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2008年11月 8日 (土)

「わたしの苦悩は誰もしらない」(黒人霊歌):好きな曲003

心臓移植への応援の願いサイト「大樹君を救う会」
http://savedm.web.fc2.com/
・・・是非、お目通し下さい。



ファジル・サイのつくば公演もお聴き逃しなく!
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/in-808f.html


大声で歌うのが大好きだった小学校低学年時代、もらった歌集にたくさん載っていたのはフォスターの曲でした。歌わなくなってからも、フォスターのメロディはずっと好きでした。ですが、それをレコードやCDで聴いたことがありません。
唯一持っていたのは、『黒人霊歌集』で、結婚してから、合唱の指導もしていた家内の影響で買ったこのCDには、フォスターの作品は含まれていません。1曲を除き、作曲者の分からない、19世紀以前からの純正の「黒人霊歌 The Negro Spiritual」で、有名な数曲を除き、私の耳に馴染みのないものでした。
・・・その中から、美しくて、誰の心にも響くのではないかなあ、と(勝手に)感じた曲をひとつ。

「わたしの苦悩は誰もしらない」
「わたしの苦悩は誰もしらない」
ロジェー・ワグナー合唱団  EMI TOCE-8969



通った小学校の近くには、今で言う「孤児院」がありました。キリスト教系の施設で、男の子の方はラサール会が作ったもの(函館ラサールなどを作ったのとおなじ会ですが、こういう事業もやっていたわけで、今もあります)、女の子の方はカトリックの修道院でした。ついでながら、修道院は私の大叔母が私の生まれる6年前に27歳で結核で息を引き取った場所でした。その大叔母の遺骨は、半分は実家の墓に、半分はカトリック墓地に、と分骨されています。今日の思い出話からは10年ほど後の話ですが、カトリック墓地に眠る大叔母は、高校から大学時代にかけての私の、いちばんの心の支えでした。・・・その話は、ひとまず措きます。

で、そこの子供たちも、私たちの小学校に通っていました。
女の子の方は数もあまり知りませんでしたし、印象に残っていないのですが、男の子たちは、だいたいが「乱暴者」で名を鳴らしていました。当時の私はノンビリやでおっとり気味だったのですが、それが付き合いやすかったのでしょうか、仲が良かった友達の殆どは、この「乱暴者」の子供たちでした。施設にも、毎日遊びにいくくらいでした。ですので、他の「乱暴者」グループから私がいじめられると、こちらがわの「乱暴者」グループが私を助けてくれる、という具合でした。あの頃は世の中も学校も、子供の「乱暴」にはそううるさくはなく、「乱暴者」=「学校ののけ者」ではありませんでした。そのおかげでしょうか、少し前の頃のように子供が公共施設を壊すといった事件は、まずありませんでした。でも、喧嘩となると、持ち出してくる道具はすごかった。ナイフあり、自転車のチェーンあり、木刀あり、何でもありでした。ただ、自分たちで加減が分かっているので、相手を実際に怪我をさせることは無い。それでも、その場面はちょっとした映画に出来るようなもので、広場に「武器」をもった子供軍団が草ッ原の右と左に別れてにらみ合いをするところから始まるのです。どっちかの親分の合図で、うわーっと、掛かり合いが始まる。・・・で、暗くなると自然に終わるんで、そこは拍子抜け、なんですけれどね。
施設に遊びにいくと、だいたいちょうどおやつの時間で、施設の子供たちにはおやつが配られるんです。当然、私はそこの子ではないから、貰えない。そうすると、保母さんがいなくなったのを見計らって、分けてくれようとするんです。家から「そういうときは絶対貰っちゃいけない」と言われていたので、迷いましたが、結局は貰って食べました。
何人かの友達に、素朴に訊いたことがあります。
「ねえ、○○君には、なんで、おとうさんとおかあさんがいないの?」
死別は、訊いた限りでは全くいませんでした。子供ですから突っ込んだ事情はわからないのですが、親の離婚か、経済破綻が、ここの子たちが施設に預けられた理由の殆どを占めていて、親の経済問題が解決するとまた親に引き取られて施設を出て行く子もいました。作家、井上ひさしさんも、この施設にいたことがあります。但し、私の親の世代です。

そんな友達のうちの一人が、あるとき、
「このごろさあ、とうちゃんから手紙が来なくなったんだ。半年前くらいまでは毎月くれたのにな」
と言ったのを、ずっと鮮やかに記憶しています。ですが、その友達が、手紙のことでどんなふうに胸を痛め、どれほどの寂しさのうちにあったのか、ということに思い至ることが出来るようになったのは、その友達とあうことがなくなってだいぶたってから・・・高校時代くらいの頃から、だったと思います。



黒人霊歌は、ご存知の通り、本来はアメリカの黒人奴隷たちが独自に歌い続けて来たキリスト教の聖歌です。
奴隷貿易自体は、現代(19世紀以降)の倫理観とは違う世界でなされていたことで、欧米に独自のものではありません。古代から、洋の東西を問わず、戦争に勝った側が敗者を奴隷として使役していたのが中世までの常識で、戦勝国が他の国と友好関係を結ぶとき、自国の余剰奴隷を相手国に進呈することもごく普通に行なわれていました。ただし、奴隷、というものに対する考え方も現代の価値観とは違い、人権の8割から9割は認められなかったにせよ、独自の家庭を持つことは許されたり、家政に大きな貢献をした場合には奴隷身分から開放されて自由人となるケースもありました(真偽不明ながら、イソップはそうした一人だった、という伝承もあります)。
こんにち常識と見なされているようなかたちでの黒人に限定された奴隷貿易の発祥は、15世紀頃にスペインやポルトガルが黒人を本国に連れ帰るようになったのが発端で、当初は古代からの奴隷貿易の延長線上でなされたものでした。(そのため、インディオの征服については敏感に非難を繰り返した聖職者たちも、現代から見れば驚くべきことですが、黒人奴隷については全く意に介していないのです。)
ヨーロッパにとっての新大陸発見と、とくに北米に於ける急激な開拓拡大が、それまでの奴隷貿易の常識を崩しました。余剰人員としての奴隷以上の数を奴隷として確保しなければならなくなり、開拓を進めるためにはさらに、このタダで使える労働力の最低の権利まで認めるゆとりもなくなり、17世紀までに安定してしまったアジアとの関係から、アジア・ヨーロッパは奴隷供給地域ではなくなり、アフリカに限定されてしまったのが、黒人奴隷の悲劇につながったのです。

こうしてギリギリまで追いつめられた奴隷たちによって編まれた、本来の黒人霊歌の歌詞は、聖書の故事に託して巧みに隠しながらも、悩み苦しむ人間の素直な声を切々と伝えるものとなっています。

シャカの(あえて「仏教の」とは言いません)言葉に、次のようなものがあります。
「こころがどんなところをさまよっても、自分自身よりいとしいもののところへたどりつくことは決してない。同じように、ほかのひとにとっても、そのひとの自分自身がとてもいとしいのです。だから、自分自身がいとしくてあがいているひとは、ほかのひとをいためたりしてはいけないのです」
(石飛道子『ブッダ論理学』講談社選書メチエ中の言葉を私なりに改変したものです)

歴史上かつてない苦しみ、悲しみを味わった黒人奴隷たちのかたちづくって来た歌詞には、このシャカのことばに通じる優しさがあることを、最後に見て頂きましょう。鍵は、「自分の」苦しみを「苦しい」と歌っているのではないところにあります。でなければ"Glory Hallelujah!"という言葉は出て来ないでしょう。
もう一度、歌詞と対比しながらお聴き下さい(和訳は添えません、ご容赦下さい)。

「わたしの苦悩は誰もしらない」
「わたしの苦悩は誰もしらない」

Oh, nobody knows the trouble I've seen
Nobody knows but Jesus!
Nobody knows the trouble I've seen, Glory Hallelujah!
Sometimes I'm up, sometimes I'm down, oh, yes Lord.
Sometimes I'm almost to the ground, oh, yes Lord.

※念のため、ですが、"I'm almost to the ground"とは、「(地に倒れふして)死にかけることもある」という意味です。upもdownも、ここから類推して意味をお汲み取り頂ければよいかと思います。


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