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2008年10月13日 (月)

音楽美の認知(7):「涙は脳から出るのではない」

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このごろ恒例のようにしてしまいましたが、まずお聴き下さい。
その際、お願いがあります。
これを聴いた後でのまとめての印象で、ではなく、最初どのように聞こえ、次にどのように聞こえてくるのか、をメモしてみて下さい。それから以下をお読み頂ければ、大変ありがたく存じます。




ゼキ博士『脳は美をいかに感じるか』第7章<視覚のモジュール性>の主眼とするところをまとめるのは難しいのですが、用いられている専門用語を出来るだけ省略してまとめれば、次のようにでもなるのでしょうか?

「(従来はそこで視覚像が一括して処理されると見なされていた、)網膜の像を受け取る中心的役割を果たす領野(V1)は、実は受け取った像を各種処理を施す特殊な領野へと即座に分配する。特殊な分野は、例えば、<赤なら赤の色にしか反応しない(V4領野の一部)>・<左から右への運動にしか反応しない(V5領野の一部)>等々、像のうちにある、かなり特化された現象だけを処理する。」

しかし、私たちは、そうやって受け取られる像を、一度に知覚している、と信じて生活しています。それでも、種々の実験から、中心領野(V1)から各特殊領野への分配は、35ミリ秒から70・85ミリ秒かかっており、領野によって分配された情報を受け取るまでにかかる時間が早いもの、遅いものがあることが分かっています。
「動きよりも前に形が、形よりも前に色が知覚され、動きに対する色の先行時間は約60-80ミリ秒だった」(142頁)。

それらが統合されて初めて、私たちはその像を見ているのだ、と、果たして本当に思っているのでしょうか、感じているのでしょうか?
「本当に思っている」
というのが、端的に言えば、<クオリア>という、ほんの一事象の呼称を、「脳の受容像の統合された結果こそ知覚である」というところ(哲学的用語)にまで地位を高めさせ、崇拝する立場なのではないか、と、私見では考えております。
ところが(ゼキの本論には全く関係がないのですが)、もし<クオリア>というものがそのような「統合の結果であり、知覚の源泉である」とすれば、視覚健常者と視覚障害者の<クオリア>が違っても然るべきである、という矛盾が生じます。・・・現実は(私自身が経験したところでは)そうではありません。私に「見える」像は、(障害の種類にはよりますが)視覚障害者にとっても「同じ」に見えるのです。
突き詰めれば、たとえ<クオリア>が知覚の究極だとしても、そこにはおそらく人の数だけの差があり、同一なものは存在しない、と言ってしまってもいいのですが、そうしたニヒリズムに陥るのは(それが私のホンネであっても)ここではやめておきます。「類似」という言葉も、半端ですから避けます。あくまで「同じ」、とのみ言っておきましょう。

ゼキの呈示している、脳そのものには、しかし、統合のはたらきが、いまのところ見出されていないのです。
「・・・脳損傷の事例において、脳内の特定の部位の損傷後に、他の知覚システムの機能はそのままで、ある一つの知覚システム(中略)のみが障害されるような証拠が得られており、異なる処理・知覚システムが相応の自立性を持ち、最終的な統一像を生み出す統制領野は存在しない」(145頁)
と受けとめ得る事例が多々あるのであって、
「広義に解釈すれば、非常に短い時間枠では、脳は同時に起こったことを結びつけることはできないとみることができる。したがってリアルタイムに結びついているわけではないのである。」(143頁)



ゼキが追いかけているのは「美術」の世界ですが、音楽でも同じことがいえるのではないか、と私は受けとめています。本章でゼキの採り上げた脳の働きの、どの領野がどういう働きであるか、という細目を捨象すれば、絵を見る「瞬間」と、音楽を聴く「瞬間」に、知覚上の差異はないと思われます。

音楽会の印象をひとことにまとめるのは、曲を聴き終わり、音楽会が終わったあとで行なわれる、まったく別の心のはたらきであって(すなわち、仮に心が脳からしか生み出されないのだとしたら、それは脳の「知覚」とはまた別の段階で行なわれるはたらきなのであり)、音が鳴った・・・それを受けとめた・・・その知覚の瞬間に、音を認知しうるまでには音の各要素について時間差があることは、演奏例を上げてもうまく示すことが出来る自信こそありませんが、聴き手としてでも、またなおさら弾き手としてならば、明確に意識できることを、私は経験していますし、これは「ジャンル」を問わず、好きな音楽をお持ちの方ならやはり同様の経験をもっていらっしゃるはずだと確信しています。

音楽が右脳で受容されようが左脳で受容されようが、いまはそんなはなしはどうでもよろしいのでして(ただし、後日、最相葉月さんのご著書『絶対音感』をご紹介する時にはこの話題にも触れることになるでしょう)、事実として、脳のある部位が損傷することで音色感を失った例がある、という記載が最相さんのご本にあるのを見出したときには、「やっぱり!」と、嬉しくて飛び上がる思いでした。(今日の標題は、最相さんのこのご著書の第七章のものをお借りしました。)

ただ、知覚される「音」の要素は視覚像とどのような類似性で区分できるのか、あるいはどのような相違点があるのかを把握できていませんので、視覚と聴覚の対比を正確に行なうことは、今の私の能力では、手に余ることです。

少なくとも音一つごとに「音の大きさ」・「音高」・「音色」・「持続する時間(時程)」というものが物理的には存在しますが、啓蒙書で見る限り、脳の領野でその受容が、どの部位で・どのような順番で・どのような時間差でなされるのかは、ゼキほど明確に記述したものには、残念ながら素人の私はお目にかかることが出来ていません。
経験的に推測するに、その順番は

・大きさ-->高さ-->音色-->持続時間

(視覚の場合とはずれていますが。視覚では、色-->形-->動きでしたね。)

ではないかなあ、と思うのですが、いかがでしょうか?
微妙なのは、大きさと高さの順番で、これは少人数で演奏するとき、自分がリーダーであれば、まず、相方の音が基準であるべき自分の音に比べて「高すぎる」か「低すぎるか」でストップをかけているような気がします。大きさの問題はその次、なのです。・・・難しいところです。

で、音楽を聴くとき、その響きを最初から一様に「音楽という総合体」としては、私の耳は捉えていない、ということも、しばしば感じます。
本日冒頭に掲げたのは、知名度の割に耳になさったことがある方は少ないのではないかと思いましたので(そうでもないかな?)、選んだものです。
最初にお願いしましたように、これが・・・聴いた後でのまとめての印象で、ではなく、最初どのように聞こえ、次にどのように聞こえてくるのか、をメモしておいて下さったのでしたら、私の「仮定」とお比べ頂き、
「Ken、そいつぁ、ちょっと違うぜ」
なんてお話頂けたら、とても幸せです。

ちなみに、曲は、ワーグナー「ラインの黄金」前奏曲。カール・ベーム指揮バイロイト祝祭管弦楽団の1967年の演奏です。この作品で始まる「指輪」4部作を、就職して初めて買って、居眠りしつつ何ヶ月かでようやく全曲を聴いたという、私にとって思い出のCDからのものです。(PHILIPS 412 475 2)

再掲しておきます。

本来、「時間のズレ」がそのまま「知覚」され、そのまま受け止めている例として「越天楽」も掲載するつもりでしたが、長い(9分!)のでやめました。モノフォニー(グレゴリオ聖歌でCDででるような洗練されたものを除く)やヘテロフォニーですと、この時間のズレがそのまま聴き手として受容できていることがよく分かります。いい事例があれば。。。


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