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2008年10月30日 (木)

必読 「ピアニストになりたい!」 岡田暁生

・・・などという標題にしながら、私自身は立ち読みです。 (^^;

*給湯器・洗濯機が立て続けに壊れて修理不可につき新品に交換!
*手続ミスで家内の墓所の永代供養料未納(バチ当たり!)・・・まあ、これはたいした金額ではない
*息子と娘の誕生日がほぼ間を空けずにやってきて、プレゼント代奮発!
*車検代のドカンと出費!

等々ありましたが、これで11月になれば一息つけるかな、と思っていたら、子供の保険料を年払にしていた引落期日が今月の給与日の翌日でした。・・・覚えてなかった。

これが、地雷でした。

数日後には所属するアマオケの合宿が控えています。娘が学校行事(但し親は関わらなくてよい)で行けないため、実家の母に留守番に来てもらうことにしたのですが、
「まあ、旅費プラスアルファくらい出すからさ!」
と大口叩いてしまった。・・・地雷があるとは気づかずに。。。

というわけで。

<家計崩壊>です。
<家庭沈没>です。

なので、
「本屋に行ったらすばやく立ち読み」
が、ここ最近の実情でありました。
うちあけますと、「N響80年全史」の内容も昨日記憶でのみ綴ったのも、おなじ事情によります。(T_T)

ですから、現物を手になさって、ご紹介する内容と齟齬がありましても、何卒ご容赦下さい。m(_ _)m



R.シュトラウスの「バラの騎士」に関する鋭い考察を読ませて頂いてから、岡田さんの著書は、「次は何をお書きになるのかな」と、楽しみにしています。自宅も職場も大きな書店や楽譜屋さんとは距離があるし、特別な目的が無い限り、基本は現物に目を通してから購入、というのを原則にしていますから、殆ど読めているわけではないのですが、私にとって、クラシック音楽への「切り口」が斬新かつ鋭い著述をなさっている、と感じるお一人です。(他にはクラシック音楽については、何を書かれていても安心して読んでいるのは、日本のかたでは石井宏さん、水谷彰良さん、西村朗さん、美山良夫さん、訳業も含めて東川清一先生のご著作です・・・と、何故か東川さんには先生をつけてしまう。どなたも先生なんですけど。かつ、私は別に移動ドには固執していないのですけれどね。中国の専門家と交流してまで、そこを徹底的に突き詰める姿勢に、高邁な精神を感じないではいられないのです。・・・つい、余談を綴ってしまいました。)
「価値観」という点ではそれぞれのかたがそれぞれの特徴がありますけれど、それには関係なく、「素直な思い」を「客観的なデータをもとに・ひねくりまわさず・徹底的に」語っている、という点で(石井さんの口調なんかはこの中では例外的に過激かもしれませんが)、このかたたちは共通しているように感じております。

ときどき、突発的に、たとえばこの前ご紹介した最相葉月さんの『絶対音感』のような本にもめぐり合えますが、精神は共通するものの、「クラシック音楽」畑に特化しないで著述を続けていらっしゃるかたの良書は、神様に手を引いてもらってその本を開く羽目に陥って、「おお、これは!」と、あらためて驚くような出会いをしないと、まず見落とす。

あるいは、せっかく初期には感動的な著述をなさっていた音楽関係者のかたが、売れ出したり、学会で隠し事をしたいなんて欲を出したりし始めると、だんだん乱れた本を出すようになってくる。・・・これはいやだなあ、と悲しくなってしまいます。(そういった例をも、いずれご紹介・・・しようかどうか、迷うな。やっぱり、やっちゃいけませんね。そのかたたちの「最初の頃」の情熱や愛情は、いまがどうか、ということで価値が落ちてしまうようなものではないですから。・・・ただし、一つだけは、近日、やるかもしれません。)

そういう意味では、上で選んだ人たちのご著作を読むのは、安全弁付き安心を得られる。
(この場でご紹介した数は少ないですし、ものによっては読んでいて素人なりに反論したくても、こちらはそこまで物事を知らないとの自覚もあります。ですから、「これは是非!」とまでお勧めするときには、よっぽど私も<目から鱗>状態にさせられた、と思って頂いて結構です。かつ、皮肉を綴っている場合には、皮肉っている私の大バカさから推し量って、その本のレベルが「相当低い」と断言してもいい、と、私自身は信じています。)



こんな前置きでは、
「なあんだ、じゃあ、結局は、岡田さん(たち)の本の中身って、穏健なのか」
という印象しか与えられません。

それでは、意に反しますけれど・・・まあ、文章がヘタクソなのだから、仕方ありません。

今日は岡田さんのご本の紹介なので、岡田さんの他著作でもっともたくさん読まれたであろう『西洋音楽史』を例にあげると、私自身は、岡田さんがR.シュトラウスを採り上げた際の濃密な過激さが基準になってしまうし、美山さんが別のご本(講談社現代新書)で述べられている、もっと前の時代についての岡田さんなりの独自見解が見当たらない気がするところにも欲求不満を覚えるのですが、信頼できるかたたちがこの『西洋音楽史』を読んだ印象は一様に「素晴らしい」とのことですので、
「うーん、やっぱりオレがひねくれているだけか」
と、逆に考え込まされてしまったりしていました。

9月に出たばかりの

『ピアニストになりたい!(19世紀 もう一つの音楽史)』

は、でも、文句無しに<眼から鱗>でした。

岡田さんの講義を受けていらっしゃる学生さんたちが羨ましくて仕方なくなり、嫉妬を感じるくらいです。



51jviynq6gl_sl500_aa240_何が<眼から鱗>なのか。

この本の素材は、「ピアノ教本」です。現行、ピアノ教室などで使われているピアノ教本は、19世紀以降の産物です。
で、本の主題は、それらの教本がどういう経緯で作られることになり、どういう経緯でこんにち私たちに浸透したか、です。

立ち読みですから、読み違いもあるかもしれませんが、導き出されている結論
「19世紀は決してロマン的な時代ではなかった・・・それが、この世紀におけるピアノに対する考え方の変化からも実に明瞭に汲み取れる」
という、言われてみればそうだけど、ちっともそんなことは意識したことが無いよ、というその結論が、じわじわと身に染みてくると、
「そうなのか、私たちも未だ、その延長線上でしか(音楽以外のことも含めて)モノが見えていない」
と、突然身震いを覚える瞬間がある・・・そんな間接的な強烈さが、<眼から鱗>なのです。

お楽しみを取り上げてしまってはいけませんから、チラッと見だけしていただくに留めます(それも、立ち読みゆえの間違いがあるかもしれませんから、疑わしかったら即、現物で確認して下さい!)。

18世紀までの音楽(楽器奏法)の「教程」では、「ミスをしないで演奏する」などということは含まれていなかった。含まれていたものの中には「音楽をいかに適切に表現するか」という美学的な記述が必ずあった。

チェルニー(彼は何でもマニュアル化せずにいられない性格だった、という意味のことを、岡田さんは資料に基づいて述べています)を境目に、折りしも貴族制が崩れた19世紀半ばから、演奏家にも従来の技術レベルを凌駕する人々が続出、その影響もあり、富裕家庭にどんどん普及していったピアノの「教本」に対する需要が生じ、「どうしたらあの名人達のように巧みに弾けるのか?」への解決へと目が向けられるようになった。その結果、ピアノの「教本」は、「ミスをしないための技術的な訓練法」が目玉になり、美学的な記述を含むこともなくなった。教授法も個人対個人ではなく、学校という場へ変化していき、教授内容も「技術を身につけるまで執拗に反復する」ことを奨励するようになった。技術の実現のためには、それを楽器の上ではなくとも練習できるさまざまな器具まで多種考案され、出回った。「コンクール」が生じるのも、同時期のことである。
・・・こうした流れは、実は当時の「体操」がどんどん高度なメカニックを要求するものへと変貌を遂げたことにも対応している。ひいては、社会が「メカニカル」なものにより傾注するようになったことにも対応する。

ではあっても
「19世紀の人たちだって、音楽をとても愛していたのです」
という愛情深い言葉が、この本を締めくくっています。



現状が「ロマン的」でなくなっていけばいくほど、人々は音楽に、(あるいは文学や美術に)ますます「ロマン」を求めたのだ、ということが、こんな拙い紹介文では歯がゆくなるほど、見事に記されていて、昨日の<音楽のイデア>についてのシュトックハウゼンとサヴァリッシュの間に認められた断層などの「謎」を解く上でも、日本人の音楽受容の姿が若き日の岩城宏之を怒らせた理由を読みとる上でも、さらには日本が導入した「西洋音楽」の受容が何故こんにちのような形になって(しまって)おり、それは果たして本当に素直な受け止め方だったのかどうか、考え直す必要はないか、ということまで、読後に扉を閉じてじっくり瞑想する材料を、「ピアニストになりたい!」ほど身近に与えてくれる本は、他にはなかなか見当たらないのではないでしょうか?


読んで頂かなくてもいい追伸)
今週考えてきたことをまとめると、アドルノを蚤程度の大きさのミニチュアにしたような感触になっているかもしれません。前回の話題にベートーヴェンの「荘厳ミサ」も「第九」も出てきますので、アドルノをご存知のかたには、なおさらそういう印象をもたれてしまうのではないでしょうか?
・・・ですが、見つめていきたい方向は、アドルノの帰結点とは対極的なところにあるのではなかろうか、との漠然としたイメージの方が、どちらかといえば頭の中で渦を巻いています。
もちろん、アドルノの求めたことなど私はとても理解しきってはいませんし、そうでなくても私ごときが壮大な「哲学」なんぞを組み立てるなんて「とんでもない!」と思っています。
ですので、最近ちょっと硬めな表現、ある意味でいい加減な「難解語」の多様をしてしまいましたけれど、
「馬鹿に使える<平易語>は無い」
ということで、ご寛恕を乞う次第です。

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コメント

フランクフルト学派の末裔のドイツ人教師から聞いた話
ーーアドルノはけっこうジャズピアノがうまい! みんな、笑って聞きました。

私の高校の大先輩は面識がありませんが有名なチェンバリスト、ピアニストです。今度横浜でバッハからモーツァルト、ベートーベンまでやるそうです。そうチェンバロ、フォルテピアノ等のプロといえばもうだいたいわかりますよね。

投稿: shakti | 2008年10月31日 (金) 14時53分

うーん、事情通ではないのでわかりませんが・・・
渡邊順生さんでしょうか?

それにしても、アドルノに「ジャズ」は、強烈な<皮肉>なんでしょうか? 真に受けてしまうと、ひっくり返りそうです!

投稿: ken | 2008年10月31日 (金) 17時28分

>アドルノに「ジャズ」は、強烈な<皮肉>なんでしょうか?

え、どういう意味なんでしょうか? 
でも、アドルノのジャズ演奏のビデオとかが残っていたら面白いんですがね。

投稿: shakti | 2008年10月31日 (金) 20時05分

いま手元に資料が無いので、勘違いだったら恐縮ですが・・・
アドルノの基本姿勢は、音楽については「大衆音楽への非常な嫌悪」があった、と記憶しているのです。もっとも、アドルノの日常生活を書いたものを読んだことはありません。ただ、たとえば(ホルクハイマーの手が多く入っているらしいそうですが)『啓蒙の弁証法』には、否定的なニュアンスで
「あるジャズ・ミュージシャンがシリアスな音楽の一曲、たとえばベートーヴェンのもっとも単純なメヌエットを演奏しなければならなくなると、別に恣意的に奏するわけではないのに、彼は自然にシンコペーションせざるをえなくなるし、悠然と笑みを浮かべては苦節を入れたい気になってくる。そういう自然らしさは、特殊なメディアの、絶え間なく洗われては増幅していくさまざまの要求によって、錯綜した姿をとりながら、新しい様式をつくり出していく。それはつまりニーチェの言葉を借りるなら、『様式化した野蛮人について語ることにまだ何らかの意味があるとすれば、それをもある種の<様式の統一>と読んでもさしつかえない非文化の体系』である。」(岩波文庫版 266-267頁)のような発言があります。

もっとも、アドルノの称揚した十二音音楽の旗手シェーンベルクがガーシュウィンと仲良しだったりするわけですから、議論上でジャズをどう云々していようと、アドルノだってジャズを熟知していたからこそだった、といえないわけではないですね・・・

ブルーノ・ワルターの場合は徹底してジャズを否定しましたし、見向きもしませんでしたから、上のような発言をする哲学者も「ワルターと同じだったんじゃないの?」と、私は想像していたのです。

投稿: ken | 2008年10月31日 (金) 21時52分

いや、よくよく考えてみれば、アドルノの否定したのは「おもてっつらだけの音楽享受」なのだから・・・ジャズは即興であるかぎりは、否定されるものの範疇にはとりこまれなかったのかな?

投稿: ken | 2008年10月31日 (金) 21時54分

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