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2008年11月 5日 (水)

少しでも「正しい」音楽理解とは?

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http://savedm.web.fc2.com/
・・・是非、お目通し下さい。



ネタ切れ、ではなくて、思考停止byフランチェン、です。

「古楽のピッチ」への素朴な疑問もひとつのきっかけではありますが、当たり前に、何も考えずに受け止めていることが、果たして「正しい」のかどうか、ということは、どんなことでも、突き詰めていけば、だいぶアヤシイ・・・そのことを思い知らされています。
(別に音楽に限ったことではないでしょうが。)

自分はだいたい大枠のターゲットを決めて記事にしていますので、そのために素人でも入手できる範囲の文献を手にし、読み込んでいけば、素人なりに面白いめっけもんがあるだろう、くらいに思って続けていますし、それで
「うーん、このトピックはまだ調べきっていないから、先にこっちを」
って具合にして、日替わりで話題を捜すのには事欠かないつもりでした。

いえ、今日も、ほんとうは事欠いているわけではないのです。

が、
「ダメだ、つっかえた!」
という局面にぶつかってしまいました。
話題を採り上げるのに「正しさ」だけにこだわるつもりはないのですが、本質をはずすのは最少限にしたいな、と思っております。
ところが、その本質が、ことごとく
「はずれている」
ことに、最近出てくる良書を通じ、集中して圧倒されています。中には、ついでに振り返ってみて、
「ああ、いかん、仕切り直しだ」
ということも出て来ています。



とくに「つっかえて」しまっている大きな二つについて少し述べると、こんな感じです。

・音楽史:ヨーロッパに関してはたくさんの本も出ているから、自分が深入りする必要はないだろう、と、その時代区分は「教科書通り」で観察しておけば良かろう、と決めつけていました。が、世界中の中世を通り過ぎ、ふたたび初期バロックと呼ばれる時期のイタリアに戻って来たところで、最近どうしても気になる2冊の本が出ましたから、立て続けに読み始めてみました。
佐藤望「ドイツ・バロック器楽論」(慶応義塾大学出版会、じつは2005年には出ていたようです)
東川清一編「対位法の変動・新音楽の胎動」(春秋社、2008年9月)
衝撃を受けています。
佐藤著のほうは、ドイツ器楽を扱っているとはいえ、もっと汎ヨーロッパ的に、私達の中に常識化された音楽のジャンル分類に一石を投じるものでした。ひとつの例をとれば、「シンフォニア」という用語は当初声楽作品もあった(たしかに、シュッツの「シンフォニア・サクレ」などは有名です)、にもかかわらず、従来の「交響曲・シンフォニア」をまとめた(少なくとも日本の)書籍では、声楽シンフォニアを採り上げた例は全くないことを、本書は指摘しています。その他にもさまざまな視点の変更が必要であることをこの本は教えてくれるのですが、なによりも、19〜20世紀のフィルタを経て築かれた音楽ジャンル観が、フィルタを批判して来た人たちによってもまだ殆どなにも取り除かれていないこと、「17〜18世紀当時の人々の<発想>で音楽ジャンルがどう捉えられていたか」の原点に帰っていないことを、痛いほど思い知らされます。
今日やっと手にした東川編のほうも、スポットを当てる部分は違うものの、こちらは「モンテヴェルディは17世紀当時の新音楽の、パレストリーナは同時期の旧音楽の代表例だ」という<常識>を足下から突き崩す内容で、私が前回記した音楽史のイタリアの記事について、見直しの必要を迫るものです。具体的には対位法の教科書で勉強なさったことのある方にでないと言葉で伝えにくい部分があり、まだ自分の中で噛み砕けていないのですが、対位法の発生と発展を見直してみると、じつはパレストリーナもモンテヴェルディも、ルネサンスから初期バロック当時の<新音楽>の両横綱だった、と見なすのがずっと妥当なのです。・・・これを、どう自分の中で体系付けしなおさなければならないか、に、非常な戸惑いを覚えております。

・音楽美の認知
指針にしているゼキ(美術と視覚の関係を扱っている)が<イデア>という「哲学用語」を誤用していることに気づいてからもそのまますすめて来ましたが、第1部まで読み終え、考察し終えたところで、では<イデア>とは何であるか、の見直しをする必要に迫られています。これが、少し時間を必要としそうです。プラトンの述べているイデアとはどんなものか、までは、幾多の対話編を読むよりも「プラトン入門」を読んだ方がはるかにスッキリ理解できます。ですが、これ以降は、はウィトゲンシュタインが「科学の上か下に」使うものだ、という「論理学」の目を通して、プラトンが述べているそのままの<イデア>を、プラトン自身の「対話編」を論理で評価したところから再出発しないと、第二部以降で認知の細目に入っていくゼキの著作に対して適切な目での観察が出来ない。・・・ですので、まず今は、論理学の初歩程度は見直しておき、そのうえで、<イデア>を語る上で欠かせない掌編「メノン」を読み解くところから再出発することが、どうしても必要です。



特に後者は人様にそう関心をもって頂ける内容ではないのですが、学生時代に「知覚・感覚」を専攻しながら輪郭もつかめず失望を感じ続けて来た自分自身にとりましては最も重い課題です。

したがって、こうやって唸っているあいだに、そこまでの深いツッコミをせずともやってこれていたモーツァルト観察も停滞していますけれど、当面、西欧音楽の近世への見直し・知覚へのアプローチを深めるための勉強を少しの期間、ちょっと水面下でやっておきたいと思っております。

その分、日々の記事は当面「お気軽」に走ることになるかと思いますが、小浜市、じゃねえや、オバマ氏が次期アメリカ大統領に決まった今日、自分の心も新たにしたいことをこの場で表明し、ご寛恕を乞う次第です。

今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。


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