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2008年11月17日 (月)

曲解音楽史48)見直し:17世紀イタリア〜西欧音楽史だけが詳しい理由

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前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
    34)イスラムと西欧の融合 35)ルネサンス? 36)フランドル楽派 37)16世紀スペイン
    38)16世紀中南米 39)15-16世紀イタリア 40)英仏戦争の頃 41)15-16世紀中欧
    42)オスマントルコ 43)アフリカ 44)明朝時代の「中国」 45)朝鮮中世
    46)戦国期日本 47)17世紀イタリア1



「パトロンと組んだペーリ」によるオペラ創始がカメラータの「良心的な」取り組みを帳消しにした、との前回の私の発言は、その後ペーリに対して大変失礼であることを悟り、ペーリさんに申し訳なく思っております。いずれにせよ、これまで少なくとも私が持っていた「旧音楽と新音楽の間の断裂」は存在しないことを、8月に刊行された東川清一編『対位法の変動・新音楽の胎動』で知り、非常に衝撃を受けました。以下は、それによる、17世紀イタリア音楽についての見方を仕切り直したものです。


そもそも、通史としての「西洋音楽史」は、どれだけ分厚くしても史料の全てを網羅するわけにはいきません。史料を一部だけ載せたとしても、それが誇張して目に訴えかけることにより歴史理解への公平さを損ねる結果となり、方法として適切ではありません(このことは音楽の歴史に限りません)。そのため、通史は犠牲にしなければならない「時代の側面」をもまた、豊富に孕むことになるのが宿命です。通史ではない書にある半端な史料の掲載は、たとえば私のような浅薄な読者が歴史を誤解する、ということにつながります。今回のペーリへの誤った認識なども、そうした誤認の典型だといえるかもしれません。
かつ、今回の誤認自覚を通して思い知らされたのは、なぜ「音楽史」が西欧以外では詳細に描き得ないか、の意味の大きさです。
同じ印欧語族系諸地域と比較しても、西欧は宗教儀礼の中で音楽の占める位置が高かった。それは、西欧諸国が古代以後名目化したはずの「ローマの権威」を自国が手中に収めることを覇権の至上目的としたことに関わります。それは同時に、教皇によってシンボル化されていたローマ・カトリックによる裏付けを必要としていました。そのローマ・カトリックは、権威を確実にするための「神・キリスト・精霊」の一体化を証明しうる存在論を持つ必要から、古代ローマ帝国からヘレニズム時代の哲学を継承せざるを得ませんでした。ヘレニズムの哲学が追求し続けたのは「調和」です。その象徴として都合が良かったのが、ピュタゴラス以来の音楽論を整理して至高のイデアを描いてみせたプラトーンの思想でした・・・蛇足ですから読みとばして頂いて結構ですが、これは昨日の記事で述べた「音の<原子論>」的な見方とは厳密には対立しますが、神学全般で見れば、調和するものは分割し得る・分割し得るものは調和する、とトマス=アクィナスによって具合よく統合され、問題化せずに済んでいました・・・。
かくして、音楽が「調和」=「三位一体」の高みを象徴する、という見方から非常に重視されたのが、西欧音楽の最大の特徴です。
アジアでは珍しく7・8世紀の音楽の原型を垣間見ることの出来る日本音楽と比較すると、これが西欧独自の特徴であることがいっそう浮き彫りに出来ると思われます。日本の音楽は「調和」の象徴ではなく、「権威を飾る」道具に留まりました。「神々の存在」は自明であり、それをさらに「象徴化する」裏付けは必要とされませんでした。ただし、特別な「荘厳具」であったことには違いはなく、このことは(民衆的と言えるはずの平家琵琶でさえも)音楽が口伝の秘事として伝承されて来たことに、よくあらわれています。同様のことは、おそらく、古代エジプトやメソポタミアでも言えたでしょうし、今日なお、ヒンズーやイスラムの音楽も日本と似たかたちで伝承されています。


ペーリに話を戻します。
『対位法の変動・新音楽の台頭』には、気鋭の音楽学者パリスカによる「ペーリとレチタティーヴォ理論」の副題を持つ論考(正タイトルは「新音楽の始まり」、佐竹淳 訳)が収められています。これはペーリ自身の発言の引用を主とし、パリスカはそれに客観的な見解を付加しているという体裁の謙虚なものですが、そのためいっそう、パトロンなどと言うものは全く問題にすべきではない、ペーリの音楽と言葉の兼ね合いに対する真摯な取り組みがよく見えて来ます。
ペーリは「歌でも語りでもない」声楽をオペラの中に取り込むことに腐心し、「レチタティーヴォ理論」を独自に完成させたのでした。その恩恵には、19世紀の作曲家たち(ヴァーグナー系を除く)までが受けています。
ペーリの打ち立てた「レチタティーヴォ理論」は、語り手が喜びや悲しみを感情そのままに語るそのイントネーションに旋律付けしたもので、一連のイントネーションが続く間、低音部は長く引き延ばしたままにしておく、というものでした。それは、「語り」側の歌が如何に激しく動こうとも、その間に現れる「不協和」は全く気にならない、という発見・確信に裏付けられたものでした(同書p.125〜126)。このペーリの発見し利用した技法は、以後、300年の寿命を保つのです。
そもそも何故ペーリがこのようなことを意図したかの根底には、特にメーイという理論家が指摘した
「対位法の複雑化により歌詞が充分聞き取れない歌が多作されるようになった」
すなわち、歌があるべき目的を逸脱していた当時の実情があります。
歌は、歌われる言葉の意味が明らかになってこそ初めて本来の役割を果たすのですから、メーイの指摘は当然だったと言えるでしょう。フランドル楽派最後の巨匠であるジョスカン・デ・プレさえもが、メーイの指摘する逸脱を犯していたのでした。

・かわいいしし鼻娘(カミュゼット)


メーイの指摘を最も明解に解決したのは、ペーリと時を同じくして活躍したカッチーニでした。彼は出版した最初の歌曲集に「レ・ヌウォヴォ・ムージケ(新音楽)」というタイトルをつけ、モノディ様式すなわち単旋律の作法を展開しました。この曲集には有名な「アマリリ麗し」なども含まれますが、曲によっては、和声付けしてみると、いわゆる禁則を犯してる部分が何ヶ所か聞き取れます。ですが、歌そのものの美しさと言葉の明確さを単旋律により一致させた彼の方法は、禁則を恐れる必要が全くないという点で、ペーリの延長線上にあったと言えます。

・Movetevi a` pieta`

J.Savall/Montserrat Figueras/Schola Cantorum/Basiliensis deutsce harmonia mundi


180pxgiovanni_pierluigi_da_palestriメーイの主張に同調しながらも、しかし、ローマを中心とした教会音楽への関与者たちは対位法をそう易々と放棄するわけには行きませんでした。有名な天文学の父であったカメラータのガリレイにしても、対位法の完全な否認には躊躇していることが読み取れます(同書p.107)。 そうした中で、対位法を捨てぬまま言葉を可能な限り明確に保とうと努力し、最大の成果を上げたのがパレストリーナだったのでして、それゆえ彼を「旧音楽の最後の大家」と見なすことは妥当ではなかったのでした。このことが理解できて初めて、なぜ彼の対位法(正確にはそれを継承したと自認したフックスの対位法)が古典派はおろかロマン派の時代まで最重要視されたかの本当の意味も理解できるのです。 対位法のルールを守りながら、ユーモアを含め、言葉のムードを守ることに成功した, パレストリーナによるマドリガルの作例をお聴き下さい。これが、神々しい美しさを湛えたミサ曲・モテットを作曲した同じ人の手になるものであることは、ちょっと驚きではないでしょうか?

・ontan dalla mia diva

Concerto Italiano BRILLIANT 93364


180pxclaudio_monteverdiカッチーニやパレストリーナの方法を、最終的に「打ち破った」のがモンテヴェルディです。それゆえ、彼は当時最大の音楽理論家で寛容な人柄でもあったアルトゥージから「ルール違反」をやんわりと指摘されることにつながりました。モンテヴェルディは、カッチーニのように情緒を第一にした旋律作りをしておきながら、モノディではなく、パレストリーナのように対位法的な伴奏付きの音楽を書きました。それにより、彼の対位法上の「ルール違反」は良識ある人々には際立ったものに聞こえたに違いありません。 アルトゥ−ジは、モンテヴェルディの「ルール違反」を指摘するにあたっても、決してモンテヴェルディを名指しにすることは無かったのでした。 むしろ、噛み付いたのはモンテヴェルディ陣営の方で、それがアルトゥージを(ロマン派時代のハンスリック同様)音楽史上不遇な人物にしてしまったのでした。 「一定時間持続する<不快>の後に協和が訪れることによって、聴衆はより大きな快感を得るのだ」 というのが、かいつまんで言えば、モンテヴェルディ側の主張であり、実際に音楽をよりくっきりとドラマチックにし得たのは事実です。これが世に言う「第2の書法」というシロモノですが、「第2の書法」はモンテヴェルディの天才にして初めて充分に生きたものとなっていたのであり、彼の死をもって実質的には瀕死状態となってしまったと見てよいのではないか、と思っていますが、そのことはまた次の機会に見ていくこととしましょう。

モンテヴェルディがアルトゥージに指摘された禁則を犯している作例をひとつお聴き頂いて、本日はおしまいといたします。(理屈になるので、忘れて頂いて結構ですが、なにがこの作品上での禁則なのかの一例を注記しておきます。聴いて頂く作例のソプラノに、前の小節の終わりでは和声にハマっていた音程を、その次の小節の冒頭の強拍部分で、あらためて区切って歌うところがあるのです。が、そうするとこの音程は和声にはハマらないものとなります。従って、耳には不快に響く、ということになります。対位法上の、あるいは和声法上の正しいルールでは、こういう場合は前の音を次の小節の冒頭部とは区切らないでおかなければなりません【繋留、といいます】。そのことによって、和声にハマらない音程でも<非和声音>として許容されることになるのです。・・・モンテヴェルディは、勿論このルールを知っていて、あえてわざと区切っているのです。・・・他にも音程進行で禁則にあたるものが聞き取れます。)

・Lamento della Ninfa

Ensemble Concerto BRILLIANT 99710/6
                       


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コメント

曲解音楽史、いつも読むたびに頭を掻いております。m(_ _)m

「カメラータ」の音楽家が生み出したモノディ様式からやがてオペラが生まれる…という話は音楽史ものに書いてありますが、通奏低音の誕生でもあったのですね。朗唱を支える低音パートからはじまったようなのです。またほかの本では、バッハの存在がバロック音楽理解を複雑にしているという一文も見かけました。フーガやカノンといった対位法の時代のように思われがちだけれど、どちらかという協奏曲、通奏低音の時代ととらえたほうがよいという内容でした。たしかにそうだと思います。またフランドル楽派の影響による複雑な対位法書法ではかんじんの歌詞が聞き取れないからなんとかせよ、という教皇庁の圧力も働いた結果、パレストリーナ、そしてもっと革新的なモンテヴェルディへとつづくわけですね! 頷きながら拝読させていただきました。m(_ _)m

書法上の禁則、という点では、バッハも基本的にはモンテヴェルディとおなじでした。「フーガの技法」のような厳格な作品でさえもそうです。演奏されるじっさいの響きのよさを優先させていた証拠ですね。世俗歌曲と宗教声楽曲関連では、世俗の旋律を取り入れた例も多数見られますね。トリエント公会議以降も「ミサ・シネ・ノミネ」というかたちで世俗歌曲の旋律を定旋律として使いつづけたりしました。こういったことすべてがやがてバロック音楽へとつながっていったのでしょう(と、なんだか適当にお茶を濁していますが、浅学非才の身はこれにて遁走します)。世界史から見ると、バロックはまさに「絶対王政時代の音楽」ですね。以前、チェンバロ曲を聴いていたら、ある子どもに「貴族趣味だ!」なんて言われてしまいました。ある意味図星かも(笑)。

投稿: Curragh | 2008年11月24日 (月) 16時12分

Curraghさん、いつもありがとうござます。

なんだかかえって、私の狭い視野を補強して下さるようなコメントを頂けて、有り難くも身の縮む思いです。
バッハが対位法についてどう考えていたかを知るにはキルンベルガーの本がいい、ということなので、手元にあるのですが、なかなか手が付きません。ただ、パレストリーナの系統(フックスの有名な『グラドゥス・アド・パルナッスム』もその支流に過ぎず、クリスチャン・バッハやモーツァルトを指導したサンマルティーニの受け継いでいた、恐らくは書物になっていなかったヴァチカンそのものの『対位法』が本流だったのではないかと推測しているのですが)とバッハのものは明らかに違いますよね。Curraghさんに目を開いて頂いて聴きはじめたブクステフーデなんかを聴いていると、「ああ、大バッハは、こっちだ!」と感じます。
この次はガブリエリ経由でシュッツまで見ていって、そのあたりを確認したいと思っているのですが、なかなかに難関です。・・・そこを裏口から突破(つまりは、関所破り!)したら、また17世紀の海へ航海に出たいと思っております。「絶対王政のヨーロッパ」の音楽の様子も、海賊に限りなく近い当時のイギリス人航海者の足跡を辿りながら、ヨーロッパ人の絵界把握の広がりを見ていくことで、よりはっきり見えてくるといいんですけれど。そこまで出来るかどうか。
あらためてブレンダンの偉大さに乾杯!  ですね。

チェンバロ曲で貴族趣味!・・・子供の言うことは、恐ろしい。。。

投稿: ken | 2008年11月24日 (月) 23時55分

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