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2008年11月 7日 (金)

「メサイア」序曲:娘の誕生日に寄せて

心臓移植への応援の願いサイト「大樹君を救う会」
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・・・是非、お目通し下さい。



ファジル・サイのつくば公演もお聴き逃しなく!
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「メサイア」(ヘンデル作曲)から、序曲を聴いて頂きます。

カール・リヒター/ミュンヘン・バッハ管弦楽団と合唱団によるドイツ語版の演奏です。
演奏自体は、私が初めて買った、当時6,000円くらいのLPだった(ずっと欲しくて、貯金しました)ものがCD化されたのを入手しました。ヘンデルはドイツ生まれだったので、私はずっと「メサイアドイツ語で当然」と信じ込んでいました。大学生の頃、毎年暮れにアルバイトでメサイアの演奏に参加することになり、それで初めて「あ・・・英語がホントなんだ!」と知った、なんて思い出があります。
バロック演奏の研究が進んで、リヒターのこの録音のすぐ後には、この序曲のような音型は複付点で演奏されるのが当たり前になりましたが、たとえ時代感にはそぐわなくても、私は今でも、この「記譜を素直に読んだ」この演奏の、切々としたものを内に秘めた重々しさの方が好ましく思われます。

「メサイア」じたいが私にとってどれだけ思い出深い曲かについては、家内の死の2日前に綴りました
かつ・・・娘の誕生日には一見ふさわしくない、とお思いになられてしまうかもしれませんが・・・家内の通夜で、会場でずっと流しつづけてもらった曲でもあります。



娘が朝7時ごろに生まれた、ちょうどその日、私は「メサイア」の全曲演奏会に出演しました。
生まれてきた子供・産んだ妻・私を、世界が祝福してくれた・・・そして、これからも守り続けてくれる・・・そう信じて、喜びに溢れて、演奏に参加していました。

16年経ちました。
途中、試練はいくつもありました。小さなものは、省きます。節目だったかなあ、と思い返すことを。

まずは「共稼ぎ」の苦しみ。「彼女の仕事を絶対やめさせない」と約束しての結婚でしたし、女性も自分の仕事をしっかり持っていることには私自身賛成でした。家内の働いてきた教員の世界では、ごく普通のことでもあります。収入云々ではなかった。ですが、サラリーマン社会である私の方は、周囲から「まだ奥さんを働かせているのか?」「ダブルインカムでいいねえ!」さんざんに皮肉られました。そのうえ、サラリーマンのリズムは教員のリズムと業務上だいぶ違いますから、女房は一言も口にしたことはありませんでしたけれど、辛いこともあったのではないかな、と思います。私のほうも、帰宅してもまともに迎えてもらえない日が結構あるのは内心は不満でした。・・・ですが、それを二人の信頼関係で乗り切ってきた、ということは、今になって、胸を張って言えると思います。ご近所の何人ものかたに、
「いつも一緒に過ごしているのがうらやましかった」
と言っていただけましたから。

次は、意に添わない転居。女房が散々申請したにも関わらず、行政の配慮はもらえず、住む場所を変えざるを得ない異動を、娘が1歳になって数ヵ月後に強いられました。新居を決めるまで毎晩、女房は泣いて帰宅していました。・・・これも、マンションであるにも関わらず、お互いに困ったときは助け合ういいご近所に恵まれたいまの住まいに落ち着けたことで、むしろ幸せに転じたもの、と思っております。

女房の、新しい勤務先が、当時は問題でした。非行に走る生徒の多い学校でした。女房は、その中でもいちばんたちの悪い生徒を扱ってノイローゼ寸前にまで追い込まれ、私は結婚当初の約束を破る決心をして、あちらこちらに
「うちの家内は仕事をやめさせます」
と宣言しました。
ところが、いいかたがいらして、女房が辞意を漏らしたとき、女房がそれまで培ってきた精神的財産の大切さ、それを失ってしまうことの勿体無さ、を順々と諭して下さったようです。
私より割り切りの早い女房は、私の工作を一瞬にして棒に振り、勤務継続を決めて帰ってきました。私ががっかりしたのは、言うまでもありません。ですが、結果的に、家内は残りの人生を、本当に充実させることが出来たのでしょう。

女房のノイローゼが収まった、と安堵していたところへ、今度は、私が、ある事情で「うつ」になってしまいました。これが長引いたのが、最大の誤算だったかも知れません。職場を異動になり、ああ、治りかけたかな、といったん思ったところで、薬の減らし方に失敗し、「うつ」は長引くことになりました。2年を経て、薬を減らしなおし、お医者に
「あと1ヶ月くらいで、残りの薬も止められるかも」
と言って頂け、女房がとてもよろこんでくれたのが、おととしの12月の初めでした。折りしも、娘の進学する高校の選択に、母娘で一生懸命になっているところでした。ブラスバンドの顧問を長年務めた母の背中を友達に「カッコいいね!」といわれたのが嬉しくて、娘は中学に進学するなりブラスバンドに入りましたし、2年生になって間もなく、音楽の専門の勉強をしたい、と意志も固めていましたから、連日、高校のパンフレットを集めては母子でああでもないこうでもないと談笑し、それを脇で耳にするばかりの私は、ただ羨ましくて仕方がありませんでした。

女房が倒れたのは、クリスマスの日、市民音楽祭に自分の生徒達と参加しに行っている最中のことでした。つい数日前には、おりから親子でテレビで楽しんでいた「のだめ」の撮影現場である大学に出かけ、トロンボーンのコンテスト見学のはずが、
「あ、ここが、あの場面の撮影現場だ!」
と、そればっかり見て、はしゃぎまくって帰宅しましたので、呆れて物が言えませんでしたが・・・その「のだめ」の、最終回の日でもありました。
苦しかった女房が、いちばん楽しみにしていた「のだめ」の最終回をテレビで見ることが出来るはずも無く、救急で運ばれた医者には入院は認めてもらえず(仮にそこに入院しても、病院の質を考えると助からなかったのは同じだったかもしれません)、夜、私の肩につかまらせて、
「明日、朝一番で、いい病院に行こう」
そう言いあって帰宅しましたが、女房は、その朝を待つことがありませんでした。
夜中の2時に一緒に横になって、4時にふと気がついたら、隣にいない。慌てて飛び起きて、洗面所に倒れている家内を発見しました。たったの2時間のあいだでした。

苦しむ時間が最小限で済んだ・・・しかも、最後のその日まで生徒に慕ってもらえた彼女は、幸せな死に方をしたのだ、と、私は私に言い聞かせていますが、彼女の方もそう思っているだろうと信じています。



母を失って、でも、娘はよく、そのあとも気丈に頑張ってくれたと思っています。
2ヶ月後のソロコンテストでは、トロフィーを持って帰ってきて、私を仰天させました。
音楽の学校に進むには足りない、と、縁を頼って見つけたソルフェージュの先生のところへ電車で通うようになり、最初は怖い目にもあって泣き泣き帰ってきましたが、電車でいやな目にあわないコツを私なりに伝授したら、すぐにそれをマスターして、まずは目標達成のために通い、当面の「志望校合格」を達成したいまも、素晴らしいその先生のご指導を、すすんで仰ぎつづけています。

母を失った、ということは(息子にとってもですが)大きな試練でしょう。
それでも、この子が生まれたときに受けた世界の祝福の意味は、もしかしたら、この「試練」に早い時期に直面することを予言していたのかも知れない、と、最近つくづく感じます。

演奏技術はまだまだ、ですし、勉強となると、もっとからしきダメ、ではありますけれど、少なくとも「めげない」強さは、父の私が恥じ入らなければならないほどに持っています。

「厳しさ」を力強く乗り切っていくことが、結局は娘が自立したときに最高の幸せをつかむ上で非常に大切なのでしょう。

「メサイア」の序曲は、それを音楽で的確に表した、非常に締まったつくりをしています。

「厳しさ」に直面して奮闘しているすべての人に、この機会にこの音楽をお聴きいただければと存じ、掲載した次第です。


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