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2008年10月28日 (火)

「すみれ」と「老婆」:科学的<イデア>観の誤謬

(標題に掲げたモーツァルトの歌曲は、あとでこの文章に必要な「資料」として実際に聴いて頂きます。)



<イデア>という言葉には、愉快な思い出があります。
大学に入学したての日のことです。哲学なんてまったく知識が無かったに等しい私は、同級生になるはずの連中と会話しようがなく、たいへん困りました。なにせ、話題が哲学者の名前の羅列だったのです。・・・いま思うと可愛いもんで、出てくる名前はせいぜい「カント、ショーペンハウエル、ニーチェ」程度のものだったのですが、それでも私にはさっぱり分からない。で、高校の倫理社会の時間にきかされた話(男と女は最初はひとつだったのが、ゼウスの電撃で二つに割れて、出っ張りが残った方が今の男に、くぼみの残った方が今の女になったんだ、という、プラトーンの対話編『饗宴』のアリストファネスの上げたエピソードをさらに戯画化したものでした)の記憶くらいしかありませんでしたので、それまでの会話に名前が出て来ていないことをいいことに、
「プラトンがいちばん面白いよ!」
と見栄を切ったのでした。

そうしたら、最初の日の講義が終わったあと、自転車置き場に向かう僕の後をついて来たヤツがいました。なんでだろうか、変な奴なんじゃないか、と怪しく思って腰が引けました。
とっても天気のいい日でした。駐輪場に着くと、自転車1台1台の陰が、地面にくっきり映っています。
そのとき、後をついて来たヤツが、口を開きました。
「<イデア>って、もしかしたら、この自転車の陰みたいなものなのかな・・・」
・・・
「あのさあ、オレ、急ぐから、また明日な」
私はとっととその場を逃げ出しました。



今になって思うと、ヤツは多分、以前にプラトーンの『国家』を読んだことがあって、そのなかの有名な「洞窟の比喩」が強烈に脳裏にあったのでしょう。・・・ただし、意味は逆に捉えていたことになります。「洞窟の比喩」でプラトーンが述べているのは、(生まれながらに)洞窟の中に手足を縛られ、洞窟の奥の壁しか見られない者は、背中の方にある本当の光(太陽)と、それに照らされている事物そのものに気づくことが出来ず、それに照らされた実物の方ではなく壁に映った方の影を事物の本質だ、と信じ続けるだろう、というものです。・・・この先が重要なのでしょうが、いまはここまで述べておけば充分でしょう。詳しくは、今日の記事のテキストにした竹田青嗣『プラトン入門』178頁をご覧下さい。


いまでも私はプラトーンを含め「哲学」についてはちっとも分かってはいないのです。
ですが、(繰り返しになりますけれど)多くの名音楽家が
「音楽は音そのものであって、他の何者でもない」
と明言していることと照らし合わせ、同時に「音楽の美しさ」をむりやり「脳へのいい影響」に理屈で結びつけようとする考え方が絶えないことには嫌悪の気持ちも強く、脳の捉えられる「美」の限界を示すものとして非常にいいなあ、と感じたエミール・ゼキ『脳は美をいかに感じるか』に巡り会った時には有頂天になりました。この本は美術を対象としていますし、それに対する脳の反応がどこまで明確に分かり、どこからは明確に分からないかもはっきり記しているのにはたいへん好感を持ちましたので、せっかくだから、ゼキの記述を音楽とも対比させてみられないものか、と1章1章丁寧に読んでみようと試みて来ました。

ところが、第5章に至って(初めてさらりと読んだ時にも記されていること自体には気づいていたのですが)ゼキがプラトーンの『国家』からのひとつの比喩を、あたかも<イデア>の根本であるかのように考えている誤謬を抱いていることを自覚してから、この尊敬すべき書物の記述を読むのにも、懐疑の精神を忘れてはならないことを徐々に思い知らされました。(気づいた誤謬の内容についてはリンクした記事をご覧下さい。)



ここで、モーツァルトの手になる有名な歌曲2作を聴いて頂きましょう。

・「すみれ」
すみれ

・「老婆」
老婆

エリー・アメリンク/ジェラール・ムーア EMI CC30-9018

・・・さて、これらを、二つとも「美しい」と思ってお聴きになるでしょうか?

作曲者モーツァルトについて創作心理を推測しますに、仮に彼に音楽の「美」の標準(イデア全体ではなく)があったとして、後者は明らかに「美しくない」ことをもくろんで作ったはずでしょう。

では、それにもかかわらず、聴き手としての私たちは、どちらの歌をも「美しい」と思って聴くでしょうか?
答が「ノー」であれば、それはモーツァルトの創作心理に近いものでしょうから、それ以上言うことはありません。
「イェス」であったとすれば、話が違って来ます。
「美しくない」はずの歌と「美しい」歌を同列に「美しい」と評価するのであれば、そこには、聴き手の中に介在物としての何らかの「美の標準」が、また別個に存在するだろうからです。
それをたとえば「モーツァルトの作品であれば全て美しいのだ」(それにしては「音楽の冗談」なんて作品もあるのですが・・・脇に逸れっぱなしになるから、よしましょう)という「美の標準」だとする。それは、<イデア>というもの=<事物の理想像>であると前提してしまっている時には、<イデア>の一部分を構成することにもなり、同じ聴き手が「でも、武満徹の作品だって、武満徹の作品であれば全て美しいのだ」と別の「美の標準」をも併せ持っていたとすれば、<イデア>は異質のものの集合体であり、そこからある定型的な<事物の理想像>を引き出すことは不可能である、と見なすほかありません。



ここで我流にプラトーンの対話編を拾い出して読んでも、理解力が付いて行きませんので、私が最近、プラトーン哲学の最も優れた要約かつ総括であると感じた竹田青嗣『プラトン入門』(ちくま新書190、1999)から、そもそも<イデア>とは何であるか、についてまとめたものを数ヶ所拾い出すことで、上の<イデア>理解の誤謬を明らかにしておきたいと思います。・・・で、同書が体系立てた記述で明らかにしてくれていることは、まず、初期のプラトーンの哲学には<イデア>という言葉がまだ用いられていない、<イデア>はプラトーンが経験と洞察を深めて行った過程で初めて術語化されたものであることで、もしプラトーンの対話編そのものを読む場合には、その対話編がプラトーンの生涯のどの時点で書かれたかが非常に重要であることを示唆しています。ちなみに、有名な『ソクラテスの弁明』や『クリトン』は初期、『パイドン』『国家』・『饗宴』は中期のものでして、私の呼んだ浅い経験でも、そう言われてみれば、前者に<イデア>の言葉を見た覚えはなく、後者は逆に<イデア>を巡ってさまざまな「比喩」が飛び交う書物です。・・・これは、ご参考までに、ということにしておきます。

以下、竹田著の詳細はだいぶはしょりますので、これだけでは勘違いされるか、浅くしか読み取って頂けない危険性が99%ありますけれど、あとは「本当に興味があれば」竹田著そのものを読んで下さるようにお願いする他ありません。私の引用が、いかにこの本の全体像を捉えるには不十分すぎるか、は、よく分かって頂けるはずです。

私は今、ただゼキの<イデア>理解、すなわち科学に敷衍しようとして限定的な意味を付与されてしまう<イデア>像では、プラトーンが本当に言いたかったことが曲げられていることを見ておきたい、という目的だけで引用を行なうのですが、竹田氏は実際には<イデア>を巡る諸問題を現代哲学にまで広げて懇切丁寧に説明してくれています。

「哲学者たちがかくも熱心にものごとの『原因』を探求してきたその理由は何か(中略)・・・おそらく、『善く』生きたいとか『ほんとう』に触れたいという人間の欲求の本性が、それらの問いを作り出しているのだ。だとすると、真に探求すべきなのは、これまで哲学者が問うてきた『原因』それ自体であるより、むしろこの問いを動機づけている人間の欲求の本性それ自体ではないだろうか。/おそらくこのような考えから、プラトンにおいては、自体的なものとしての『原因』の概念(中略)という発想は捨てられ、『善』なるものの『本質』を端的に捉えようとする新しい探求の道が開かれたのである。」(167頁)

「プラトンは、あらゆる人間の欲望は最終的に『本当の美』へ向かうべきだ、といいたいのではない。むしろこうである。/人はさまざまなものに対する欲望をもつ。その欲望の形は千差万別だ。しかしそれにもかかわらず人間の欲望には、つねに より美しいもの より善いものを求め、ついにその対象を、何かこの上ない『ほんとうのもの』という形で思い描かざるをえないような本来的な性格がある、と。」(232-3頁)

「注意すべきはこの『本質考察(注:=思考が共通了解を得る上での哲学的な基礎付けの試み)』の原理が、論理の使用法を厳密に規定するという発想とはまったく違っているという点だ。論理学主義は、正しい判断や正しい認識という概念を前提とし、結局『真理』という概念にむすびつく。しかし本質考察という方法はあくまで『普遍性』という言葉を生かすものであって、いわゆる『真理』という概念にはつながらない。」(279頁)

「事物とは、むしろ知覚と事物の相関性において現象するものであって、知覚(あるいは感覚)も事物もそれ自体『不変な存在』ではない。つまり、感覚的な事物の存在本質は『生成』ということなのだ。事物が『何であるか』は人間のさまざまな立場や状況に応じて変わる、つまりそれはつねに『〜にとって』という本質を持つからである。」(286頁)

「『普遍性』とは、異なった信念の間から了解の共通項を見出すための原理をめがけるものだ。それは、現代の思潮が主張するような、『一切の事柄について唯一の正しい考え方がある』という絶対的思考と、むしろ本質的に対立する。」(316頁)



プラトーン自身の言葉ではなく、そこから竹田氏が引き出したものだけの引用になってしまいましたが、以上のことから、ちょっと考えただけでも、ゼキが<イデア>について脳神経科学から絶対的な何かを取り出せると発想していることは、概念としての<イデア>本来が目指す方向とは正反対に向かっていることはご了解頂けると思います。

これは蛇足になるのでよそうと思っていましたが、ちょっと最後に付け加えます。

ウィトゲンシュタインにとっては、と、突然持ち出すのも妙だと思われるかも知れませんが、彼は論理の追求者であり、その限りにおいては<イデア>という概念自体は、彼の提示している
「原始記号の意味は解明によって明らかにされうる。解明とは、その原始記号を命題において用いることである。それゆえそれらの記号の意味がすでに知られているときにのみ、解明は理解されうる(3・263)」
ことよりもさらに包括的であり、
「pがqから帰結するならば、『p』の意味は『q』の意味に含まれる」(5・122)
ということよりもさらに巨視的でありながらさらに微細であって、ウィトゲンシュタインの『論理哲学考』を解説したラッセルの弁によれば
「哲学は科学よりも上に、あるいは下に位置しなければならない(とウィトゲンシュタインは考えていた)」
すなわち哲学は科学のカヴァー仕切れない領域について思考するためのものだ、という理念をもってこのような結晶化を成し遂げて来た帰結をもってしてなお、「原始記号」だとか「意味の包含」という以上にフォローできなかった広がりを持っている・・・おそらく彼はまだ、そういう「世界」を信じることを続けていたし、出来ることなら論理を超えてその世界にまで達したいとの思いを抱いていたのではないか、ということも充分想像できるのです。



「音楽とは音そのもの」である、と、およそ音楽家の信念として述べられ続けていることが、それでは果たして、ゼキの後半部(第二部、第三部)で科学との接点が見出せるかどうかは、あるいは、ウィトゲンシュタインがまだ見ていた夢をフォローすることにもつながるのではないか、であれば、ゼキの読書と考察はなお続ける意義があるかもしれない、と、以上のことから考えている次第です。

本来は門外漢ゆえ、プラトーンやウィトゲンシュタインについて誤った認識を持っての再スタートになるのかも知れませんが、そのあたりはご指摘頂きながら、またゼキの続きに取りかかって行くことと致します。


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