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2008年10月 9日 (木)

ほんとうに知りたいこと

大宮光陵高等学校音楽科23回定期演奏会、是非お越し下さい。



本当に知りたいこと、って、何なのでしょう?
・・・いや、自問だと思って下さって結構です。

ノーベル物理学賞・化学賞それぞれのニュースが朝に放映されたとき(私にはそれ以外にテレビでニュースを見るチャンスがありませんから)の対照的な映像を見ながら、ふと「思い浮かんだ」問いです。

共通していたのは、家族や親族への「感想」インタヴュー。受賞理由に触れることは、全く無し。
受賞者そのものについては、最初の日の、物理学賞の受賞者のお一人が、記者会見の席でなぜだか涙ぐんでいる映像が映りました。泣き声ですから、お話になっている中身は分からない。でも、映像が映ったあとで、そのときこのかたがお話した内容についてはなにも触れられていない。
次の日の、化学賞の受賞者のかたの映像では、そのかたが「クラゲ」を入れた瓶を幾つも持って来て楽しそうに話している。
いずれにせよ、受賞者のお姿は「こんなかたたちか」と分かったものの、受賞理由についてはきわめてざっとした説明しかない。ですから、その理由でなぜ受賞できたのか・・・文化経済的に世間に大きな影響を与えたからなのか・では、その影響とはどれほど大きいのか、というより、その大きさがそれだけ私(たち)にとって身近なものなのか、さっぱり分からなかった。
「受賞した」そのことは、確かに「大きな」ニュースかも知れません。とはいえ賞をとった理由の「大きさ」のほうが、本質的にはよりウェイトが高いはずだと思うのですが、映像もニュースの語りも、理由については私(たち)にきちんと中身を伝えようという意図は感じられなかったですし、家族が喜ぶのは別に当然で、まずは速報・ダイジェストであるべきのニュースで、なんでそんな、あとで特集番組でも組んだ時に映せばすむようなものをわざわざ取り込まなければならないのか・・・
・・・いや、そんなふうに感じてしまう私(個人)は人間として変わり者に属していて、世間一般では、人はそういう「毀誉褒貶」・「喜怒哀楽」だけに興味を引かれ、それさえ見れば事足りるのか?

ノーベル賞の受賞理由についての詳しい理由は、Webサイトなどでも詳しく述べたページもありますし、いまこれを綴っているのはノーベル賞について語りたいからでもなんでもありませんから、適宜検索なさって下さい。・・・賞そのものにご興味のある方は、そもそもこんなマイナーブログのこんな駄文を読むこともないでしょうが。



対照的に、国際的な賞でありながら殆どニュースにならなかったのが、昨日掲載した「ランパル・コンペティション」での日本人青年の優勝です。かつ、サイトを探しても、当日どんな演奏で優勝できたのかは、正直言って文章からは皆目見当がつきませんでした。かろうじて、入賞者の青年には熱烈なファンがいらっしゃるらしく、過去の演奏を聴けるサイトが存在しましたけれど、過去の演奏例がランパル・コンペティションの入賞の本質にどこまで迫れるか、は、私(たち)の「聴く耳」次第です。

もうひとつ、「賞」のジャンルによって、受賞して日本国内で経済的に潤える人もいれば(寄付しちゃったり基金を作ったりして還元するケースが多いので、これは不当な表現ではあるのですが)、少なくとも日本国内では小さいか、ゼロのメリットしかくれない「賞」も、あまた存在します。具体的に上げたいものが喉元まででかかっていますが・・・よしましょう。そのコンクールを目指す、将来ある若い世代を傷つけてはなりません。(ノーベル賞の受賞者の中に「近頃の若い人は云々」をなさったかたがいらっしゃいました。お人柄には好感を覚えましたが、この仰りかたは幾世代にわてってもの<老人の口癖>でして、その部分は好きではありません。なぜ、むしろ「工夫の仕方」を直裁に語って下さらないのか。そもそも一生懸命な人は年齢の如何を問わず「ラクをしよう」などという発想はないのです。そこには、ご研究ひとすじであることの「狭さ」を感じずにはいられませんでした。・・・蛇足でした。)

ともあれ、「賞」なるものにそういう差異があること自体が、昨日ふと自分がつぶやいてしまった「コンクールというものそのものに疎い」ということ・・・興味が薄いことの原因になっているのではないか? 本当にそうなのか? ・・・それは、自分でもよくわかりません。



クラシック音楽のブログですから、クラシック音楽で話しましょうか。

「現代音楽」というものに馴染んでいる方は例外として。(しかし、「現代音楽」と称するものもCDショップでは「クラシック音楽」の棚に並んでいるのですが。)
私(たち)が「クラシック音楽」だ、と思っているものからは<はみ出た>音を聴いて、
「これも音楽なのか?」
と感じることができるでしょうか?

・サンプル(とは言っても、既に結構前の作品なのですが)
sample

これが「クラシック音楽」だと即座に感じられないのだとしたら、それは何故なのでしょうか?

(以下、ちょっと古代インド哲学的な問いかけかたになりますが、ご容赦下さい。)

そもそも、私(たち、または個人)の中に、「クラシック音楽」というものは「こうあるべし」という、何らかの雛形がある(ゼキ博士『脳は美をいかに感じるか』を用いながらのフォローをお読み頂ければ幸いです。まだ序の口の部分までしか終わっていませんが、カテゴリ「心と体」で絞り込めます)のかもしれませんが、ではどういう雛形があるのか。

ならば、雛形について「分かり」さえすれば、私(たち、または個人)は、「クラシック音楽とは何か」を知ることが出来るのか?

次に、「クラシック」ではないにせよ「音楽」と感じるかどうかに分岐点があります。

「音楽」に聞こえないのだとしたら(と思って頂けるには適切なサンプルではないのですが・・・思いついた例が手元に在庫ありません)、それは私(たち、または個人)の中に、「音楽」全般というものは「こうあるべし」という、何らかの雛形があるからなのか?

「音楽」に聞こえるのだとしたら、それは私(たち、または個人)の中に、「音楽」全般というものは「こうあるべし」という、何らかの雛形があるからなのか? ないからなのか? そもそも雛形なるものが必要なのか?

それが分かれば、私(たち、または個人)は、「音楽とは何か」を知ることが出来るのか?



そもそも「音楽」とは何であるか、などという問いかけをするのは「愚人の振る舞い」でして、何であろうと感覚的に「音楽だ」と捉えられさえすれば、その定義を追い求めることは不必要なのでしょう。
ですが、私(個人)に今出来る問いかけは、そういう、無意味さに対する興味から湧き出るもののいろいろな側面に過ぎません。
いえ、何事につけ、「無意味な」問いかけを自分の内側でしてみる時間を、一日の中に1時間だけでもとってみる・・・そのことによってのみ、命を長らえている、のではなかろうか、と思っています。
最近はとくにそのようにブログ上の文が偏りがちでして、普通は検索で私のブログを(旧版を含め)読んで下さるかたの興味は、楽譜の基礎や演奏家・楽曲の分析なり感触なりを綴ったものに注がれていて、今日のこの類いの記事は、あまり読まれません。・・・「自問」だから、構わないのですが、「対話」の相手が自分自身だけになっていることには、ある種、「自分とはなにか、なにゆえに生きている意味があるのか」を突き詰め、結局は終点を見出せず、浮遊霊としての価値しかない存在になるのではないか、という危惧があります。・・・「危惧がある」ということ自体には、意識を超えた生存本能があるわけで、それだけが救いではありますが。


今日の記事を綴った、ノーベル賞のテレビニュース映像以外のもう一つの大きなきっかけは、昨日今日読みふけった本にあります。

小山登美夫「現代アートビジネス」アスキー新書061 2008年4月

小山さんは非常な実績をつまれた「モダンアート(美術品)」のギャラリストですが、8月にも新刊を出され、そちらはタイトルがそのものズバリ「その絵、いくら? 現代アートの相場がわかる 」(セオリーBOOKS) なので、モダンアートという美術品がなぜ簡単に百億円を突破するのか、そのからくりに興味を引かれた私はそちらから読もうかと思ったのですが、予算の関係で新書の方を選んだ次第です。

それでも、「音楽」を考える上で、小山さん的な発想をする人がどうして現れないのだろうか、とついつぶやいてしまったほどの感銘を受けました。・・・内容の是非論は措いて、まず、それは私のセンスからくる非理性的な感銘です。

・・・「アート」の値段のことは、さておきます。
この本に夢中になるきっかけとなった言葉は、本書の、わりと最初の方に現れます。もうひとつ大きなインパクトを感じた文も含め、今日はその2つをご紹介して、駄文を終えたいと存じます。

「新しいアートが世の中に受け入れられていく過程とは、今までまったく存在したことがないものに、どうやって価値を見いだしていくか、ということではないでしょうか。」(p.18)

「例えば『来月、パリコレがありますよ』という予告記事があっても、読者は誰も飛びつきません。知りたいのは、どのブランドがどんな服を発表し、全体としてどんなトレンドに向かっているか、その評価=判断であって、予告では意味がないのです。」(p.180)



なお、途中にサンプルとしてあげた「音楽」は、ウェーベルン『オーケストラのための6つの小品』第3曲です。(Boulez/L.S.O SONY SM3K 45 845)

・・・ちなみに、私自身は、これを「音楽」としてよりは、音で書かれた「俳句」であると受けとめています。勿論、勝手な思い込みです。演奏されなければならないのであって、「読まれるものではない」のですから。・・・が、また奇妙な問いに戻りますが、果たして、「演奏する」ということは「音楽」としての十分条件足り得るのでしょうか?

毎度、「読者は誰も飛びつ」かない文でした。


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