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2008年11月30日 (日)

奏法と歴史の<より正しい>読み方:ゲオルギアーデス『音楽と言語』

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・・・是非、お目通し下さい。



大宮光陵高等学校第23回定期演奏会(12月14日)のご案内を掲載しております。

私たちのアマチュアオーケストラの今日の練習には、信頼する先輩Hさん(ヴィオラ)が参加して下さいました。
冷静な耳を発揮して、幾つも適切なコメントを入れて下さいましたが、中でも
「ここのところ、和声が変化しているはずなのに、それが聞こえない。変化をちゃんと聞かせましょう」
数ヶ所でそう指摘して下さったことに、大変有難味を感じました。
さらに、こうも仰って下さいましたね。
「(アンアサンブルの)バランスをとる、というのは、(主要ではない音を割り当てられたパートが)縮こまる必要はないので、伸び伸び弾いていていいのです」
・・・要するに、演奏する肉体はフリーにしておいて、和声として響く音のバランスに応じた奏法をリラックスした状態でとれればいい、ということです。

211py9p028l_sl500_aa140_楽器の奏法と身体の関係については、ピアノ、次いでヴァイオリンくらいしか、その問題だけに特化した本は出ていません。かつ、それらも、必ずしも「役立つ」ものではありません。何故なら、本来、どんな楽器でも、その音を出すのに最も必要な部分がリラックスしてさえいればいいので、それについて
「発音するときの自分の体の、どこが余分に緊張しているか・・・それを解くにはどうしたらいいのか」
を自分自身で見つめられれば事足りるのですが、それがなかなか見つけられないのが「自分」というものの限界です。
演奏と肉体の関係をいくら活字で読んでも、その中から<まさにこの自分のかかえている問題点>を<自分自身>が理解していなければ、どの個所に、自分にふさわしい解決方法が記されているかを見出すことが、そもそも不可能です。

せめて初歩的な「自分の奏法上の欠点」を理解し、改善ないしは難易度の高い場合の「困難からの逃れ方」を見い出すことが演奏者に課せられた宿題の第一歩でして、今日ご紹介する書籍は、ここまでの条件を読者が満たしていることを条件に読まなければならない、という点で、ややハードルが高いものではあります。

とはいえ、文庫化されていることによって比較的手に入り易く、演奏者だけではなく、クラシック音楽を本質から知りたい場合には、その入手し易さが信じがたいほど、非常に高い価値があります。
是非お手にとられ、何度も通読するつもりでお読み頂ければよろしいのではないかと思います。



ゲオルギアーデス、という名前からも察せられる通り、著者はギリシャ人です。が、本書
『音楽と言語』(木村 敏 訳 講談社学術文庫1108、1,050円)
は著者の経歴から、とくにバロック後期以降はドイツ音楽を中心に記述が展開しています。

標題から察せられる通り、音楽が言葉とどのような結びつきを持って来たか、それが現代(ゲオルギアーデスに於ける現代は1950年代ですが)ではどのような様相を呈しているか、について、言語については最少限の考慮で済むように「ミサ通常文(ラテン語)」に付けられた音楽をもって、その変遷と変異の原因を探るという構成をとっています。・・・言語という面のみからでも充分読みごたえがあるものですから、音譜が読めない「鑑賞者」のかたにもお勧めできるとの感触をもっております。
難点を言えば、バロック初期まではラテン語が主材料ですので、モンテヴェルディのイタリア語に対する貢献は等閑視されています。加えて不公平なことには、次代を担う作曲家シュッツの登場以降は、音楽と共に観察される言語が急に「ドイツ語」に置き換えられてしまい、以降、ウィーン古典派までの音楽史を辿る上ではドイツ音楽に遍した記述となってしまっていますが、もととなった講義自体がドイツでのものですから、ゲオルギアーデスの主張は、もし読者が彼の論に納得できるのであれば、イギリス音楽(英語)、フランス音楽(フランス語)、モンテヴェルディの作品を含むイタリア音楽(イタリア語)で、それぞれに検証し直せば、ドイツにおいてシュッツからバッハへの流れが果たした「言語アクセントと非和声音の効果」の関係について、各言語からも類似した「音楽の変異過程」が引き出せるものと思います。

そうした面倒なことよりも大切な点は、ゲオルギアーデスが、言語のどのような要請から、歴史的に、音楽の「線と重なり」が今判明しているような古典派・ロマン派での決着に至ったのか、を明解に辿ることに成功しているところにあります。

けっして容易に読める本ではありませんけれど、「和声」が「和声学」で考えなければ分からないシロモノではなく、音楽作品が要請しているものをキチンと読み解けば、「音の重なり」という立体の中で何が最も重要なのか、を音楽が教えてくれるのだ、とこの書はきちんと解き明かしてくれます。
「音楽が要請するものとは何か」を実証的に述べた本としては、こんにちなお、もっともまとまった書籍だと思いますので、オーケストラの団員の皆様にも、本記事の(数少ない)読者のかたにも、「音楽の求めるもの」の姿に一歩でも近づいて頂くために、ご一読をお勧めします。

実は、私はこの本を初めて読んでからずいぶん経つのですが、先日、17世紀のイタリア音楽の「見直し」を迫られて初めて、本書の素晴らしさにやっと気づいた、というお恥ずかしいていたらくです。(本書は、パレストリーナの音楽の言語との兼ね合いについての視点は、私が得たものと相違点もありますが、マショーからデュファイ、ジョスカンまでとの差異を的確に見つめている点は、さすが専門家にして大権威【権威とはこういう研究態度に向けて初めて冠してよい言葉ではないでしょうか】である、と、読んでいて心がふるえるのを覚えました。)

「現代」になると急に、ドイツとは音楽上結びつきのないストラヴィンスキーを持ち出している、という奇妙さだけは気になるところですが(当時、ラテン語のミサに真っ当に取り組んだドイツ人作曲家はいなかったかも知れませんから、いたしかたなかったのでしょうか)、古代ギリシャからの音楽のあり方をしっかり一本の線で貫いて記述していますから、最近ありがちな「現代音楽は終末である」的な音楽史を展開していないところも異色です。

本書で彼のひいている一本の線は、西洋音楽の<より正しい>理解と奏法への、歴史という財産に支えられた、素晴らしい糸であると思います。願わくば、それがこれからの私たちが音楽に天国を求める際には「蜘蛛の糸」とはなりませんように。。。


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コメント

初めまして、ご意見をいただけたらと思います。
ゲオルギアーデスの『音楽と言語』p17で、古代ギリシャ語のリズムは長短リズム(ドイツ語でQuantitaetsrhythmik)であり西欧の拍節(ドイツ語でTakt)とは違って、シラブルの長短の間の比が固定で2:1だとされています(西欧言語ではシラブルの長短が収縮するとしています)が、すると、古代ギリシャ語のリズムは日本語における拍(モーラ)基準のリズムと同じであり、「ドイツ/西欧、の動的リズム 対 日本;古代ギリシャ、の固定リズム」という図式になるでしょうか。

投稿: Aristogeles | 2016年3月23日 (水) 15時56分

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