに、ただ目を丸くしているだけのようです。
あ。
伝記的な事からは、離れるのでしたね。
とにかく、気づいた父の必死の工作は、マンハイムではとても見込みがないことを早くも察した時点から始められるのですが、このことは次回以降で史料の助けを借りながら、ちょっとだけ覗き見することにしましょう。・・・「詳しくはお手元の伝記で!」で充分な話、ではあります。

ただ、今回、2作のピアノソナタを見ておく上で大事なポイントは、これらのソナタが
・創作という面では思いがけないほどの工夫をしていること
・でありながら、工夫の痕跡を消すために「自然な連続」を重んじた加工を施していること
・その結果、響きとしては前衛的なものはなく、一般聴衆には「無難」であっただろうこと
を上げておかなければなりません。



マンハイムで作曲されたピアノソナタは、ハ長調K.309(第7番、父宛の書簡【全集366番、第2分冊109頁41行目以降】から77年11月8日完成と推測される)、ニ長調K.311(第9番、77年11月頃、海老澤説ではおそらく初旬)の2作です。

アルフレート・アインシュタインは、ハ長調について10月22日にアウグスブルクで即興演奏したソナタをもとに作り上げたかのように述べていますが(『モーツァルト その人間と作品』訳書334頁)、書簡(上記全集355番、第2分冊81頁。アインシュタインが上記の根拠として10月24日付として掲載している書簡は23日から25日にかけて綴られたこの書簡の一部で、ソナタに関しては84頁にある105行目に、同日の彼の協奏曲を中心としたコンサートのしめくくりとしてハ長調のソナタを弾いたことが記されているのは間違いありません)には確かにヴォルフガングの作品の小さな演奏会が催された事実は記載されているものの、アインシュタインが述べていることの完璧な証拠は認められませんし、NMA(新モーツァルト全集)の解説にもそうした事実があったとは述べられていません。
それ以外のことについては、ハ長調K.309は彼のピアノソナタの中でも作曲の経緯が書簡を通じてよく知り得るものとして有名です。
前掲11月7日付けの書簡から、このソナタのロンドが「カンナビヒの娘、ローザのために」作曲されていることが分かりますし、彼女がこのソナタのアンダンテを素晴らしく弾いたことが12月6日の書簡(上記全集386、第2分冊170頁26行以下参照)に述べられていたりします。かつ、このアンダンテはローザの性格を描写したものだ(同上36行以下参照)、ということについても、同日の書簡で明言されていますが、これまた有名なエピソードです。

ニ長調K.311については、時期・作曲経緯とも推測しか出来ないようですが(時期は自筆譜の用紙から推定できるのでしょうか、NMA掲載のたった一葉の写真ではK.309と用紙も筆跡も異なるのが明白なだけに、私には推測の方法がどうなされたのか、見当がつきません)、アウグスブルクで意気投合したいとこのベーズレにソナタを作ってやることを事前に約束していたことが分かっていますので、それがこの作品に結実したのではないか、というのが、NMAの所説です。



マンハイムの2曲のソナタの作風について、アインシュタインが適切な特記をしていますので、それを掲載すればすべてが尽くせてしまうも同然です。

「二つのソナタにおいては、楽器の中音部が新しく鳴りはじめる。どちらのソナタにおいても左手はもはやただの伴奏ではなく、対話の重要なパートナーである。」(訳書335頁)
ただし、続く「両ソナタともコンチェルト風である」は、ちょっと言い過ぎの感じがします。とくに、有名なエピソードを持つK.309の第2楽章(アンダンテ)を「コンチェルト」風と見なしてしまうと、ソロならではの繊細さが逆に見失われてしまう。アインシュタイン自身、この楽章に付いてはすぐ前の方に適切にも
「われわれはこの人(=カンナビヒの娘、ローザ)の性格を知らないから、この肖像画等を得ているかどうかの判断は出来ない。それは<愛くるしい>、<多感な>アンダンテで、たえず豊かに飾られてゆく主題の反復を持っている。」
と記していますのに、はからずも「コンチェルト風」とあとで述べてしまったことは、アインシュタインの意図とは逆に、マンハイムの2曲のソナタは、3年前のミュンヘンのソナタが獲得した豊かさ以上のものは表面的には人の耳には聴かせてくれない・・・内声を理解できる人だけがその発展に気づくのですが、内声というのはいちばん聴き取られにくい部分、その振舞によっては場所によって上声と・あるいはすぐ次には低声と寄り添ってしまう日和見屋さん、であって、ヴォルフガングは響きの充実によって内声のそのような「日和見主義的」正体を明かさない処理を行なっている、すなわち、聴衆になんとか受け入れられ易いように、まだ表出を抑えている部分があることを、潜在意識的には認めているのを露呈していることになります。



各曲の構成と、聴くべき若干のポイントを記しておきます。(ピアノをお弾きになる方は是非お試し頂きたいですし、聴くだけのかたにとっては名盤が豊富にあり、それぞれに演奏者が主眼としたいポイントが微妙に異なっているので、お好みの演奏を見つけて聴いて頂きたく存じます。)

C dur K.309
I. Allegro con spirito(4/4) 155小節、ソナタ形式
呈示部:第1主題1〜32小節、ただし14小節目に2番目の、21小節目に3番目の要素が出現
   :第2主題33〜58小節
展開部:59〜93小節。ト短調・ニ短調・イ短調、と、短調で推移していくのが特徴的
再現部:94小節から最後まで。101小節で第1主題の最もインパクトの強い動機を短調で響かせ、意表をつく〜こういう工夫をしても、その面白さに聴衆が耳を峙ててくれるのは、一瞬のこと。忘れ去られるんですよね。。。
II. Andante um poco adagio(3/4、ヘ長調)〜副主題を挟み込んだ小変奏曲です。が、「楽式」を型通りに捉えるのであれば「ロンド形式」としかいいようがありません。・・・こんな形式の見方では、つまらないな。主要主題をAとし、副主題を続くアルファベットで記しますと、次のような構成です。
A(1-8), A'(9-16), A''(17-32), B(33-44), A'''(45-52), B'(53-64), A''''(65-75), coda(76-79)
III. RONDEAU Allegro grazioso(2/4) 247小節〜これについては、構成のみ記します。
A(1-18), B(19-33), C(34-76), codetta(77-92), A(93-110), C'(111-115), D(=B' & C'', 116-188), A(189-209), coda(210-247)

D dur K.311
I. Allegro con spirito(4/4) 112小節、ソナタ形式
呈示部:第1主題1〜16小節。11小節目にいったん区切りあり。
    第2主題:第1要素17-23、第2要素24-29、第3要素30-39
展開部:呈示部の小結尾動機を主体としているところが新機軸だが、耳の印象ではむしろ「展開部に主要主題が現れない」クリスチャン・バッハ風、すなわちやや「古め(当時まだ決してそうではなかったはずなのですが)」に聞こえてしまう難があります。40-77小節
再現部:78〜112。最初からの再現ではなく、第1主題の途中からの再現であるのは、実は後期ロマン派を先取りしている現象です。ハイドンやベートーヴェンがこの手法を使っているのにはお目にかかったことがありません。シューマンはやっていますが、ブラームスはやってませんね。後継作品の典型例はドヴォルジャークの交響曲第8番、第1楽章です。
II. Andante con espressione(2/4、ト長調) 93小節
小振りな、可愛らしい楽章です。主要主題A、Bに小さな変形を加えながら、A(1-11)-経過句(12-16)-B(17-37)-A(38-50)-経過句(51-52)-B(53-74)-A(75-93)と進行します。
III. RONDEAU Allegro(6/8)、269小節
A(1-26)-B(27-40)-C(41-85)-A(86-118)-D(119-156)-E(157-172)-A(173-189)-B'(190-205)-C'(206-239)-coda(240-269)



演奏会も、是非足をお運び下さいませ。

L4WBanner20080616a.jpg


クラシックCD検索に便利!バナーをクリックして下さい!


sergjOさんの記事の便利なインデックスも是非ご活用下さい。


|

« SONY "PLAY YOU"新CM:大宮光陵高校出演!(12/13〜) | トップページ | モーツァルト番外:カンナビヒの交響曲から »

コメント

確かにこれらのソナタ、特にハ長調K309には
表面上は3年前の連作ソナタからの飛躍みたいなものは
聴き取れませんねえ。
(K311のほうは情緒面での細やかさが以前より
増しているのをはっきり聴くことができますが)
ただ、良い鍵盤楽器に出会うことが出来たためか、
より交響的なソナタに仕上がっていると思います。
個人的にはK311が好きです。

>このあたりの「見込み違い」

レオポルトは有力な宮廷に取り入るためにこそ、
息子が「表面上の個性」を追求することを厳しく戒めていたわけですが、
ヴォルフガングの音楽が、正にその表面上の個性の希薄さゆえに
選帝候やその有力側近にポストの空席を
用意させるに至らなかったのだとすれば、
これはもう、皮肉としか言いようがないですね。

投稿: Bunchou | 2008年12月12日 (金) 01時28分

Bunchouさん、遅いレスで済みません。

2曲のうちでは、K.311のほうが小振りなんですよね。草稿も、K.309より早書きしたことが、連桁の線から分かります。
それだけに、この作品の由来が分からないのは惜しいことです。おそらく、K.309よりは、なにか溢れてくる衝動に駆られて一気に作った、という印象があります。それが、規模的には小振り、作曲技法もそれほど凝っていない(ソナタ形式の再現部での第1主題省略も計算でやったものではないでしょう)にもかかわらず、内容としてはK.309よりデリケートなものを感じさせる仕上がりを見せる結果になったように思えてなりません。

それにしても、レオポルトの書簡は年明けに入ると急速に切羽詰まっていきます。彼は早い段階でかなり正確に事態の深刻さを把握したもののようです。口を酸っぱくして訴えなければ通じない、という焦りもあったかもしれません。彼が同行できないと分かった時点で、今回の旅行は取りやめるべきだった・・・そんな後悔で責めさいなまれていたのではないかと思うと、ちょっと気の毒です。

投稿: | 2008年12月13日 (土) 00時59分

こんにちは。

>なにか溢れてくる衝動に駆られて一気に作った
同感です。
個人的には、K311は彼のクラヴィーアソナタの中では初めて現れた「モーツァルトらしい」と言える曲だと思っています。
特に第2楽章のデリケートな音調はそれまでのソナタでは聴けないものでした。
また2曲とも、第1楽章の展開部の充実ぶりは指摘されるかもしれないですね。
K311では第二主題の第三要素(28~39)~~第三主題と呼ぶべきかもですが~~をしっかり活用して充実したものを作り出していると思います。
書法自体はハイドン風といえるでしょうか。

P.S 旧ブログのヴァイオリン協奏曲7番とK222の記事にコメントしましたので、そちらも見てやってくださいませ(汗

投稿: Bunchou | 2008年12月13日 (土) 15時43分

Bunchouさん、この曲始め、いろいろありがとうございます。
全部目を通させて頂きました。

恐縮ですが、いま、諸般の事情ですぐにお返しが出来ずにおります。
必ずいたしますので、お時間頂けますようお願い申し上げます。

本当に、ごめんなさい。

投稿: ken | 2008年12月13日 (土) 15時47分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/208675/43382340

この記事へのトラックバック一覧です: モーツァルト:マンハイムでのピアノソナタ(7、9番):

« SONY "PLAY YOU"新CM:大宮光陵高校出演!(12/13〜) | トップページ | モーツァルト番外:カンナビヒの交響曲から »