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2008年11月27日 (木)

サン=サーンス「死の舞踏」:好きな曲014

心臓移植への応援の願いサイト「大樹君を救う会」
http://savedm.web.fc2.com/
・・・是非、お目通し下さい。



ファジル・サイのつくば公演もお聴き逃しなく!
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/in-808f.html


「初老の回想録」が続きます。・・・さすがに、次回はちょっと宣伝、次次回は趣向の違う話にしたいと思っておりますが、どうなることやら。


Cd2a1836b1852576「仙台ユースシンフォニーオーケストラ」なるジュニアオケから連絡を貰うまで、私は地元にあるオーケストラは後年入学することになる大学の「交響楽団」だけだと思っていました。実際には私が中二のとき、1973年に社会人のアマチュアオーケストラが出来たばかりで、大学の方に比べれば認知度はまだまだ低いものでした。・・・このオーケストラは、しかしアマチュアに留まることは最初から考えていなかったようで、5年後にはプロとしての活動をはじめます。その際、張り切ってアマチュアで入団した友人数人が退団させられたかと思えば、本来専門の勉強をしたわけでもないのに居残ってコンサートマスターになったような人もいて(これは一般のアマチュアであり、かつ団をやめさせられた友人もいたことの裏返しの感情もあった私には、ご本人の技量から判断しても不可解で仕方ありませんでした)、さらにその5年後に芥川也寸志さんの指導を受けるようになるまでは、「まとも」な音楽を奏でていないのではないか、という不信感が、私なぞにはありました。ただ、プロ活動をはじめてからは、この団体から「仙台ユースシンフォニーオーケストラ」を「手伝っ(謙虚にも、<指導>などとはおっしゃいませんでした)」て下さった方がいらっしゃいました。・・・プロになったこの団体(現在の「仙台フィルハーモニー管弦楽団」)が「音楽で稼ぐ」まっとうな道を模索しはじめたちょうどその時期から、(それなりの事情はあったのですが)反比例するようにジュニアオケが凋落の道をたどったのは、たいへん残念なことでしたが、そのときの思いについては今回は綴りません。

こういう時期でしたので、地元で最も定評のあるオーケストラは大学の交響楽団で、その頃の有名指揮者の姿には、この大学の交響楽団を聴きにいくことで接することが出来たのでした。
しかも、今ではとても信じられないことですが、この大学オケ、その頃は昼夜2回公演を行っていて、たしか昼間の方が少し安く聴けたのだったかそうでなかったか、とにかく中学生でも明るいうちに聴きにいけるので、そこへ出掛けることで、いままで知らなかったり接することのなかったりした作曲家の作品にも、大学オケの演奏会で出会うことができたのでした。
お聴き頂く作品も、そんな中のひとつです(演奏は大学オケのものではありませんが)。

・サン=サーンス「死の舞踏」作品40
「死の舞踏」
バレンボイム/パリ管弦楽団(1978) Deutsce Grammophone UCCG-9315

・・・夜なら雰囲気は違ったのでしょうが、大学のオーケストラの昼のコンサートは聴く側にとっては気楽なもので、あるとき、最前列の、指揮台の真ん前に、野球帽をかぶったまま坐って聴いていたことがありました。その時の指揮者は、当時テレビ「オーケストラがやって来た」にも頻繁に出演し、その後札幌交響楽団の常任を務められたペーター・シュヴァルツさんでした。数回この大学オケを指揮して下さったシュヴァルツさんがどのプログラムで演奏した時のことかは記憶にないのですが、覚えているのは、全プログラムが終わった時、ナマイキな恰好で聴いていた子供の僕に向かって、彼がにこっと笑って手を振って下さったことです。
「ああ、こんな人の指揮で演奏したい!」
夢見心地で帰路に着きましたが、後年この大学オケに入った時にはもうシュヴァルツさんの客演は無く、夢に終わりました。ただ、シュヴァルツさんの思い出は、その棒の下で弾いた先輩たちにとって貴重な体験だったようで、彼については褒め言葉ばかり聞かされ、軽口話も悪口をも耳にしたことがありません。・・・札響を去られた後どうしていらっしゃったのか、調べたのですが、とうとう分からぬまま、こんにちに至っています。



サン=サーンスが見事に描いている「死の舞踏」(曲についてのWikipedhia記事をリンクしておきます)は、もともとはマニエリスム美術の題材として絵画に多く書かれたものでもあり、だいぶ前には中公新書で、近年では八坂書房(藤代幸一『「死の舞踏」への旅』)で、この題材が採り上げられた背景を丁寧にフォローした発表がなされています。(ここに美術上の「死の舞踏」へのWikipediaリンクを貼っておきます)。ペストが大流行し、戦争が百年も続いた時期の題材とはいえ、髑髏(どくろ)が平気で描かれる感覚は、土葬が普通で骸骨を目にすることに慣れていたヨーロッパ人ならではの、現実の残酷さに臆することの無かった精神のなせる技、と、ただ感心してしまいます(日本人の作品では、文学には『方丈記』のようなものが、美術品では『地獄草紙』・『餓鬼草紙』・『病草紙』、何種かの小町変相図がありますけれど、どこでもかしこでも髑髏を描きまくった中世ヨーロッパ後期のような<生と死の直視>の姿勢は薄く、むしろ死の恐怖の前で後ずさりしているように思えます)。

サン=サーンスは最初神童としてデビュー、モーツァルトのような不幸には会わずに順調な音楽活動を続け、「私の作品に欠点は無い」と豪語した人物です。この発言をした際、聞いていたベルリオーズ(だったかな)が「だからつまらないんだ」と応酬した、というエピソードもあります。ですが、作品は「動物の謝肉祭」のようなものを例外として、堅実ながらも決して「退屈」ではない傑作も少なくなく、3曲の交響曲、4曲のヴァイオリン協奏曲、5曲のピアノ協奏曲なども、なかなかに魅力があります。一時期はこの『死の舞踏』が、日本では最も演奏頻度が高かったのではないかと思います。長寿だった彼の晩年、山田耕筰が彼と面会を果たしています。長寿のおかげで、自身の弾いたピアノの録音も残っていますが、ノイズの中から透けてくる彼の演奏から察するに、清潔な音を出すいいピアニストでもあったように感じられます。
『死の舞踏』自体は、グレゴリオ聖歌の「怒りの日」を織り込んでいる点でベルリオーズの幻想交響曲終楽章、明方と共に死霊が去って行く描写を含むことでムソルグスキーの『禿げ山の一夜』を連想させてくれ、たった6〜7分の演奏時間のあいだに、題材とタイトルからは想像しがたいほど「面白い」音楽世界を繰り広げてみせてくれます。


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