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2008年11月26日 (水)

ホルンにサヨナラした日〜ショスタコーヴィチ「祝典序曲」:好きな曲013

心臓移植への応援の願いサイト「大樹君を救う会」
http://savedm.web.fc2.com/
・・・是非、お目通し下さい。



ファジル・サイのつくば公演もお聴き逃しなく!
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/in-808f.html


「へりくつ」には違いないのでしょうが、純正な「へりくつ」よりは「初老の回想録」みたいになってしまっていて恐縮です。・・・勉強は、難しい。。。


2ea7dc20a3aea59c_2吹奏楽部のない2年間を過ごし、進学したらまたブラスバンドでホルンを吹くのが憧れでした。
で、高校に入ると、さっそくブラスバンドに入りました。男子校2つが合同演奏会を開く、というかたちで活動をしており、結構な規模の曲が演奏できました。
ただ、クラシック馬鹿一直線の私には、ビッグバンドもどきはまだしも、ブラスバンドがポップスもやるのにはどうしても抵抗がありました。それが、結局はブラスバンドを離れる最初の要因になったのではないかと思います。
ただ、規模が大きいので、不満足ではありませんでした。クラシック・ナンバーも、オーケストラ曲のアレンジではありますが、たった一度参加した合同演奏会で、優秀な編曲の大曲を4つ演奏できました。
ひとつは、ヴァーグナー「エルザの大聖堂への行進」(楽劇「ローエングリン」のなかでは第2幕に合唱曲として現れ、その合唱に、有名な結婚行進曲が続くのです)、ドヴォルジャーク「新世界から」第1楽章、ベートーヴェン第5の3〜4楽章、それに、お聴き頂く、ショスタコーヴィチ「祝典序曲」でした。1年生であったにもかかわらず、ヴァーグナーでは1番を吹かせてもらえるとのことで、大喜びしましたが、実はそんなに目立たない、四分音符の伴奏を吹くのでして、しかも音程を外すと曲がぶちこわしになるというクセモノパートでした。ドヴォルジャークではどのパートを拭いたのか忘れました。ベートーヴェンでは2番、ショスタコーヴィチでは3番を吹いたように思うのですが、逆だったかもしれません。

・ショスタコーヴィチ「祝典序曲」作品96(1954)
「祝典序曲」
アシュケナージ/ロイヤルフィル London POCL-5263

合同演奏会があったのと前後して、突然、
「オーケストラに入ってヴァイオリンを弾かないか?」
との電話がありました。オーケストラをやっている知人なんて全くいませんでしたから、中3の時テレビに出たのを見ていた人だったのでしょうか?・・・ジュニアオケでした。ここでは波瀾万丈(というほどでもないか)を味合わされることになるのですが、そんなことは思いもよらず、心はオーケストラに傾き、なおかつ、ブラスバンドの練習が生徒だけ(先生の指導は一切ありませんでした)の好き勝手な雰囲気だったのも気に入らず、短気を起こしてやめてしまったので、今さら他に行き場もなく、ホルンは買うほどの財力もなく、誘われたジュニアオケで、安く買った持っていたヴァイオリンを弾き続けることになったのでした。「仙台ユースシンフォニーオーケストラ」という名前のそのオーケストラで2回目に出演したコンサートは、私が心の中で「ホルンにサヨナラした日」になりました。・・・で、この「仙台ユースシンフォニーオーケストラ」も、ある意味、内容的には数年後に崩壊を迎えるのです。・・・いま仙台にいくつジュニアオーケストラがあるかは知りませんが、その中に、このオーケストラの直系を称する団体もあるかも知れず、とくに私がいた当時から頑張っていたメンバーもなお応援し続けているのかもしれませんが、私という存在はそこからはもう抹消されているでしょう。悲しいけれど仕方のないことです。・・・それでも、その頃のお話は(仙台の方が読んで下さるかどうか分かりませんが)いずれ記しておきたいと思います。・・・私には、楽しさも、嬉しさも、悲しさも、寂しさも、全部教えてくれた、貴重な団体だったからです。



さて、それはさておき。

ショスタコーヴィチは私の少年時代はまだ活躍中(もう晩年でしたが)で、中学時代に、結果的に彼の最後の交響曲となる第15番(1972年=昭和47年、私は中1でした)が初演される、というニュースは、中学生ごときまでを大興奮に巻き込んだものでした。ですが、日本初演のラジオ放送でやっと耳にしたその作品は、当時誰でも知ることが出来た彼の唯一の作品だったと言える「交響曲第5番」(地方都市では、特別に好きなヤツなら7番も知っていた、しかも7番や、出たての15番のレコード【子息マキシムが指揮したものでした】を持っているヤツなんて金持ちに決まっていたという程度でした)に比べるとあまりに軽妙なうえにウィリアム=テルの動機の引用が出て来たりする、どことなく拍子抜けする第1印象のもので、聴いた翌日からは誰も話題にしなくなったのを覚えています。・・・交響曲第15番の真価は、日本ではもう少し後になって初めて理解されたのではないでしょうか?

ショスタコーヴィチの「祝典序曲」は、内容としては彼の交響曲や協奏曲、若き日のバレエ音楽、不幸だったたった一作のオペラに比べると、極めて穏健な、その分平明な作品です。ロシア革命37周年記念作品として書かれたため、大衆的でなければならなかった、という事情もあるでしょう。(1952年のヴォルガ=ドン運河完成記念のために書かれた、との説、1947年の革命30周年のためだったとの説もあります。なぜこのように作曲年代に多くの説があるのかについては、ショスタコーヴィチに大変お詳しい工藤庸介氏の著書『ショスタコーヴィチ全作品解読』85頁をご参照下さい。)比定される作曲年代の最後のものを除けば、いずれにせよ53年まではまだスターリンが存命でもありましたから、彼の1945年作の交響曲第9番(当局はベートーヴェンの「第九」の洋に壮大なものを期待していたが、ショスタコーヴィチは短くてユーモラスな曲想に仕上げた)に始まり、スターリン死去の1953年にはスターリン批判を盛り込んだとされる重い交響曲第10番を仕上げていますから、当時のショスタコーヴィチにしては作風が素直なのは、『森の歌』同様のカモフラージュだった可能性もあるかもしれません。・・・それでもなお、『森の歌』にせよ『祝典序曲』にせよ名作であるのは、ショスタコーヴィチの腕の確かさを証明しています。

なお、この序曲の冒頭は、1944年に娘ガリーナのために書いた『子供のノート(音楽帳)』作品69の第7曲(全音版の楽譜でのタイトルは「誕生日」)を元にしたものです。これにはショスタコーヴィチ自身の演奏した録音があります。お聴き下さい。

・誕生日
誕生日
Revelation RV70007

最初に聞こえる声は、ショスタコーヴィチ本人のものです!

この曲を含めた『子供の音楽帳』、政治家たちのパーティの際に父と共に招待を受けたガリーナが、演奏途中で弾けなくなって泣き出し、あわてて父がそのあとを引き取って弾いた、というエピソードが残されています。


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